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Missing  作者: 逢坂
恋情パースペクティブ
15/33

6.once again

6.


 8月25日(日)


 これまでのことは、もう忘れてくれ。


 ユキ


/


 あの日、相馬君に由稀をさらわれて、私が昼休み中泣きじゃくった日から。多分、二人の関係は歪んでしまっていた。周りの子たちはもう、二度と私に声をかけてはくれなくなった。由稀が男子から遊びに誘われることもなくなった。みんな、私たち二人を腫れ物として遠巻きにするばかりだった。

 当たり前の反応だ。私の癇癪を見て、誰もがうんざりしてしまったに違いない。クラスの平和のために、あの変な泣虫は由稀に任せて、もう自分たちは関わらないようにしようと、みんなで示し合わせたのだろう。

 私は焦った。本意じゃなかった。やっと、由稀を自由にしてあげなきゃって思えるようになったのに。恐いけど、これからは、ずっと一緒にいたいだなんて欲張っちゃダメだって。いつまでも子供な私じゃ、きっといつか本当の意味で、由稀を失ってしまうからって。

 由稀の方は、周囲の変化をあまり気にしていなかったみたいで、今まで通り、私の傍で黙々と絵を描いていた。いや、本当のところは、どう思っていたのかわからない。この頃の由稀はちょっと様子が変で、真意を量るのが難しかった。鬼気迫る、って言葉をまだ知らなかった当時の私は、由稀の姿を上手く形容することが出来ず、もどかしい思いをしていた。あんなに真剣に絵を描く由稀を見るのは初めてだったし、あんなに苦しそうに絵を描く由稀を見るのも、初めてだった。

 このままじゃ取り返しのつかないことになる。二人の間の色んなものが、きっとダメになってしまう。そう思った頃には、もう遅かった。私なんかよりずっと前から、由稀はたくさんたくさん考えて、心を決めていたのだ。

 由稀は絵を描かなくなり、私と一緒にいることもなくなった。


「秋仁さんが由稀君に変なこと言うから!」


 今回の件で、一番取り乱していたのは母だった。父を責める母の胸の内には、多分、由稀自身に対する純粋な愛情があった。


「もし、由稀君じゃなければ、適当にはぐらかしても良かったのかも知れない」


 静かな深い声で父は言った。父はおそらく、由稀の抱えていたものが何なのかちゃんとわかっていて、いつかこういう日が来ると、知っていたのだ。


「例えばある風景を綺麗だって感じたとき、その景色をそのまま描くのに比べて、綺麗だって気持ちそのものを絵にするのは、何倍も難しい」


 父は途中から、母ではなく私に向かって話した。


「もちろん、そういう難しいことができなくたって、絵は描いてゆける。でも、由稀君は誠実だったんだ」


 何となくわかる気がして、私は黙って頷いた。そんな娘を見て、母も何も言わなくなった。

 幸いなことに、一人になるのは、想像していたほど悲しいことじゃなかった。むしろ、それまで感じていた焦りとか息苦しさから解放されて、気が楽なくらいだった。無理して由稀に話しかけることもやめた。私は今まで通り、絵を描いて暮らして。由稀の方は、しばらくすると、相馬君たちのグループに溶け込んでいった。

 授業中、時々つい、由稀の背中を見つめてしまうことがあった。彼はよく、頬杖付いて、ぼんやり窓の外を眺めていた。由稀の描く空の絵が好きだった。いつか、クラスが変わって、違う中学校に進んだりして、私のことを忘れちゃったら、由稀はまた、絵を描くようになるかも知れない。寂しいけれど、そうであって欲しいと、私は願った。



/


 一人きりの夏が来た。


「コンクールに絵を出してみないかい? 色」


 夏休みの間中家に引き蘢っていた私は、そう父に誘われて、大した考えもなく了承した。別に、何の理由がなくたって絵は毎日描いているのだから。それは、描き終わった絵をどう扱うかの違いでしかないと思われた。でも、父には父の、ちゃんとした思惑があったのだ。

 授賞式があるから。そう言って父は、海浜公園の近くにある県立美術館まで私を連れて行った。その私民スペースにはたくさんの絵と、たくさんの子供が集められていた。応募したコンクールは小中学生を対象にしたもので、若い才能の応援と、その交流を目的としたものだったらしい。


「ここにいるみんなは、色と同じように、絵が好きで、だから絵を描いている子たちだよ」


 父の言葉は、感動的なもののはずだった。だって、そういう友達を、私はずっと求めてきたんだから。確かにどの子も、展示された各々の作品を真剣な目で鑑賞していた。思わず足を止めてしまうような素敵な絵もいっぱいあった。けれど、私は——。


「僕の絵、どう?」


 飛び上がりそうなくらいびっくりして、声のした方を振り返る。背の高い、ひょろひょろの男の子が、どこか神経質な微笑を浮かべ、こちらを見下ろしていた。パリっとした、気合いの入ったシャツを着ている。体格や顔からして、きっと中学生だろう。歳上というだけで、私はなんとなく彼のことを恐いと感じた。


「あの、えっと」


 突然のことに混乱した私は、救いを求めて傍らの父を見た。けれど父は、穏やかに目を細めるばかりで、助け舟を出してはくれなかった。仕方なく今度は、目の前の絵を観た。夏の海を描いた良い絵だった。穏やかな風景なのに、クールベの描く海みたいに、不思議なエネルギーが込もっていて。


「一番良い絵だと思う。これが」


 散々言葉を探した末、正直な感想を口にした。その瞬間、会場全体に、少し不穏な空気が走った気がした。みんなの視線が私たちに集まる。怯える私に、男の子は満足げな笑みを降らした。


「ありがとう。ところで、君の絵は?」

 

 私は急いで辺りを見回し、一番隅の壁に掛かっている自分の作品を指差した。それは夏空をモチーフにしたもので、我ながら少し未練たらしい気がして、あまり好きじゃない絵だった。父がどうしてもと言うので、仕方なく出展したのだ。


「あれを、君が?」


 私の指先を確認した後、男の子は不気味なものを見るような目で私を睨んだ。蛇の前の蛙みたいにすくみ上がる私を、会場中の誰もが同じ目で見つめていた。もうやだ、と、泣きたい気持ちで私は思った。同類の仲間が集まったはずの場所は、全然楽しいところじゃなかった。



/



 授賞式はまだだったけれど、トイレに行くフリをして私は美術館を抜け出した。海浜公園のベンチに座り、潮風に身をさらしていると、自然と涙が溢れてきた。私が失ったのは、ただのお絵描き仲間なんかじゃないんだ。


「ユキちゃんに会いたい」


 呟いた瞬間、鼻の奥がつんとした。雑巾を絞るみたいに、胸が締め付けられた分だけ、後から後から涙が湧いてきた。顔を手で覆うと、由稀との思い出ばかりが瞼に浮かんだ。

 このままじゃダメだ、周囲と上手くやれるように、変わっていかなくちゃって、訳知り顔で人は言うけれど。私は変化なんて望んでいなかった。変わらないこと、由稀がずっと変わらずにいてくれたことが、私にとってどれほど尊かったか誰も知らない。みんな離れていってしまった。由稀だけが、ずっと傍にいてくれた。いつも不機嫌な顔で、文句ばっかり言っていたけれど、それでも近くにいてくれた。

 たった二つだけで良かった。絵を描くことと、由稀と一緒にいること。それさえ叶えば、他には何もいらなかったのに。

 唇を噛む。ちゃんとわかっていた。全部自分のせいなんだ。だからもう、私はこんな風に、彼を恋しがって泣いてちゃいけない。

 ぐっと腕で目許を拭い、顔を上げると、一人の男の子が目の前に立っていた。どこぞの探偵少年みたいに、サスペンダーに蝶ネクタイ姿で、面倒くさそうな顔をして。


「こんなところで何やってるんだ、色」

「ユキちゃん?」


 死んじゃうんじゃないかってくらい、心臓がドキドキした。顔が赤くなるのがわかった。苦しい胸を堪えて、どうにかこうにか一言だけ、やっとの思いで口に出す。


「何その変なカッコ」

「うるさい泣虫」


 好きでやってるんじゃないんだよ。吐きすてるようにそう言って、由稀は私の隣に腰掛けた。抱きつきそうになる腕を懸命に抑え、私は膝の上で両手をぎゅっと握った。


「今ごろ授賞式だろ。もどらなくていいのか」

「なんで」

「親父の会社がやってるんだ、今日のコンクール」


 由稀は忌々しげに、真っ直ぐ海を睨んでいた。どうして、と私は問うた。彼はちらりとこちらを流し見、ニヒルな笑みを浮かべた。


「知らないヤツだらけの授賞式なんて、色は逃げるに決まってる。親父にそう言ったら、無理矢理引っ張って来られたんだよ。それなら逃げた受賞者を連れ戻す人間が必要だって」


 案の定抜け出しやがったな。どこか小馬鹿にした調子の由稀に、私は何も言い返さなかった。胸がいっぱいで、もう言葉にならなかった。

 それから暫く、私たちは無言で海を眺めていた。最初の驚きが通り過ぎると、段々肩の力が抜けてきて、やがて言いようのない安心感が全身に満ちた。久しぶりに、お腹までちゃんと息が吸えた気がした。


「ねぇ、ユキちゃ」

「園村色!」


 意を決した私の台詞を遮って、背後から怒号が飛んでくる。振り向くと、先程声をかけてきた背の高い男の子が、目をまっ赤にしてこちらに近づいてきていた。


「知り合いか? 色」


 警戒した由稀が立ちあがるより早く、私の体はベンチから離れた。鬼の形相をした男の子が、襟を掴んで私の体を持ち上げたからだ。


「馬鹿にしやがって、お前! 何が一番上手いだ。お前が、お前が!」


 彼が途方もなく怒っていることは明らかだったけれど、その理由とか、なぜ怒りの矛先が私に向けられるのかとかは、さっぱりわからなかった。何の対応も出来ず、私はただ、がくがくと体を揺すられていた。


「何なんだよお前は、何でお前みたいなっ」


 それ以上、男の子の言い分を聞くことは出来なかった。由稀が彼に飛びかかり、その頬を思い切り殴り飛ばしたからだ。急に手を離された私は、盛大に尻餅をついた。反射的に閉じてしまった目をじんわり開くと、由稀の上に馬乗りになった男の子が、何度も腕を振り下ろしていた。小学生の由稀と彼とじゃ、体格が違い過ぎた。


「ユキちゃん!」


 お尻の痛みも忘れて、私は男の子にしがみついた。けれど由稀よりさらに小さい私は、簡単に振り払われ、突き飛ばされてしまった。


「お前!」


 低く唸った由稀が、相手の鳩尾を目一杯殴る。それからはもう、滅茶苦茶だった。



/



「おい! そこで何をしてる!」


 遠くで大人の怒鳴り声がして、ようやく喧嘩が収まる頃には、由稀たちは血だらけで、体中を腫れ上がらせていた。男の子は最後に一瞥、悔しそうに私を見遣ると、弱々しい足取りでどこかに駆けていってしまった。一戦終えた由稀は大の字で地面に横たわり、うんざりしたように大きく溜め息をついた。


「何だ、騒いでたのはお前だったのか」


 弱いなー、お前。そう言って楽しそうに由稀を見下ろすのは、四十歳くらいの、無精髭を生やしたおじさんだった。洒落たサマースーツをネクタイ無しで着こなしている。声からして、さっき喧嘩を止めてくれたのはこの人らしい。


「ということは、この子が色ちゃんだね。大丈夫かい? 怪我はない? 参ったな、いつも息子が世話になってるのに」

「色に近づくな、このクソオヤジ」


 体を起こし、地面に胡座をかいた由稀は、殺気すら込もった視線でおじさんを刺した。


「お前そういうのは、女の子一人くらいちゃんと守れるようになってから言えよなー」


 面倒くさそうに眉を寄せ、クソオヤジと呼ばれたおじさんは由稀の腕を引き上げた。言われてみれば確かに、表情とか、眉の辺りの気難しい感じが二人は似ている。由稀が軟派に育ったら、きっとこういう大人になってしまうんだろうと思われた。


「色にコンクールで負けたやつがおそってきたんだよ。そっちのフォローが足りなかったんだろうが」

「マジかー。才能ないくせにプライドばっかりいっちょまえで困るよ。ちゃんと何かしらの賞は、みんなに割り振ったんだけどなぁ」


 ごめんねー、色ちゃん。申し訳なさそうに頭を掻くおじさんに、私は生返事しか返せなかった。由稀の方を見ると、いつもの呆れ顔で彼は肩をすくめた。


「お前、さっきのヤツに、君の絵が一番良いねとか、テキトーなこと言ったんだろ。バカなマネしやがって」

「なんで? だって」

「お前より絵の上手いヤツなんていない」


 真っ直ぐこちらを見つめ、由稀は静かに言った。


「そりゃあもうダントツさ。他の子たちには悪いが、勝負にもなっていなかった」


 ニコニコと、おじさんは無責任な笑顔で付け加える。


「じゃあ、また、私のせいで?」


 また私の絵のせいで、由稀に迷惑をかけてしまった。やっぱりダメなんだ。絵を描くことと、由稀を大事にすることは両立しない。もし私が、普通の遊びをちゃんと出来る子だったら、由稀と一緒に、他のクラスメイトと打ち解けられた。私の絵がなければ、由稀があんなに悩んで、筆を置くこともなかった。わかってる。私が悪いんだって、痛いくらい。


「うちの馬鹿息子なんかのために、泣いたりしなくていいんだよ。色ちゃん」


 私の目線に会わせてしゃがみ込み、天馬の刺繍が入った紺のハンカチを差し出したおじさんは、ぞっとするほど優しい声で囁いた。


「真剣に生きていれば、誰だって挫折を経験する。そしてその折り合いは、挫折した人間が自分一人でつけるものなんだ」 

「でも」


 私はちゃんと、由稀のことを大事にしたかった。由稀が持っているもの、これから手に入れていくものを、奪いたくなかった。そのためなら、一人になってもいいって、私は。


「いーんだよ。他人のことなんて気にせず、好きなことして、好きな相手と一緒にいれば。おじさんなんて、駆け落ちしてまでこの馬鹿の父親になったんだから」


 これからも仲良くしてやって。そう言って私の頭を撫でたおじさんの背中を、由稀が蹴る。


「御覧の通り、おじさんは育児が下手でね」


 芝居がかった仕草で大袈裟にのけぞって見せながら、おじさんは笑う。


「好きでもない子のために喧嘩をするほど、うちの息子は人間が出来ていないんだ」


 顔を真っ赤にして、由稀は再び蹴りを放った。私も顔が熱かった。


「あの、ユキちゃん!」


 父親をめった打ちにする由稀の手を、私は掴む。けれど、言うべき言葉が上手く見つからなかった。ありがとうも、ごめんなさいも、なんだか違う気がした。


「色」


 ゆっくり丁寧に、由稀は私の名前を呼んだ。胃の少し左上の辺りが、きゅーってなる声だ。伝えなければいけないことがたくさんあるはずなのに、私は黙って由稀に抱きついた。あちこち怪我している由稀は、何も言わず、体を強張らせていた。身勝手だなと、自覚した。身勝手で、我が侭で、甘えん坊だ。それでもいい。もう、良い子でなんていられない。呆れられたって、怒られたって、ちょっとくらい嫌われたって構わない。それでも、私は由稀の傍にいたかった。


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