1.two
1.
色彩が爆発していた。荒々しい筆遣いは女性のものとは思えぬほどに攻撃的で、幾重にも重ねられた絵の具が生命力と躍動感を前面に押し出している。抽象的なモチーフは、抽象的であるがゆえにストレートで、僅かな劣化すら許さず網膜を刺激する。
走り出したくなる絵だと俺は思った。人を走らせるだけの力がこの絵にはある、と。
「何を描いてるんだ?」
画材臭い美術室。窓際に椅子を置き、換気ついでに涼んでいる作者に尋ねた。
「何だと思う?」
汗に湿った髪を風に揺らし、この絵を描いた少女はぼんやりと外を眺めている。
「夏」
「おしい、八月」
気の抜けた様子はそのままに、振り返ることすらせず彼女は答えた。
なるほど確かに、言われてみれば八月だった。夏と言うほどセンチメンタルなわけでもなく。気怠いのに、けれど何故か動き出さずにはいられない月。外から来るエネルギーも内から湧くエネルギーも強すぎて持て余す、そんなどうしようもない月だ。
暑さしぶとい夏休み後半。幼馴染みが美術部員である俺は、こうして時々、何をするでもなく彼女の絵を見にやって来る。
「私ちょっと飲み物買ってくるから、由稀しばらくここにいてよ」
「コーラ頼んだ」
「無理。七十円の牛乳ね」
ひらひらと手を振り出ていく小さい背中。
園村色。色とは、彼女が転校してきた小学三年生の頃からの付き合いだった。気の強そうな瞳と、せっかく綺麗なのに適当に切ったり結ったりした髪、そして小柄な体格は、昔から変わらない。変化しているのはどこまでも上昇を続ける画力ばかりだ。
色は所謂天才だった。小さい頃からその表現力は抜きん出ていて、初めての図工の時間、すべてのクラスメイトが彼女は特別なのだと知った。最初、俺は色が苦手だった。彼女がやって来るまで、クラスで一番絵が上手いのは俺だったからだ。少なからず誇りに思っていた地位を、彼女はこちらが身構える暇すら与えず一瞬で奪い去ってしまった。惨めだとか悔しいだとかいう気持ちも当然あったし、それより何より恐かった。
担任も他の生徒も上手い上手いと呑気に彼女の画力を褒め称えていた中、誰よりも先に彼女の恐ろしさに気が付いたのは、多分俺だ。自意識過剰な考え方だが、あの頃の俺にはそれなりに絵の才能があって、ただ“遠い”としか感じられない周りの人々よりは、色との距離を正確に推し量れた。その遠さが恐すぎて、俺は自然に色を避けるようになった。二番目として彼女と比較させる恐怖もさることながら、ただ彼女の絵を見るということ自体が、どうしようもなく恐ろしかった。
幼い頃のことなのでハッキリと憶えてはいないが、きっと描けなくなると思ったのだろう。彼女の絵を見たら、きっと自分は描けなくなる、と。刃こぼれや、あるいは強い薬品に嗅覚がやられてしまうようなものだ。結局色を避けきれなかった俺が今現在絵を描いていないところからして、小学三年生当時の懸念は見事に正鵠を得ていたと言える。
そんな俺とは逆に、色はむしろ進んで俺に関わろうとしてきた。つとめて距離を置くこちらをわざわざ追い回して、やれ一緒に絵を描こうだの美術館に着いて来いだのと毎日騒ぎたてた。色のあまりの遠さから考えれば、俺の絵の力なんて他の皆ともはや五十歩百歩だったのだが。それでも彼女にとっては、まだ俺が、最も自分に近い存在だったらしい。
『はぁー。何枚か彼女の作品は見たことあるけど、ほんと、大したものね』
今まで静かにしていた麻耶が、色のいなくなった隙にしみじみと呟く。彼女の着ている制服はうちの学校のもので、校章から判断するに、どうやら俺より一学年上の三年生だったようだ。
「色を知ってるのか」
『しょっちゅう表彰されてるし、結構有名よ? それに、私、彼氏が美術部だったから』
部の美術展とかも真面目に覗いてたのよね、と。さらりと告げ、麻耶は絵を眺め続ける。別段恋人がいたことに驚きはしないが、相手が芸術系とはなんとも不似合いだ。自身は陸上部だったという麻耶は、性格も雰囲気もいかにも体育会系。趣味なんて合わなかったんじゃないかと心配にすらなる。
「接点なんてなさそうだ」
『うっさいなぁ』
「一体いつ知り合ったんだ?」
『秘密。教える義理なんてありませーん』
いーっと子供っぽく口を歪める麻耶。確かに、そんな込み入った話をするほど親密ではないし、どうしても知りたいと言うほど興味があるわけでもない。向こうは俺と色の関係を詮索してこないのだから、こちらだけ深入りするのは下品だ。きっと、自分の胸の中にだけそっと仕舞っておきたいことなのだろう。
「大事な思い出は棺桶の中まで」
『それ、ブラックジョーク?』
幽霊が半目で睨む。色が帰ってきたため、二人の会話はそこまでとなった。俺以外に麻耶は見えない以上、人前で言葉を交わせば、虚空に語りかける妙な男と思われてしまう。邪魔をしない配慮のつもりか、麻耶は背後霊みたくスッと後ろに控えた。そんな彼女に気付きもしない色が、再び窓際に陣取り黒いペットボトルを投げて寄越す。
「コーラを投げるな」
「ばっか、感謝しなさいよね」
先ほどの麻耶そっくりにジトっと睨んでくる色。自分の手には白く小さな紙パックがあった。どうやら飲み物を交換してくれたらしい。彼女は昔から、荒っぽい表面の奥に、繊細な情を秘めていた。関わりたくないとさえ思っていた俺が結果的に一番色と親しくなってしまったのは、おそらく、彼女のそういう性格が原因だっただろう。押しの強さに音を上げたというのももちろんあるが、それ以上に、誘いを断った時の心底悲しそうな表情に負けた。顔をしわくちゃにして涙を浮かべるなんて反則だ。強引にぶつかってきておいて跳ね返されたら泣き落としだなんて、そこらの当たり屋並に質が悪い。
何が困るって、時折見せるギャップの大きさが困る。いつもは男兄弟のようにいがみ合っているのに、時々びっくりするくらい優しかったりしおらしかったりするのだ。慣れるまでは上手く対応するのに必死だったし、慣れた頃にはすっかり絆されてしまっていた。
「変な気をつかうなよ。別に牛乳でいい」
「買ってから炭酸が嫌になっただけよ。それに、もう口付けちゃったし」
「今更気にしないだろ、そんなの」
小さい頃はよく、二人で一つのアイスバーを食べたりしたものだった。色の口が小さいせいで、一人で食べると結局溶けて半分無駄になってしまっていたからだ。
「そっちが気にしなくったってこっちは嫌なの」
戸惑うように俺から目を逸らし、色はコクコクと一心不乱に牛乳を飲みだした。どうやら、これ以上何か言われる前に全部消費してしまうつもりらしい。
『あーもぅ、甘酸っぱいなぁ。二人はさぁ、ちょっと複雑な幼馴染みなワケ? それとも別れた恋人?』
堪えかねたように麻耶が尋ねてくる。前者だという意味を込め、後ろ手に指を一本立てた。別段隠す理由もない。確かに俺達の関係は少し複雑だったが、思うに、複雑じゃない幼馴染みなんてこの世にはいないのだろう。綺麗に結ばれた糸よりも、どこかで妙に絡んだ糸の方がほどけにくいものだ。
一気に牛乳を飲みきった色は、逆に手持ち無沙汰になってしまったらしく、一層気まずげな様子で窓の外を眺めた。
不器用な姿に、自然と笑みが浮かぶ。絵を描くこと以外、大抵のことが彼女は下手だ。風が色の頬の火照りを冷ますまで。そう決めて、俺は黙って彼女を見ていることにした。元々、彼女と過ごす無言の時間は苦手ではない。筆をとっている間に話しかけるわけにもいかないため、彼女が絵を描いている途中に現れ、一言も喋らないうちに帰る、というのもよくあることだった。
「あ、そうだ」
数分間の沈黙の後、こちらから口火を切る前に思い出したように色が言った。
「由稀、日記は?」
「いや、まだだ」
「早く書いてよね。由稀が滞納すると、私一度に一週間分くらい書かなきゃいけなくなるんだから」
キッと睨め付け釘を刺す。日記というのは小学三年の色によって無理矢理書かされ始めた交換日記のことで、なんと奇跡的に八年近くも続いている。友人曰く、世間一般の交換日記とは精々三ヶ月続けば上等らしく、二年目辺りからは妙に記録更新へのモチベーションが上がり、多少面倒でも律儀に書き続けている。
もっとも、年々書き込む字数の増えてくる色と違い、コンスタントに一日二行程度しか書かない俺には、どれほどの苦労もないのだが。
『うわぁ、交換日記とかしてるんだ君達。小学校の頃流行ったよね、懐かしいな』
背後霊がはしゃぐ。確かに、手書きの交換日記だなんてアナログな代物は、昔の流行以外の何物でもない。現代に生きる若者としては、もっとデジタルな形式の方が自然だろう。けれど、もし途中でそうなっていたとしたら、日記も含め俺達の関係は、きっと八年も続かなかった。
『気になってた男の子に無理矢理書かせて、一週間で駄目になったりしてたなぁ』
やたらと赤裸々な独り言をこぼす麻耶。この女子高生の幽霊は、とても楽しそうに生前のことを話す。普通、死ってやつはもっと悲壮なもののはずだ。なのに麻耶は、あっけらかんとして心底楽しそうに振る舞っている。それは、幽霊なんて存在以上に不思議で理解しがたいことだった。