1.our story
1.
由稀の顔を素直な気持ちで見ることが出来なくなったのはいつからだろうか。絵の具の乾きを待ちながら、私はぼんやりと考える。小学生の頃は平気だった。中学生からは、微妙だ。となると、小学生時代から順番に辿っていって、境目を見つけなければならない。
「だーれだ」
「わっ」
思い出を引っ張り出すことに集中していた私は、突然背後から目隠しをされ、つい声をあげてしまった。すぐさま振り返り、犯人を確かめる。ふわふわ髪の小顔に人懐っこい笑み。泉花ちゃんだった。
「どもども、園村さん。ご無沙汰しとりました」
桜色したぶかぶかTシャツの裾をドレスのように軽く持ち上げ、花ちゃんは会釈してみせた。彼女に会うのは二ヶ月ぶりくらいだった。嬉しくなって私は尋ねる。
「本当に久しぶり。元気にしてた?」
「はい。御陰さまで、青春完全燃焼です!」
言ってから自分で恥ずかしくなったらしく、花ちゃんはえへへと照れくさそうに笑った。
彼女とは、由稀を接点に知り合った。それまで長年活動凍結していた新聞部を並外れたバイタリティーで復興させた花ちゃんは、専属カメラマンとして、写真部幽霊部員の由稀と提携していた。あの無愛想な由稀をどうやって口説き落としたのかは知らないけれど、恐らく彼も、花ちゃんの押しの強さには敵わなかったのだろう。由稀はもともと写真が上手だし、人付き合いが嫌いで部活にもほとんど顔を出さない、言ってしまえば暇人だったから、彼女の人選はかなり優れていたと言える。端から見ると不承不承な様子だったが、由稀自身まんざらでもなかったであろうことを、私だけは知っている。彼は、昔から意外と面倒見がいいのだ。
由稀がしょっちゅう美術室に来たため、必然的に花ちゃんと私もよく顔を合わせるようになった。彼女はとても気持ちのよい少女で、人見知りな私でも、不思議なくらい自然に打ち解けることが出来た。美術部に馴染んでからは、由稀のいない時にも遊びにきてくれて。同性の友達の少ない私にとって、彼女は貴重な話し相手だった。
そんな彼女がぱたりと顔を見せなくなったのは、大体二ヶ月くらい前からのこと。どうやら、部員不足のとある運動部の助っ人として、新聞部と掛け持ちで夏の大会に出たりしているらしかった。好奇心が服を着て歩いてるような子だったから、また新しいことを始めたんだなと、由稀と二人で密かに応援していた。
「運動部の方は、どう?」
「この夏最後の試合が、ついこの前、終わったとこです。やっとオフに入ったんで、園村さんに会いに来ました」
「夏休みが終わってからも、掛け持ちは続けるの?」
当然そうするものだと思って放った問いに、花ちゃんは複雑な顔をした。自嘲気味に眉を寄せて、首を横に振る。
「正直、まだ決めてません。もともと、入部の動機が邪だったんで」
それから花ちゃんは、好きな男子がいたから部活に協力していたこと、その彼はこの一夏を通して、花ちゃんとは別の女性と恋を成就させてしまったこと、などを簡単に語った。努めて明るく話そうとする彼女の姿に、私は言葉をなくしてしまった。
「存外、あっさり引き下がるんだな」
私の代わりに声を発してくれたのは、窓際で絵を描いていた菊池康浩君だった。彼は、今いる美術部員の中で唯一、私と一緒に美術室で制作している人物だった。他の部員は、私に気を遣っているとかなんとか言って、みんな別の教室で活動していた。要するに、気軽に友達とお喋りしたい人と、真面目に芸術活動をしたい人とで、美術部は分裂してしまっているのだ。菊池君は後輩の中でも飛び抜けて才能があり、絵画に対して真摯だった。余計なことはあまり口にしない質で、私と二人きりの時は、お互い黙々と作業するため、美術室は静寂そのものだった。花ちゃんとも、仲が悪くはない一方で、特別親しくもないはずだ。こんな風に恋愛に口出しするなんて、正直意外だった。
「相手に嫌われるまで、押し続けるタイプだと思っていたけど」
「うーん。私自身、今になってみると、自分の気持ちが本当に恋だったのか、わからんのよね」
苦笑気味に漏らされた花ちゃんの呟きは、私の胸に刺さった。何か思うところがあったらしく、菊池君も苦い顔をしていた。誰もフォローしてくれなかったため、花ちゃんまで黙りこくってしまい、重い沈黙が部屋を満たした。
「気がつけば傍にいるのは友情。始まりを憶えていたら恋」
不意に菊池君が零す。これもまた、彼の口から出たとは俄に信じ難い言葉だった。
「存外、深いこと言うね」
花ちゃんが茶化しても一切動じることなく、菊池君は静かに窓の外を眺めていた。
彼に好きな人がいることは、前から薄々気付いていた。その人と最近上手くいっていないことも、察することができる。彼は多分、グラウンドを使う運動部の誰かに恋しているのだ。窓際から眼差す視線に込められた、憧れも、慈しみも、切なさも、私にはよくわかった。彼は結構情熱家で、感情の揺れが大きい。表情や態度は器用に隠しているけれど、目許に滲む情だけは誤摩化せていなかった。それは本当に小さな隙で、他の人なら見逃してしまうかも知れない。でも、私は半年彼と一緒に絵を描いてきたし、何より、彼よりもっと頑に感情を隠す男と、八年一緒に生きてきたのだ。
菊池君がここしばらく部活を休んでいたことと、恋愛は、多分無関係ではなかった。そして、久しぶりに現れた彼が、迷いなく新しい制作を始めたことも、きっと。絵画は時に皮肉だ。作者の喜びも悲しみも色濃く写し、それらの感情が強い時程、良い作品になる。彼は今回、きっと素晴らしい絵を描くだろう。
自作の『八月』を私は眺めた。焦がれていると言うか、焦っていると言うか、我ながら、なんとも自分らしい。
『気がつけば傍にいるのは友情。始まりを憶えていたら恋』
菊池君の言葉がリフレインする。私はなんだかムキになって、思い出の中から、懸命に由稀との関係の始まりを引っ張り出そうとした。
第二章『恋情パースペクティブ』