7.a better tomorrow
7.
4月22日(月)
先輩と先生が恐くて、毎日疲れる。そっちがうらやましい時もある。
由稀
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それから私たちは、また一緒に過ごすようになった。由稀はやっぱり、もう絵を描かないつもりらしかった。彼はただ傍にいて、本を読んだり、ぼんやり私の手元を眺めたりしていた。目が合うと、大抵面倒くさそうに口を斜めにした。でも、十回に一回は、仄かに眉を寄せながら薄く微笑んでくれた。
由稀が何を考えていたのかは、正直よくわからない。絵のことや、私のことについて、どんな風に気持ちの整理をつけていたのだろう。卑怯な私は、何も尋ねなかった。けじめをつけないまま現状の幸せに専念する狡さこそ、孤独な夏に身につけたものだった。
時々、由稀は私の傍からいなくなった。他の子たちのところに行ったり、あるいは、ただ一人になったり。私は特に動じることもなく、そんな彼を受け入れていた。思えばこの頃、ようやく少しだけ大人になれたんだと思う。慎ましさが、心に落ち着きを与えてくれていた。
多少幼稚さの抜けたおかげか、私の方が由稀以外の子と過ごす機会も増えていった。一番親しくなったのは三上加奈子ちゃんだ。彼女とはよく、画家について話をした。彼女は新しい伝記を読む度に、ダヴィンチやローランサンをどう思うか私に尋ねた。私は美術展や図録の記憶を頼りに懸命に答え、時には父から聞いた話を真似して語ったりもした。そうすると、加奈子ちゃんはいつも穏やかに頷き、お返しとして伝記で学んだエピソードを教えてくれるのだった。誰に教えてもらうでもなく、自分で本を読みどんどん物知りになっていく彼女のことを、私はとても立派だと感じていた。
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気がつけば、あっという間に卒業と入学の春。私は由稀と一緒に、近所の公立中学校に進むことにした。担任の先生は私たち両方に私立受験を勧めてくれたけれど、「受験とか電車通学とかめんどうくさい」という由稀の一言で、二人の進路は決定した。
校門から校舎まで、グラウンド沿いに長い長い桜並木が続く、綺麗な学校だった。制服は学ランとセーラー服。由稀は俄に伸び始めた身長のせいで、細長い黒のサインペンみたいになっていた。
残念ながら、新学級では由稀と離ればなれだった。人見知りな私にとっての救いは、加奈子ちゃんと相馬君が同じ学校同じクラスにいてくれたこと。誰よりも早く新しい生活に慣れた相馬君は、快活なにぎやかさでクラスの雰囲気をまとめていた。彼が作る空気は私にとっても馴染みがあるもので、不思議な安心感があった。
「園村、いくらなんでもキンチョーしすぎだろー」
堪えかねたように相馬君が笑い出したのは、学級開きの自己紹介の時間。上手く言葉が出ない私を見かねてのことだった。
「園村はー、下の名前はシキって言ってー、漢字はサイン色紙の色を書きます。絵がめっちゃ上手い。オレと同じ小学校でー、オレの親友のカノジョでー、あと絵がアホみたいに上手い。あとヒトミシリでナキムシで、そんでもって死ぬほど絵が上手い。よーろーしーくーおーねーがーいーします!」
「ちょっと相馬君!」
加奈子ちゃんが珍しく声を荒げて怒ったけれど、クラス中の笑い声がそれを掻き消した。私は顔をぽかぽかに火照らせて俯き、流れる涙すら頬を通る間に蒸発しそうな勢いだった。ただ、別に相馬君を責める気持ちは湧かなかった。実際、彼の紹介のおかげで、一日目にしてクラスのみんなは私の扱い方を察してくれたのだった。
一体どうなることかと、不安ばかりの進学だったけれど、蓋を開けてみれば存外穏やかなもので。私は大抵の時間を、加奈子ちゃんと固まってのんびり過ごしていた。新学年特有のたくさんの決めごとは、ここぞというところで相馬君が大きな声を出し、私が変にあぶれることがないよう差配してくれていた。
「相馬君」
ある日の放課後、私は勇気を出して、部活に駆けて行こうとする相馬君を呼び止めた。彼は振り返って目を丸くし、こちらのか細い声が届く距離まで歩み寄ると、無邪気ににっこりした。
「どした?」
「あの、色々ありがとう。ごめんね」
言葉足らずな私に、相馬君は困ったように笑い、頭を掻いた。けれど意図は通じたらしく、気にすんなよと返ってきた。
「園村が泣くと、ユキが怒る。ユキが怒ると、オレが泣かされる。オレ、アイツ、コワイ」
おどけてみせた後、彼は目を細め、びっくりするくらい優しく微笑んだ。改めて見ると、もともと背の高かった相馬君はさらに体格が良くなり、今では加奈子ちゃんの身長も越えてしまっていた。由稀と違って、高さに見合った筋肉の厚みもある。大人になろうとしてるんだなと、私は思った。
「でも、自己紹介の時、色ちゃん泣いてたでしょ」
傍についていてくれた加奈子ちゃんが、呆れた声で非難する。ぎくりと身を強張らせた相馬君は、取り繕うように両手を広げた。
「あれはしゃーないだろー? 園村しゃべんないんだから」
「一言多いのよ。二人が付き合ってるとか、余計なこと言うから」
「え?」
「だって事実だろー?」
「ちがうわよ。マセたこと言っちゃって」
「でも彼女って、がーるふれんどのことだろ?」
「それはそうだけど」
「え?」
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一念発起したように加奈子ちゃんが大きく頷いたのは、入学から一週間が経った放課後のことだった。
「私、ソフトテニス部に入る」
初日から早々に野球部入部を決めた相馬君と違い、私たちはまだ、どこの部活にも所属していなかった。加奈子ちゃんは多くの運動部からスカウトを受けていたにもかかわらず、文化部とどちらに入るべきかずっと悩んでいた。本人によればそれは、「性格が勝負事に向いてない」からだそうで。正直なところ私は、しばしば相馬君を叱りつける最近の様子からして、今の彼女ならば十分やっていけるだろうと思っていた。相馬君がいつの間にか大人びていたのと同じように、加奈子ちゃんも、穏やかな文学少女から、知的で利発な女の子に成長していた。
「色ちゃんも、そろそろ勇気出して、美術室にいってみたら?」
去り際、案ずるように眉を寄せ、加奈子ちゃんは言った。私の場合は彼女と違い、悩むような選択肢なんて持ち合わせてはいなかった。ただ、知らない人だらけであろう美術部に乗り込んで行くのが怖くて、いつまでもぐずぐずしていたのだ。
由稀が一緒にいてくれたらと、身勝手な願いを抱いたことも事実だった。彼は何を思ったのか、入学するとすぐに空手部に入部してしまっていた。美術部を選ばないことは、残念とはいえ、予想できたことだった。けれど、まさか武道を志すとは思っていなかった。はっきり言って似合わない。彼は、私や相馬君に厳しいことを言うことはあっても、礼儀や所作について自他を律するタイプではなかった。「めんどくさい」が口癖だったりして、むしろだらしないくらい。
自然と笑みがこぼれた。いつもは叱る側の由稀が、先生や先輩に色々注意されてるなんて、想像すると変な感じだ。由稀も、新しいことを頑張ってる。そう思うと少し元気が出て、私は美術室に向かうことが出来た。
美術室は、各クラスが入っている校舎とは別の、旧校舎と呼ばれる建物の中にあった。美術室の他には、会議室やら用具室やら、ちゃんと使われているのか怪しい部屋ばかり集まったところだ。二階の角部屋が美術室だった。ドアを開けると、画材臭い重たい空気が顔にまとわりついてきた。目を細めて中を窺う。左手に窓があり、それに正対する向きにカンバスが置かれ、一人の女子生徒が、パレットと筆を手に佇んでいた。怖いくらい肌の白い人だった。ほとんど茶髪に近い薄い色の髪を、低めのシニョンに纏めている。窓辺の光の中、フェルメールの絵画みたいに、彼女は静かだった。
「あら」
やがてこちらに気付いた彼女は、真っ直ぐに私を見つめ、唇の端を少しだけもちあげた。鈍色の、不思議な目の色をしていた。
「やっと来てくれたのね。待ちくたびれたわ」
さも、私のことを知っていたかのように彼女は言った。返事に窮した私は、咄嗟に逸らした視線の先で見知った顔を見つけた。由稀だった。制服姿の彼は部屋の右手奥に立ち、後ろ手にカンバスを睨んでいた。
「ユキちゃん?」
声を掛けると、由稀は一瞬だけこちらを流し見た。目を合わせないまま、不機嫌そうに告げる。
「まず先輩に挨拶しろ。礼儀がなってないぞ」
「いいのよ」
先輩と呼ばれた彼女は、落ち着いた声で言った。僅かに目尻が下がっていた。
「園村色さんでしょ。知ってる。私は鰐部有栖。二年生。美術部の部長なの、一応。部員は、私一人なんだけれど」
「わにべ、ありす、さん」
「漢字を思い浮かべようとしてもムダだから、諦めた方がいいぞ」
こちらの頭の中を読んで、肩をすくめる由稀。私はむっとして、思わず反論した。
「バカにしないでよ!」
「じゃあわかるのか?」
全然まったくわからなかった。争うつもりもないらしく、由稀は無表情で浅く溜め息をつくばかりだった。
「アリスって、音だけ覚えてくれたら十分よ。私も、自分の名字はあまり好きじゃないし。その方が嬉しい」
「アリス、先輩」
「ええ。美術部へようこそ、園村さん。待ってたわ」
ふわりと微笑み首を傾げる先輩。私は一気に緊張がほぐれるのを感じた。独特の雰囲気を持った人だったけれど、私をすっかり受け入れてくれていることだけは明らかだった。初対面の相手の前でここまで安心できたのは、初めてのことだった。
「では、そろそろ俺は失礼します」
いつの間にかドアのすぐ傍まで来ていた由稀が、畏まった調子で先輩に断りを入れる。
「あら、ゆっくりしていったら良いのに」
「当初の目的は果たせたので」
肩を落とす先輩に、苦笑してみせる由稀。
「ユキちゃん何しに来てたの?」
「お前を、探しに、来てたんだよ」
由稀は呆れ顔で交換日記を差し出した。
「まさか、まだ美術部に入ってなかったなんてな。何をやってたんだか」
「だって」
ふくれる私が視界に入るのを避けるように、さっさと部屋を出る由稀。
「また来てね」
微笑む先輩に戸惑いがちな会釈を返し、由稀は美術室のドアを閉めた。
先輩はパレットと筆をカンバスの近くの小さなテーブルに置くと、授業用と思われる席を私に勧めた。ちょっと待っててと言って、パーティションで仕切られた奥に引っ込んで行った先輩は、やがて紙コップと御饅頭の載ったお盆を持って帰ってきた。私の隣の席に座り、よかったらどうぞ、とにっこり。
「交換日記? それ」
小分けにされた御饅頭の袋を開きながら、先輩は尋ねた。緑茶のコップに口を付けたまま、私は小さく頷いた。
「そう。仲がいいんだ、ユキちゃんと」
さらりと口にしたアリス先輩に、からかう気持ちは恐らくなかった。けれど、他人の口から改めて言われると、「ユキちゃん」という呼び方は、飛び切り幼く、恥ずかしいものに思われた。
「ユキとは、その」
なんとか上手く取り繕いたかったけれど、丁度よい言葉が見つからなかった。
「存外、普通な人だったのね、あなた」
アリス先輩は、ゲルニカしか知らない人がピカソの青の時代を観た時のような顔で言った。
「なんだか、安心したわ」
意図を量りかね、首を傾げる。先輩はそんな私を見て、ふっと軽く笑った。今度は少しだけ、悪戯っぽい色を含んでいた。
「あのね園村さん。私たち、実は初対面じゃないのよ」
曰く、先輩は数年前のとあるコンクールで、私と一度顔を合わせているのだそうで。コンクールと言われると、思い当たるのは一つしかない。無礼にも、私は先輩のことが記憶になかった。私にとって幼いあの日のことは軽いトラウマで、なるべく思い出さないようにしていたからだ。
「顧問の先生から、あの園村色さんが入学するって聞いたから、ずっと、どんな子か楽しみにしてたの。あなた、コンクールの時は、途中でどこかに消えちゃってたし」
「私、フツウでしたか?」
改めて先輩の物言いを振り返り、尋ねる。変わり者扱いを受けることは数あれど、普通と言われたことはない。
「そうね。天才の割には、普通だと思う」
アリス先輩は、穏やかな顔で答えた。理屈はよくわからなかったけれど、なんだか救われた気がして嬉しかった。照れ隠しに少し顔を背け、窓際にあるカンバスを見る。桜を見上げる少女の絵だった。人が光に溶けるような、美しい絵だった。カンバスを睨んでいた由稀の気持ちが、なんとなくわかる気がした。
「桜が散る前に、来てくれて、良かった」
私の視線を追った先輩が、一言一言確かめるように呟く。
「新入部員と桜を描くのが伝統なの。あれは、去年私が、以前の部長と描いた絵。最近、また筆を入れ始めたの」
「桜を描いたんですか?」
「そうよ? 桜に見えないかしら」
そういう意味ではなかった。不思議そうに返されて初めて、自分はあまり人物画を描いて来なかったことに気付いた。しばらく黙っていた先輩は、やがて得心したように小さく頷くと、ふたたび話題を戻した。
「今まで、結構な数のコンクールに出て、子供から大人まで、色んな芸術家に会ってきたけれど。天才って呼ばれる人たちは、やっぱりなんだかちょっと異質だった。隔絶してるっていうか」
「カクゼツ?」
「一人だけ遠く離れてしまっているってことよ」
馬鹿にした調子もなく、先輩は言った。伏し目がちの視線は、緑茶の水面に記憶を映しているようだった。
「みんな、内側へ内側へと向かうのよね。人を見て、景色を見て、描いてるはずなのに。不思議と、一人きりになるのが上手な人ばかり」
自嘲気味に笑い、顔を上げる先輩。
「ある時、思ったの。私は本物になれないなぁって。だって、私、寂しくて仕方なかったもの。孤独を突き詰めることが本当の芸術だとしたら、到底ついていけない」
光が弾けるようにして、桜色の絵が目に浮かぶ。すっかり網膜に焼き付いてしまっていた。あんな優しい絵、私には描けない。
「だから、神様の子供みたいなあなたが、男の子と普通にじゃれて笑ってるの見ると、ほっとした」
ありがとう、と、一人完結した様子で先輩は言う。自然と頭が下がった。何かとても大切なことを、この人は知っているんだと思った。父も由稀も教えてくれなかった、大事な大事な何かを。
「明日は一緒に、桜を描きましょう」
未来を慈しむような声で、先輩は告げた。
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4月19日(金)
今週はずっと、アリス先輩と二人で、校門前の桜並木で絵を描いていました。下校する人たちの視線が、少しはずかしいです。アリス先輩は有名人みたいで、色んな人から声をかけられます。
空手部はどう? 相馬君と加奈子ちゃんからは、運動部は大変だって聞きます。ユキもいっぱいしごかれてるんじゃない? ちょっと心配です。
園村色