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Missing  作者: 逢坂
恋情パースペクティブ
18/33

9.deep inside of you

9.


 6月9日(日)


 とりあえず、授業を必死にきくことから始めたらどうだ。


 由稀


/


 翌週の月曜、私とアリス先輩は空手部にお邪魔することにした。場所は体育館の一階にある武道場だ。私たちが訪ねていった時、部の人たちは数列に綺麗に並んで、型のおさらいをしていた。アリス先輩がやって来たとわかると、道場はにわかにざわついた。二・三年とおぼしき身体の大きな人たちが、皆一様に嬉しそうにしている。


「参っちゃうわ、あんな美人に出て来られたら」


 アリス先輩が顧問の先生と部長に話を通している間、私はそれを少し遠巻きに見ていた。こっそり声をかけてきたのは、マネージャーをやっているクラスメイトの子だ。


「男所帯の紅一点でちやほやされてたのに。立つ瀬がないっての」


 小声でぼやき、腕組みをする。台詞の割に、その笑みには毒気がなかった。おーおー鼻の下伸ばしちゃってまあ、なんて呟いて、楽しそうにみんなを眺めている。印象的な表情だった。


「で、今日は彼氏を描きに来たの?」

「彼氏なんかじゃないって」


 我ながら穏やかな声だった。彼女はそう、と、思いの外あっさり頷いた後、肘でつんつんと私の脇を突いた。


「でもさぁ、竹中君って多分モテるよ。なんかクールじゃん」

「そうかなぁ」


 由稀は確かに基本無口だけど、あれは単に無愛想なだけで、クールとは少し違う気がする。私や相馬君にはかなり説教臭いし、ちょっと口煩いくらいだ。私たちは、由稀が厳しくても優しいことを知っているから、そんな彼を好きでいられるけれど。よく知らない人からしたら、由稀ってただの恐い人なんじゃないだろうか。


「油断してるとやばいんじゃない?」


 意地悪な笑みを残し、彼女は部員の列の方に戻っていった。入れ替わりでアリス先輩が帰ってくる。私たちはなるべく視界に入らないように、脇の方で座っていることになった。

 知り合い二人が近くにいるのに、由稀は一切気にした風も無く、ずっと稽古に集中していた。気合いの篭った動作の中でも、不思議な静けさがあって。案外、由稀に武道は向いていたのかもしれない、なんてことを、私は考えた。


「あら」


 アリス先輩が小さく呟いたのは、もうそろそろ私の絵が完成しそうな頃のこと。一瞬目を見開いた後、すぐにそれを細め、先輩はゆっくり頷いた。


「良い絵ね」

「すみません、空手部行きたいって、ワガママ言ったの私なのに」

「ううん。来て良かったわ」


 認められたことにホッとして、そっと息を吐いた。私のスケッチブックには、部員を見守る少女の姿が描かれている。由稀を描きに来たはずなのに、彼女の笑顔が頭から離れなかった。口では何を言っていても、その瞳には確かな愛情があった。気付いてしまったら、描かずにはいられなかった。

 手を動かしながら、ずっと彼女のことを考えていた。私と由稀のことで大騒ぎした彼女。好きじゃないって言っても、嘘だと笑った彼女。彼氏じゃないって言ったら、頷いてくれた彼女。油断するなと言って、ニヤリと笑う彼女。部活仲間を元気に応援する彼女。彼女にとって、それは全部自然なことなんだ。そう理解した時、とても素直に、好きだと思えた。

 出来映えは自分でも満足のいくものだった。綺麗に描けた。人を描くって、こういうことなんだって感じた。そして同時に恐くなった。漠然とした、薄く滑らかな恐怖だった。「私、寂しくて仕方なかったもの」。初めて会った日の、アリス先輩の言葉を思い出した。

 先輩のスケッチブックには、由稀が描かれていた。動的な構図なのに、静謐な佇まいだった。一番丁寧に描き込まれているのは目許だった。なるほど確かに、空手に打ち込んでいるときの由稀には、いつものちょっと神経質なところが全くなかった。

 先輩も、描きながら由稀のことをたくさん考えたんだろうか。疑問に思ってその顔を見つめた。視線に気付いた先輩は、小さく首を傾げ、ただ優しく微笑んだ。

 好きだと思った。

 恐いと思った。


/


 やがて梅雨の季節が来て、学校は中間試験のシーズンに入った。中学校に上がって初めての定期テスト。もともと勉強の苦手だった私は、美術以外の才能の欠如を、いよいよ本格的に自覚しなければならなかった。英語数学理科社会、どれもサッパリだった。辛うじて国語は何とかなりそうだったものの、それだって、精々漢字くらいなら書けるだろう、といった程度。「お前、覚える気で授業きいてるのかよ」って、由稀は呆れていたけれど。覚えるつもりできくって、具体的にどうやったらいいのか。こう見えて、先生の話には毎日ちゃんと耳を傾けているのだ。新しい知識に感心するし、その授業中ならば、問題だってしっかり解ける。ただそうして獲得した知識は、その一時間の間だけ私に寄り添って、すぐまたどこかへ通り過ぎてしまう。

 何にせよ、今は精一杯テスト勉強に励む他なかった。このままでは赤点を避けられない。最初は由稀や加奈子ちゃんに助けてもらうつもりだったけれど、二人とも自分のことに手一杯で、人に教える程の余裕はない様子だった。やむを得ず、私はアリス先輩を頼ることにした。二年生だってテストがあるのは一緒なのに、先輩は快く指導役を引き受けてくれた。「部活、毎日は負担だったかな」なんて心配までしてくれて、私は自分の勉強不足を恥じなければならなかった。

 せめてお礼くらい目一杯したくて、テスト直前の土曜日、私は先輩を家に招いた。甘党の先輩を、飽きるくらいまでケーキ攻めにする目論見だった。せっかくだから、由稀も呼ぶことにした。いつかのように早めにやって来た由稀は、例の如くせっせと私の部屋を片付けてくれた。


「ユキ、空手部楽しい?」


 ふと思いついて、私は尋ねた。テーブルを拭いていた由稀は手を止めてこちらを見やると、口を斜めにして鼻からゆっくり息を抜いた。


「あれが楽しそうに見えたのか」


 一応、私たちが見学に行ったことは認知していたらしい。


「楽しくないの?」


 面倒くさがりの由稀があんなに集中している姿なんて、久しく見ていなかった。きっとそれだけ楽しいんだろうって思った。多分私は、そうであって欲しかったんだ。絵の代わりになるものを、由稀が見つけてくれればと、心のどこかで望んでいた。


「楽しいからとか、好きだからとか、そういう理由でやってるわけじゃない」

「じゃあ、どうして?」

「修行」


 即答して、由稀は作業に戻った。そりゃ武道の話だから、本質的にはそういうことなんだろうけれど。なら一体、何の必要に迫られて修行に身を投じているというのか。この平和なご時世、嫌々空手をやらなきゃいけない程、日々の暮らしに危険はないはずだ。


「そう言えばこの前、先輩たちが、ずいぶん喜んでた」


 私が困惑して黙っていると、由稀は話題を逸らすようにそう呟いた。


「アリス先輩は、部活やってる野郎どものマドンナみたいなもんらしい」


 おかげでみんなあの日は気合入ってた。嘘か本当かわからないことを口にして、薄く笑う由稀。


「先輩が誰を絵に描いたのか、みんな楽しみにしてる」

「あー」


 返事に窮していると、助け舟を出すようなタイミングで玄関のチャイムが鳴った。


/


「あら、ユキちゃん」


 部屋に入ったアリス先輩は、由稀の存在を認めると、どこか恥ずかしそうに胸元に手を置いた。先輩は、グレーのカットソーにサブリナパンツという少しラフな格好で、前と同じように髪を下ろしていた。しばし不思議そうにその姿を見つめていた由稀は、やがて弁えた様子で目を伏せると、穏やかに言った。


「髪、やっぱり下ろしてる方がお似合いですね」

「そう? ありがとう」


 先輩は困ったように微笑んで、手を鎖骨にかかった毛先に移した。


「でも、絵を描く時には、結わないと邪魔なの」

「残念です」

「ありがとう。お上手ね」


 由稀が肩をすくめると、アリス先輩の手は口元に添えられた。私は二人のやり取りを、どこか奇妙な心地で眺めていた。なんだか由稀が大人びて見えたし、先輩はいつもより可愛らしかった。

 そうだ、と思い出したように呟き、バッグから筒状のものを取り出す先輩。それは丸めたスケッチブックの一ページを、英字新聞で包んでとめたものだった。


「園村さんに預けるつもりだったんだけれど。ちょうど良かった」


 受け取った由稀は、小さく眉を寄せ、見て良いですか、と尋ねた。怒らないでね、と、芝居がかった笑みで頷く先輩。寄っていって覗き込んでみると、案の定、それは先輩が描いた由稀の絵だった。


「光栄です」


 苦笑気味に頭を下げる由稀。


「自分の姿が校内誌に載ったりするのは、嫌がるタイプだと思って」

「助かります」

「せっかく格好良く描けたから、本当は、少しもったいないのだけれど」

「勘弁してください」


 お互い控えめに視線を逸らし、二人は柔らかく笑った。なんだかいたたまれなくなった私は、お茶を持ってくると言い訳して部屋を出た。

 母が用意しておいてくれた大きなトレーには、フルーツタルトとベイクドチーズケーキ、モンブランとオペラ、紅茶シフォンとシュークリームが、それぞれ二個ずつ用意されていた。タルトとオペラが食べたい時は、店のケースまで取りにきてね。テーブルに置かれたメモには、そんなよくわからないことが書かれていた。構わずそのままトレーを持っていく。部屋に戻ってきた私を見て、アリス先輩は目を丸くした。


「どうしたの、それ」

「食べてください」


 私が言った瞬間、先輩は仄かに頬を緩めた。しかしすぐ表情を戻すと、申し訳なさそうに首を横に振った。


「そんな、こんなに」

「貰ってやってください。ご迷惑かけたこと、気にしてるんです」


 我先にフルーツタルトとオペラの皿を取り、由稀は保護者みたいな顔で言った。なるほど、と心中頷いた後、私は口を尖らせる。


「なんでそれをユキがエラそうに言うの」

「事実だろ?」

「事実でも!」


 睨み合う私たちを宥めるように、アリス先輩は紅茶シフォンに手を伸ばした。美味しそうね、とにっこりする先輩の目の前に、私は次々と他のお皿を並べる。


「さすがに、全部は」

「手伝います。美味しいですから」


 自分の分のシュークリームとチーズケーキを取り、頷いてみせる。先輩は助けを求めるように由稀を見た。さくさくオペラを消費していた由稀は、片方の眉だけ器用に持ち上げると、美味しいのは事実です、と言った。観念したように息を吐いた先輩は、真っ白な頬を仄かに染め、嫌わないでね、と囁いた。


/


 由稀を閉口させる程の大仕事を女子二人でこなした後、私たちは予定通り勉強に取りかかった。私は時差の求め方も、XとYの意味も、hamburgerの綴りも覚えていなかったけれど、先輩が全部、懇切丁寧に教えてくれた。幼なじみが無知をさらしている間、由稀は黙々と自分のワークをこなしていた。彼は二時間くらい、一度も顔を上げることがなかった。


「よく、そんなに集中できるね」


 ようやく由稀が休憩に入った折り、思わず感心が声に出た。彼はなぜか哀れむような目でこちらを見つめ、お前の方がよっぽど凄い、と溜め息をついた。


「絵を描いてる時の色は、声をかけても気付かない」

「そんなの普通じゃん」


 絵と勉強を一緒にされては困る。由稀の勉強に対する集中力だって、空手に対するそれとは性質が違うはずだ。


「なんでそれを、ちょっとだけでもいいから勉強に応用できないんだ」

「うるさいなぁ」


 それが出来るくらい器用なら、こんな苦労はしていない。簡単なことじゃないわ、と、アリス先輩もフォローを入れてくれた。その言葉には、由稀を褒めるニュアンスも多分に含まれていた。


「ユキちゃんは、わからないところはないの?」

「お手を煩わせるには及びません」


 なかなか嫌味な言い草だったけれど、私が先輩を煩わせているのは紛れもない事実なので、口を出すことが出来ない。せめてもの抗議で頬を膨らませていると、由稀は真意の読めない静かな瞳で、ちらりとこちらを流し見た。


「まぁ、得手不得手は誰にだってある」

「……うん」


 そう言われてしまうと、素直に頷くしかなかった。


 夜遅くまで付き合ってくれた先輩の教えのおかげで、英語数学理科社会の試験では、ギリギリ赤点を免れることができた。しかし結局、油断していた国語で散々な点を取り、私は土曜日の補講を義務づけられたのだった。


/



 6月7日(金)


 テストはぜーんぜんダメでした。特に国語。補講だってさ。結局、アリス先輩には迷惑かけっぱなしです。

 

 高校受験とか、どうなっちゃうんだろうね。正直不安。期末テストは、もっと頑張るよ!


 園村色

 

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