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Missing  作者: 逢坂
恋情パースペクティブ
12/33

3.my rivets

3.


 1月23日(水)


 図工の教科書の、25ページの左下のヤツ。


 ゆき


/


「いやだ」

「おーねーがーいー」

「い、や、だ、っての」

「だめ! ユキちゃんのイジワル!」

「なんで俺がイジワルなんだよっ」


 それはちょうど、二人の交換日記が始まったばかりの、小学三年生の冬のこと。夕暮れ時の校門で、私は、帰ろうとする由稀を必死に引き止めていた。


「さみーんだよー。もぅいーだろ」

「やだ、もうすぐママの車が来るからぁ。いっしょにおうちまで来て、ね?」


 手を振りほどかれたらランドセルをつかみ、それもダメなら今度はマフラーを引っ張る。ちょこまかといたちごっこを繰り返す私たちを、すれ違う他の児童たちが笑いながら見ていた。やがて、彼らの視線に気付いた由稀は、暴れるのをやめ、努めて小さな声で言った。


「色、べつに俺は、一生お前とあそばないとは言ってないだろ。ただ、今日はダメなんだ」

「なんで今日はだめなの?」

「とつぜんだから」

「なんでとつぜんだとだめなの?」

「そんなの、当たり前だろ」

「なにが当たり前なの?」

「あーもー知らん! めんどくさい! 寒いから早く帰りたいんだ俺は!」


 今よりずっと気が短かった当時の由稀は、私の説得を諦めると、また強引に帰ってしまおうとした。慌てて後ろから首元に抱きつき、私は言う。


「だってユキちゃん、おうち帰ってもだれもいないって言ったでしょ。さびしいよ」

「俺は、ひとりが、好きなんだ」


 半ば意地になって由稀は唸る。ずりずりと由稀に引きずられながら、私は少し知恵を見せて、食べ物で釣ることを思いついた。


「ね、ユキちゃん、私のママ、おかし屋さんなの。いっしょにケーキ食べよう?」

「あのなぁ、色、」


 幼くして早くも老成の兆しを見せ始めていた由稀が、この時何を言おうとしたのかは、結局わからず終いだった。今ならば、当時彼が見せた、わずかに怒気を含んだ呆れ声にも、ある程度理解が及ぶけれど。


「あらあら楽しそうだこと。何やってんの、あんたたち?」


 ようやく迎えに来た母が、そう言って由稀の言葉を遮る。母は白いセーターにブルージーンズというラフな出で立ちで、面白そうに目を見開いていた。諦めたように深く溜め息をつき、由稀は脱力した。



/



 車の中で、由稀はずっと無言だった。今にして思えば、人見知りな由稀が、初対面の我が母の前で黙りこくるのは至極当然だけれど。あの頃の私は、静かで重苦しい車内の雰囲気も相まって、由稀を怒らせてしまったのではないかとひどく緊張していた。運転席の母は、人の気も知らず終始ニコニコしていた。


「ユキちゃん、こっち!」


 家に付くまで、十分とかかりはしなかった。私は靴を脱ぐや否や、丁寧にお邪魔しますなどと述べている由稀の腕を引っ掴んで、二階に向かう階段を駆け上った。


「こら、おま」


 由稀はいつもの如くそんな私の強引さを咎めようとしたが、途中で思い直したらしく不満げに口をつぐんだ。きっと、母が近くにいるから気を遣ったのだろう。


「こぉーら色! あんた危ないでしょうが! 階段で走るなって言ってるでしょう!」


 由稀の気持ちを代弁するような怒号が、玄関から届く。母は、脱ぎ散らかした私の靴を並べながらこちらを睨んでいた。


「危なくないもん!」

「どの口が言うんだか。おとといみたいにずっこけて鼻血出して、由稀君に笑われても知らないよ!」


 さっぱりしたショートカットの髪を揺らし、にししと笑う。私はドジをばらされたことが恥ずかしくて、頬が熱くなった。抗議の意を込め、それ以上は言い返さないことにする。走るのをやめた代わりに、怒りに任せてどすどす階段を踏みつけていった。

 二階に上がると、私は由稀を父の書斎に招き入れた。そこにある一冊の本が、その日由稀をどうしても家に連れてきたかった理由だった。


「パパ! 図工の教科書の、25ページの左下!」


 父の部屋は床全部に絨毯が敷いてあり、側面のうち、デスクがおいてあるスペース以外はすべて大きな本棚で埋め尽くされていた。白いシャツにグレーのカーディガンをひっかけてデスクに向かっていた父は、くるりと椅子を回して振り返ると、いきなり飛び込んで来た私に落ち着いた対応をみせた。少し長い猫っ毛の前髪越しに、おっとりしたたれ目が細められていた。


「おかえり、色。おや、そちらのお友達は?」

「ユキちゃん! ねーパパ、25ページの左下の絵!」


 父は私の言葉をやんわり笑顔で受け流すと、無言で立ち尽くしている由稀を見つめた。由稀はかなり時間をかけて、「はじめまして、竹中ゆきです」と、戸惑いがちに挨拶した。父はそれをしっかり受け止めてから、深く頷き、一層笑みを深めた。


「こちらこそはじめまして、竹中君。色の父親の秋仁です。いつも、色と仲良くしてくれてありがとう。よく来てくれたね」


 由稀はどこか安心した表情で、ゆっくり首を横に振った。母や私の相手を長年して来たからだろう、父は昔から、こうやって時間の流れを遅くするのが得意だった。椅子から立ち上がった父は、私たちの頭をぽんぽん撫でると、ドアの横のコート掛けを指差して言った。


「さあ、とりあえず二人ともランドセルをおろして。暖房が効いてるから、上着も脱ぐといい」


 身軽になった私たちを絨毯の真ん中に座らせ、父は大判画集の本棚に向かう。


「それで、色、教科書の絵を探しているんだっけ? どんな絵だった?」

「日がさの!」

「ああ、モネの日傘の女か。学校で習うのなら、これかな」


 父はクロード・モネの画集を抜き出すと、『散歩、日傘をさす女性』と書かれたページを開き、私たちの前に置いた。雲まじりの青空をバックに、逆光と風の中、おぼろげな表情の女性が日傘をさしてこちらを見ている。傍らには、小さな男の子の姿もあった。まさに、私が探していた教科書25ページの左下の絵だ。


「ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。教科書に載るに相応しい、モネの代表作だね。光と空気が穏やかに鮮明だ。ところで、この絵がどうかしたのかな?」


 作品に軽く言葉を添えつつ、父は問うた。


「あのね、ユキちゃんが好きだって言うから。でっかい本で見せてあげたくて」


 説明を受け、父は由稀に向かって瞳で問い直す。少し照れくさそうに、由稀は頷いた。


「そういうことなら、確か、原寸大のレプリカがあるよ」


 少し待っていて。そう断ると、父は部屋を出て行ってしまった。きっと、隣の部屋の物置に絵を取りにいったのだ。ふと気がつくと、由稀がじっと私の方を見つめていた。


「よかったね、ユキちゃん」


 私が笑むと、由稀は何かもの言いたげに口を開いた。けれど、彼の言葉が私の耳に届くことはなかった。


「ほーら、ちびっ子たち、美味しい美味しいおやつの時間よ!」


 両手にお盆を持った母が、足でドアを蹴り開けて入って来たからだ。複製画を持った父が、溜め息まじりで後ろに続く。


「春香さん、ドアに乱暴しないでと何度言えば」

「何度蹴っ飛ばしても壊れなかったんだから平気よぅ。秋仁さんてば本当心配性なんだから」


 大袈裟よねぇと、絨毯にお皿を並べながら由稀に同意を求める母。由稀はぷるぷると痙攣するように首を横に振った。

 出されたのは、スポンジの間まで沢山果肉が詰まった苺のショートケーキと、コップ一杯のミルクだった。ケーキは勿論、母が焼いた物だ。セロファンや銀紙がちゃんとついているから、お店のケースに並べていた分をそのまま持って来たのだろう。園村洋菓子店と我が家は建物の背面同士が繋がっていて、自宅の玄関がある方と反対の通りに、お店の入り口があった。


「秋仁さんの分は、珈琲と一緒にデスクに置いておくから」

「ありがとう。春香さんの分は?」

「お盆が重たいから、三つしか運べなくて。ケーキはほら、秋仁さんがはんぶんこして、あーんさせてくれれば」

「お客様の前だよ」


 ジト目で睨む父に、母はにししと笑った。由稀はどこかいたたまれない様子で、ちびちびとミルクに口をつけていた。こほん、とわざとらしく咳払いをして、父は複製画を本棚の一つに立てかけた。


「100×81cm。これが、実物と同じ大きさの日傘の女だ。肉筆のレプリカだから、写真よりも質感が豊かだろう?」


 確かに、複製画で見ると、モネ独特の優しい空気のうねりがよくわかった。


「すごい」


 零れ落ちるような声で、由稀は呟いた。その視線はあまりに真剣で、声が漏れたことすら自分で気付いていない様子だった。そんな彼を見て、父と母は、すっと目を細めた。


「この女性は、誰だかわかる?」


 絵を指差し、静かな声で父が問う。


「モネのおくさん?」


 引き込まれるように由稀が答える。


「そう。この女性は、モネの妻、カミーユがモデルだ。横にいるのは、二人の息子のジャンだね」


 そこまで説明すると、父は先程の画集を手に取り、新しいページを開いて私たちに見せた。そのには、また別の構図で描かれた日傘の女の絵が、左右に二作載っていた。


「モネの日傘の女は、全部で三作残っている。この二作は、教科書に載っていたこっちの絵よりも少し新しいんだ。竹中君、君が好きな方の日傘の女と、新しい二つと、どこか違う所はない?」

「顔がない」


 父の問いに、由稀は即答した。確かに、新しい二作の方は、女性の顔までも光のうねりに溶けていて、表情が掻き消されていた。


「そう、顔がない。この変わった描き方は、モネの新しい表現技法だと一般に言われている。確かに、技巧的挑戦だったことは事実だろう。でも、それだけじゃないはずだって、一部の人は言っている」


 もうこの時点で、父の言葉は私や由稀の理解を超えていた。それでも、由稀は真剣に父の話を聞いていた。満足そうに頷き、父は続ける。


「この、新しい二枚の日傘の女が描かれた頃、モネの妻カミーユは既にこの世にいなかった。モネは、別の女性をモデルにして新しい二作を描いたんだ。でも、絵を見ればわかるだろう? モネは、明らかにカミーユを描こうとしていたんだよ。今は亡き愛しいカミーユを。だから、モネは新しい二作で顔を描けなかったんだって、そう主張するロマンチストもいる。いいかい? 絵がこんなにも美しいのは、画家の瞳に、世界が美しく写っていたからなんだ」


 父が話し終えると、部屋はしんと静まり返った。私は改めて、複製画の方の日傘の女を見てみた。なんて優しいんだろう。胸に満ちたあたたかな気持ちを形容する語彙を、当時の私は他に持たなかった。


「秋仁さんたら、まーたそんな小難しい話をしてぇ」


 空気を変える為だろう。わざとらしく芝居がかった声で、母が茶化した。頭を掻き、照れくさそうにする父。


「ごめん。つい、大学の講義の癖が出た」


 父は美大で座学の講師をしていた。毎日授業があるわけではないから、時にはこうして、平日でも家にいる。


「ケーキを食べ終わったら、今日はもうお開きね! 由稀君のご両親だって心配するんだから、次からはちゃんと前の日に遊ぶ約束をしておくよーに!」


 ぱんっと手を叩き、母が区切りをつける。うっとりと絵を眺めていた由稀は、夢から覚めたような顔をして、慌ててフォークを動かし始めた。本当に絵が好きなんだ。私は、由稀が自分と同類であることを改めて確認し、心底嬉しくなった。お絵描きが好きだという子は、これまでにも沢山いた。でも、絵が好きでお絵描きする人と、単にお絵描きが好きな人とでは、厳密に言えば少し人種が違うと思う。巨匠の絵を好み、そこに心から埋没できる由稀。彼は幼い頃から、ちゃんと美への繊細さを持っていて。だからこそ、由稀との出会いは、私にとって唯一でかけがえの無いものだった。



/



 1月21日(月)


 今日は、ユキちゃんといっしょに、雪がつもったシーソーをかきました。楽しかったです。ユキちゃん、かいた絵、わたしにくれてありがとう。ふんわりした雪がきれいだった。

 ねえユキちゃん、ユキちゃんは、どんな絵が好きですか?


 園村色

 

 


 


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