5.crossing
5.
5月16日(木)
/
「まったく、情けないったらない!」
腰に手をあてふんぞり返るジャージ姿の母。私と父は言い返す言葉もなく肩を落とした。
その日は休日で、私は母に野球を教えて欲しいと頼んだのだ。朝のうちに一通りケーキを焼いてしまえば、店番はバイト任せ。追加が必要になってくる昼過ぎまで、母は家で自由時間だった。二人だけだから、初めはゴムボールのキャッチボール。でも、ただボールを受けて、投げ返すだけのことすら、私には難しくて。ボールを掴みにいったはずの手は何度も空を切ったし、投げたボールは真下やら後ろやらあらぬところへ飛んだ。呆れた母は、まずはお手本を観察することから始めようと言って、書斎で仕事をしていた父を、外の駐車場まで引っ張って来た。よく見てコツを掴むように。そう告げた母の意図に反して、父の運動神経のなさは私に匹敵するレベルで、参考にしようにも、回数が全然続かなかった。
「まさに、この父あってこの娘ありね。秋仁さん、一人娘が運良くお絵描き馬鹿だったから良かったものの、息子が生まれて、キャッチボール誘われたりしたらどうするつもりだったわけ?」
「いや、面目ない」
「お絵描きバカ?」
なんだか酷く失礼なことを言われた気がして、私は頭を掻く父と口を尖らせる母を交互に見つめた。悪びれた様子もなくこちらを見つめ返し、やけに真剣な顔で頷く母。
「でもね色、諦めちゃだめよぅ。あんたの身体には、私の血が半分入ってるんだから。小中高と体育校内トップだった遺伝子を信じなさい!」
「春香さん、運動だけは得意だったからね」
「家庭科もできましたよーだ!」
ここぞとばかりに反撃を試みた父に、母は子供っぽくいーっと顔をしわくちゃにする。確かに母は運動神経が良かった。すらっと引き締まったスタイルで、日頃から何かと身のこなしが軽い。一方父は、筋肉があるのか疑わしい細身をしていて、何事ものんびりゆったりだった。身体的な意味で言えば、細くて小柄な私はどちらかというと父に似ていた。でも性格は完全に母似だったから、小さな身体の中で、せっかちな心がいつも空回っている。
父が書斎に引っ込んでからも、私は母にねだってキャッチボールを続けた。何度やっても上手くいかなかったけれど、失敗すれば失敗する程、妙な焦りに胸がざわついて、余計後に引けなくなっていった。
「ねぇ、色。どうして急に、野球をやりたくなったの?」
不意に問われ、私は投げかけたボールを取り落としてしまった。靴の先に綺麗に当たったそれは、偶然にも真っ直ぐ母の足下へ転がった。
「由稀君に誘われた?」
優しくボールを拾い上げ、母が訊く。反射的に私は首を横に振った。由稀はそんなこと言ってない。これまで通り、私の絵に付き合ってくれている。でも、由稀の心が移り変わっていっていることくらい、鈍い私でもちゃんとわかった。もとはと言えば誰よりも私を敬遠していた由稀だから、一緒に絵を描いている時、渋い顔をすることは度々あったけれど。あんな——。
「あら、噂をすれば」
母の声と同時に、ボールが顔の横を通り過ぎていく。考え事に夢中で、周りが全然見えなくなっていた。慌てて振り返ると、私服姿の由稀がボール片手に不思議そうな顔でこちらを見つめていた。カーゴパンツにヘンリーネックシャツ。少し大きなリュックを背負っている。
「何やってんの、お前」
「ユキちゃんこそ」
突然の登場に驚いた私は、何となく、野球の練習をしているとは答えにくくて、咄嗟に尋ね返した。由稀はむっと眉を寄せ、少し視線をそらす。
「お前なぁ、今まで散々、無理矢理さそっておいて。人がめずらしく自分から遊びに来たらそれかよ」
私は一瞬耳を疑った。だって、数年間の付き合いのうち、由稀が自分から遊ぼうと申し出てくれたことは一度もない。家まで訪ねてくるなんて言わずもがなだ。
「ユキちゃん、私と遊びに来たの?」
喜びやら戸惑いやらで頭がふわふわして、つい、間抜けな問いを口にしてしまう。由稀は耳を赤くして、悪いかよ、と私を睨んだ。
「ううん」
首を横に振り、微笑む。それは、自分でも不思議なくらい軽やかで、風船みたいに勝手に浮かび上がってきた笑みだった。
/
その日、私たちは夕方まで一緒に絵を描いて過ごした。途中、由稀は父の書斎に行きたいと言ったのだけれど、仕事中だと教えたらすぐに諦めた。娘の為なら慣れないキャッチボールにも付き合ってくれるくらい、融通の利く父だ。例え仕事中でも、由稀を拒みはしなかったろう。知っていながら由稀を止めたのは、幼い独占欲からだった。由稀はいつも、敬虔な信者のように、父の話に耳を傾けた。父もこの、小さいながら熱心な生徒が嬉しかったらしく、惜しみなく古今東西の美術知識を披露していた。父の話は私も好きだった。けれど、父の話に没頭すると、由稀は私の存在をすっかり忘れてしまうから。寂しい気持ちが、時には醜いいじわるに変わるのだ。
日が沈む前に帰ろうとした由稀だったが、母の強引な誘いにより、夕飯を一緒に食べていくことになった。私の泣き落とし程度ですら捨て置けない由稀が、娘の何倍も押しの強い母に敵うはずなかった。
「お母様には、ちゃーんと連絡しておくから、ね?」
「……すみません」
母の駄目押しに、由稀は頷きうなだれた。両親の話になると、由稀は少し暗い顔をする。由稀の家はどちらも美術商をやっているそうで、二人とも殆ど家に帰らないらしい。お母さんの方は時々由稀を迎えにきたけれど、お父さんには、この頃まだ一度も会ったことがなかった。「大変な仕事だよ」とは、私の父の言だ。「竹中さんのトコは、業界でも大手だ。老舗じゃない分、フットワークが軽いし、勢いもある。忙しいのも当然だろうね」だとかなんとか。難しいことはわからないけれど、私はただただ由稀が心配だった。多分、母も同じ気持ちだったのだろう。
「おお、今日は随分気合いが入ってるね」
ダイニングに降りて来た父は、テーブルに並べられた料理を見てにっこりした。ハンバーグにポテトサラダ、チキンライスとミニグラタン。どれもこれも、私たちが好きなものばかり。
「あ、おじさん、あの」
お客さん扱いを嫌がってナイフやフォークを配っていた由稀は、父の姿を認めると、緊張した面持ちで口を開いた。うん? と、優しく首を傾げる父。
「見てほしい絵があるんですけど」
「由稀君の絵かい?」
頷く由稀を奇妙に感じたのは、私だけではなかったはずだ。父が私たちの絵を見ることはこれまでに何度もあったし、父は由稀の絵をよく褒めていた。ただ、由稀が自分から進んで、父に絵を見せようとしたことはなかった。
「もちろん構わないけれど。食事が冷めるといけないから、また後で書斎まで来てもらって良いかな?」
「はい。お願いします」
聞き分けよく返事する由稀に、私は嫌な予感がした。何か決定的な事態が待ち構えている気がしたのだ。せっかくのごちそうだったのに、料理の味なんて全然わからなかった。
「今までで、一番良い絵だね」
食事が終わるとすぐ、私たちは父の書斎に向かった。由稀がリュックから取り出したのは、夕空を描いた一枚の絵だった。彼にしては珍しく、丁寧に彩色されていた。まだ空自体は青い、未熟な夕暮れ時を、光に染まった金色の雲が飾っていた。父の言う通り、飛び切り良い絵だった。
「由稀君は、良い目をしている。何が綺麗なのかを知ってる人の絵だ」
それはとても的確な分析に思われた。由稀はモチーフ探しの天才だった。同じ場所に座って絵を描いているはずなのに、いつも由稀の方が、綺麗な景色を見つけていた。そして彼は、それを正確に紙に落とすことができた。
「色とくらべて、どうですか」
静かな声で、由稀は問うた。私はどきりとして、思わず彼の顔を見つめた。怖いくらい真剣な表情だった。この問答はどんな形であれ、私たちの関係を変えてしまうだろうと、幼心にも容易く想像することが出来た。
「由稀君の絵の方が、色より具体的だね」
さして悩むことなく、父はすぐ答えた。まるでずっと前から用意していたような、迷いのない返答だった。
「グタイテキだと、ダメですか」
表情を変えずに由稀は訊く。ダメじゃない、と父は首を横に振った。
「ただ、由稀君と同じものを見て、由稀君と同じように感動できるほど、普通の人たちはセンシティヴじゃないんだ」
父の言葉は難しかったけれど、由稀は納得がいったらしく、大きく一度無言で頷いた。そしてそのまま、彼は顔を上げることがなかった。
次の日から、由稀は二度と絵を描かなかった。
/
5月15日(水)
ユキちゃんの空の絵、とってもキレイだったよ。あんなキレイなの、見たことない。コローの空より、モネの空より、ユキちゃんの空が好きだよ。
ねえ、もし、パパがイヤなこと言ったなら、あやまるよ。ごめんねユキちゃん。
おへんじまってます。
園村色