12.I'll steal your heart
12.
7月13日(月)
もう全部、色の好きにしたらいい。
由稀
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次の日、由稀は全身傷だらけで登校して来て、ちょっとした有名人になった。事情を訊こうとは思わなかった。彼が一体誰と争ったのか、何となく察しがついたからだ。
相も変わらず、私は絵を描き続けていた。さすがに、授業をサボるような真似は控えるようになったけれど。自由になる時間はほとんど全て絵に捧げた。ただ、由稀との日記だけは、周囲の強い勧めから再開された。橋渡しをしてくれたのは相馬君だった。彼は二人の間に立って、日記を届けたり、催促したりしてくれていた。せっかくの厚意にも関わらず、私と由稀のやりとりは、中身の無い近況報告に終始していた。あんなことがあった後に深い話をする勇気が、私には無かった。由稀の方は、単に煩わしかったのかもしれない。
二年生になっても、私の暮らしはあまり変わらなかった。相馬君とは、二年連続でクラスメイト。やっぱり由稀は違うクラスで、今度は、加奈子ちゃんとも離ればなれになった。私は昼食を、独り美術室で食べるようになった。静かだし、美術書もいっぱい有るし、悪くない環境だった。画材の匂いの中だと、せっかくのお弁当が少し不味くなることだけが玉に瑕。自分がどんどん、周りのみんなから離れていくことがわかった。友達がどうとか、勉強がどうとか、恋愛がどうとか、他の人たちが執心していること全てが、私にはどこか縁遠く思われた。
美術部には、新入部員が入らなかった。これは後になって相馬君が教えてくれたことだけれど、当時校内において、美術部はちょっと異質だったらしい。アリス先輩の人望があったから、評判が悪かったわけじゃない。ただ、私も先輩もなまじ絵が描けたものだから、普通の人の目には、ハードルが高く映ったのだそうで。気楽にお絵描きしたい子が来るような場所でないことは確かだったし、先輩と二人きりでいられて、私は正直ほっとしていた。
「そろそろ、仕事の引き継ぎをしましょう」
アリス先輩がそう提案したのは、初夏のことだった。仕事というのは、アリス先輩が描いている、校内誌用の絵のことだ。校内行事とか、部活動の様子を簡単な水彩で描く。学校運営や他の部活動に貢献しているということで、美術部はこの仕事の見返りに破格の部費援助を受けていた。入部したての頃は私も真似してそういう絵に取り組んでいたけれど、最近はもっぱら、手の込んだ油絵や、そのための習作にかまけていた。でも、私が馬鹿みたいに絵を描きまくって画材を消費しても許されているのは、援助金のおかげだ。引き継ぎを拒むわけにはいかなかった。
その日から、前年と同じような部活訪問が始まった。今年は、挨拶も作業も全部一人。野球部やソフトテニス部を訪ねて、久しぶりに相馬君や加奈子ちゃんの姿を描いた。出来上がった絵は職員室でスキャニングして、広報担当の先生や生徒会に提出。毎回色々な人から、ご苦労様とかありがとうとか言われるのが、なんだか変な感じだった。
空手部に行くのは躊躇われたけれど、アリス先輩は問答無用だった。肩すかしというか何というか、いざ武道場を訪れてみると、そこに由稀の姿はなかった。
「いらっしゃい。毎年毎年ご苦労なことで」
戸惑いながら隅で練習を眺めていると、マネージャーの元クラスメイトが、にやにや笑って肩をぶつけてきた。
「あの、ユキは今日、休み?」
「竹中君なら、ついこの間退部したじゃない。なに、知らないの?」
驚いたように問い返され、私の頭は混乱を深めた。交換日記には、全然そんなことは書かれていなかった。入部したばかりの頃こそ、上下関係が面倒だとか、練習が疲れるだとか、色々文句も言っていたけれど。まさかこんな中途半端な時期に、今更退部するだなんて。
「あのさ、怒らないで答えて欲しいんだけど。園村さんと竹中君って、やっぱり付き合ってないの?」
私の様子に思う所があったらしく、日頃の口調とは違う、神妙な問いだった。私はただ、黙って頷くことしかできなかった。呆れた、と、馬鹿にした調子を隠さず彼女は溜め息をついた。
「園村さんさ、幼なじみだかなんだか知らないけど、付き合ってもいない男が、いつまでも自分を一番に考えてくれてるなんて、思っちゃダメだよ。親兄妹じゃないんだから」
そんなつもりじゃないって反論しようとして、言葉にならなかった。はっきり否定できるだけの自信がなかった。
「交換日記だっけ? 今でもやってんでしょ? なのに相手のこと全然わかってないなんて、そーとーヤバいんじゃない?」
一言も言い返さない私を憐れんでか、彼女の声は段々柔らかく、慰めるような調子に変わっていった。
「私さ、園村さんが勉強とか他の事ほっぽり出して絵を描いてることは、立派だと思ってたよ。それって、甲子園目指す高校球児とかと一緒でしょ? 先生とか真面目ちゃんには文句言われるかもしれないけど、正直カッコいいよ。でも」
そこで彼女は、僅かに躊躇う素振りを見せた。結局最後まで言い切ったのは、多分、その方が私の為になると考えてくれたからだ。
「でも、園村さんの、竹中君への態度は、ちょっとゆがんでると思う」
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面と向かって尋ねた時、面倒くさかったからだ、と由稀は答えた。それだけじゃ納得いかなくて、さらに日記でも問い質した。返事には、次期部長に指名されたのがきっかけだと書かれていた。もともと上下関係が嫌いで体育会系は肌に合わなかったのに、責任まで負わされては敵わない。そういう本音を自覚すると、真摯に取り組んでいる他の部員に申し訳なくなってきた、とかなんとか。珍しい饒舌がかえって怪しかった。そういう事情が理由としてあったのは本当のことなんだろうけれど。それだけじゃないことも、言葉の裏に伺われた。
相馬君は、難しく考えすぎるなよ、と軽く笑っていた。実際アイツ相当めんどくさがりだぜ、と。私より付き合いの長い彼が言うと、それが答えな気もしてしまう。
私はそもそも、どうして由稀が空手部に入ったのかすら、ちゃんとわかっていなかった。修行だって本人は言っていた。その言葉の真意は理解できていない。ただ、何か志があって入部したであろうことは確かだった。それを果たす前に辞めてしまうとは考え難い。由稀は面倒くさがりだったけれど、面倒くさいって感情は、自分がどうあるべきかをハッキリ自覚している人だからこそ、重く感じ得るものだった。
由稀のことを考えると、全然筆が進まなくて焦れったかった。アリス先輩に相談しようかな、とも思ったけれど、なぜだかそれには抵抗があった。目一杯ビンタした手前、さすがに気まずいらしく、先輩はあれ以来由稀のことについてあまり触れなくなっていた。
モヤモヤしたものを抱えたまま時は過ぎ、また、総合体育大会予選の季節が来た。まだ訪ねていない部活の絵を描く為に、私は陸上競技場に行くことになった。
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大きな大会で、人も大勢いるのに、競技場には奇妙な静けさがあった。歓声も聴こえるけれど、張りつめた時間の方がずっと長い。気怠さと緊張感の入り交じった独特の雰囲気は、沢山の応援が騒ぎ立てる団体競技の会場とは、その性質を異にしていた。
改めて見てみると、陸上のランナーは凄まじくストイックな存在だった。クラスメイトや先輩方の中距離走を眺めながら、私はモチーフ探しに苦労していた。何よりまず、みんな顔が険しい。走っている最中はもちろんのこと、ゴールしてからも、その表情は硬かった。単純に息が切れて苦しいのもあるだろうし、細かい数字との戦いだから、走り終わっても気が抜けない、という面もあるのかも知れない。
構図が定まらないまま曖昧に手を動かしながら、よくやるなぁって、素直に感心した。運動音痴な私だって、体育の授業で100メートルや400メートルを走ったことはある。とにかく滅茶苦茶辛かった。あれを何度も繰り返し練習するなんて尋常じゃない。その上、毎日必死になって走ってきても、本番はほんの数秒で終わってしまうのだ。三年生の最後の夏だって、一瞬。気の遠くなるような、儚い話だった。
どうして、そんなに頑張れるんだろう。苦しくて苦しくて仕方のないはずなのに、どうして。
由稀の顔が浮かんで、私は手を止めた。歪んでるって言われたけれど、そんなことは自分が一番わかってる。じゃあ、一体どういう関係なら正しいというのか。日々を適当に過ごして、おしゃべりなんかしながら、何となく仲良くして。告白して、付き合って、楽しく遊んで。そうしていつか、何かの拍子に別れて、離ればなれになってゆく。そんなの私は嫌だった。私は画家になりたかった。由稀と一緒に生きる未来が欲しかったからだ。良い子でいられなくても良かった。他の何を失っても良かった。とっくの昔に、そう、決めたはずなのに。
それでも私は、ずっとずっと苦しかった。加奈子ちゃんや相馬君のことが好きだった。優しい手を振り払って前に進むのが寂しかった。自分がどんどん普通じゃなくなっていくのが恐かった。
そうして今、肝心の由稀本人とすれ違ってしまっている。わかってくれると思っていた。待っていてもらえると、甘えていた。そんな約束、一度もしたことはないというのに。
首をぶんぶん横に振り、悶々とした詮無い思考を無理矢理中断する。競技場のレーンには、女子400メートルハードルの選手達がスタンバイしていた。その中に一人、不思議と目を引く少女がいた。同じ学校の子ではない。ユニフォームから察するに、隣の校区の中学の三年生らしい。飛び切り綺麗な、すらりとした美脚の持ち主だった。何となく気になって、私はその人をじっと見つめていた。
軽やかで、気持ちのいい走りだった。衝撃的だったのは、ゴールする時の彼女の顔だ。走っている最中の苦悶の表情が嘘のような、晴れやかな笑顔だった。よろけて倒れ込むと、彼女はそのまま大の字に寝転がり、満ち足りた様子で空を仰いだ。少し遅れて、タイムがアナウンスされる。まばらな歓声の中、彼女はぎゅっと手を握りしめ、心底幸福そうに笑みを深めた。
運命みたいな出会いだった。その瞬間、私はきっと、救われた。胸がふっと軽くなって、確かな道標が、自分の行く先に立ったのを自覚した。もう大丈夫だと思えた。
彼女を真似て、空を見上げる。抜けるような青空だった。由稀の好きそうな、青と白のコントラスト。目を細めると、すっと一筋涙が零れた。頬を冷ます、心地よい涙だった。
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由稀の家は意外と庶民派で、一応インターフォンはついているけれど、カメラなんかは備わっていない。居留守が利かないなら一緒だと言って、通話機能を使わずにさっさとドアを開けてしまうのが由稀の癖だった。来客が私だと気付いた彼は、あからさまに嫌な顔をした。
「突然どうした」
「渡したい物があって」
小さく溜め息をつくと、由稀は私を客間に通してくれた。部屋の中には、見たことのない綺麗な絵が、高そうな額縁と一緒に沢山飾られていた。巨匠のレプリカではない。多分、新進の作家の物だ。
グレーのシャツに黒のジーンズというラフな格好の由稀は、腕と足を組んで、どこか不機嫌そうに私の言葉を待っていた。私は一枚の絵を、二人の間にあるガラステーブルに置いた。
「これ、もらって欲しいの」
青い空を描いた絵だった。あの日、彼女の目に映っていたであろう空だ。僅かに表情を和らげて、綺麗だな、と由稀は言った。
「ユキ、私、画家になるから」
由稀の目許が再び険しくなる。
「だから待ってて」
「は?」
「私ちゃんと画家になるから、ユキは待ってて」
ぽかんとした顔で、由稀は私を見つめた。精一杯胸を張って、私は彼の視線を受け止めた。
それはずっと、小学生の頃からずっと、伝えそびれてきたことだった。私はこれからも、絵を描き続けるから。奪うばかりで、何も返せないかもしれないけれど。それでも、傍にいて欲しい。一緒に生きて欲しい。そう願う我が侭を、受け入れて欲しい。
由稀が口を開こうとした瞬間、ドアが開いて、スーツ姿の由則おじさんが入ってきた。
「あれ、色ちゃんが来てたのか。久しぶりだね。馬鹿お前、お茶くらい出したらどうだ」
叱りつける父親の言葉を、由稀は眉一つ動かさず無視した。頭を掻きながら歩み寄ってきたおじさんは、テーブルの上の絵を見て、良い絵だね、と目を輝かせた。
「色ちゃんが描いたの?」
「はい」
「そうかそうか。じゃあ、これは僕が買わせてもらおうかな」
おじさんは胸ポケットから財布を取り出すと、まっさらなお札を一枚抜き取り、ぴらぴら振ってみせた。立ちあがった由稀が、掴み掛からん勢いでおじさんを睨んだ。わかってるよ、と苦笑して、おじさんは息子を宥めた。
「これは父さんからお前へのプレゼントだ。それで仲直りしようじゃないか、な?」
由稀はぎゅっと唇を噛み、勢い良くソファに座り直した。私はびっくりして言葉がなかった。
「色ちゃんは以前、画家になれるかって、僕に訊いたね」
穏やかな声でおじさんが言う。私は呆然として、ただ先の言葉を待った。
「画家ってのは、同情以外の理由で作品を買い取ってもらえる人のことを言うんだよ」
すーっと、冷たい物が全身を駆け巡るような感じがした。私は由稀を見た。口を斜めにしながらも、由稀は真っ直ぐ、こちらを見つめ返してくれた。
「あの時の君じゃ無理だって思ったのは、嘘じゃない。君は確かに努力不足で、勉強不足だった。才能だけで描いてちゃ駄目だと、知っておいて欲しかった。よく、頑張ったんだね。ちょっと薬が効き過ぎたらしい。おかげでおじさん、この馬鹿息子にしこたま殴られたよ」
空手なんて習わせるんじゃなかった。冗談めかしておじさんは笑う。
「不器用すぎるんだよ、色は」
視線を逸らし、面倒くさそうに呟く由稀。テーブルが邪魔で、おじさんも余計だった。逆に言えば、その二つのおかげで、私はこの時、由稀に抱きつかずに済んだ。
「お金は由稀に渡しておくから、二人でデートでもすると良い。大丈夫、ちゃんと色ちゃんのご両親にも、話は通すよ」
「あの、私。ユキだけじゃなくて、みんなでお出かけしたい。アリス先輩や、加奈子ちゃんや、相馬君と!」
二人はきょとんとした顔で私を見た。しばしの沈黙の後、由則おじさんはニヤリと笑んで、振られてやんの、と由稀をからかった。脇の締まった鋭い拳が、おじさんのお腹にめり込んだ。
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7月11日(土)
ねぇ由稀、出かけるの、どこがいいかな。今、県美で面白そうな展示をやってるんだけど、相馬君は、身体を動かす場所の方が良いかな。アリス先輩は受験生だし、加奈子ちゃんたちも部活があるから、日程も難しそう。考えるの、めんどくさがらずにちゃんと手伝ってよね!
園村色




