0.here I am
気に入って頂けると幸いです。段々シリアスになります。
それは芸術という分野から遠い人間の考え方だと思った。画家たちは、自分が描く一作一作に万感の思いを込める。過去になどなろうはずがない。
しかし、俺は何も口にはしなかった。儚げに薄らいでいく彼女の輪郭をこの世に留める資格など、持ち合わせてはいなかったからだ。
『Missing』
0.
ある夏の日の朝。目が覚めると幽霊に憑かれていた。
とりあえず驚いた。毎朝の習慣でベットから出た後カーテンを開けると、窓の向こう、足場もないはずの空中に女子高生が浮いていたからだ。恐怖より混乱が勝って悲鳴は出なかった。条件反射的に後ずさると、俺を追うように彼女は“窓をすり抜けて”室内に入ってきた。幽霊だ、と思った。そうでなければ物をすり抜けたり出来ない。案の定、犬伏麻耶と名乗った女子高生は、自分は幽霊だとのたまった。そんなもの存在するのだろうか、なんて疑問すら湧かず。ただただ、自分はまだ夢の中なんだな、と思った。
我が身に起こった特異な出来事が、夢でも幻覚でもなく紛れもない事実なのだと理解したのは、付きまとう彼女を丸一日無視しとおした翌日のことだった。その日の朝も、彼女は窓の向こうに浮いていた。一晩経っても続くとなると、流石にただの夢とは思えなかった。
『ねぇ、いい加減に観念したらどう?』
苦笑気味に犬伏麻耶が言う。真っ直ぐ伸びた長い黒髪、細い眉、高めの鼻、スッキリした顎から繋がる細い首、純白のブラウス、結ばれた赤いタイ。上半身だけ見ればどこにでもいるような立派な女子高生だ。しかし、紺色のスカートから伸びるべき足は、どんなに目を凝らしても見あたらない。辛うじて覗く太股から下は末端に向かうにつれて濃度が減少し、いつの間にか綺麗さっぱり空中に消えてしまっている。
『いくら無視したって現実は変わらないんだからさぁ。逃避なんて男らしくないよ?』
ガラスも、カーテンも、俺さえもすり抜け部屋に入ってくる麻耶。ベッドにふわりと腰掛け、からかうような目でこちらを見る。
『ほらほら、もう、素直に受け入れちゃいなさい』
「あんた、幽霊にしては明るすぎないか?」
『不自然さが逆にリアルでしょ?』
「ごもっともで」
溜息混じりに肩をすくめる。夢にしろ過労にしろ、俺自身が作り出した幻覚にしては、彼女の設定はあまりにも“それらしくない”。頭の中にある幽霊像はもっと陰鬱だ。となれば、きっとこれは現実なのだろう。彼女が本物の幽霊だというのなら、別にそれでもいい。信じがたいことだとは思うが、俺がそのことを信じようが信じまいが何かが変わるわけでもない。どうやら無害なようだし、この世に未練があるのなら好きなだけ留まればいい。
制服に着替え、顔を洗いに部屋を出る。何やら拍子抜けした様子で、麻耶が後を追ってきた。
『あ、あのさぁ。なんかあっさりし過ぎてない? 幽霊だよ? 幽霊。あり得ないでしょ。ここもっと大きなリアクションとるところだと思うなぁ』
しきりに俺の身体をすり抜けながら彼女は言う。目元を女子高生が出たり消えたりして非常に前が見辛い。
「あんた、ちょっと邪魔」
『なーんであっさり受け入れちゃうかなぁ。おかしいって絶対。もっとこう、“し、信じられない”とか“これは現実なのか?!”とかやるのが普通でしょう?』
「さっきと言ってることが違うぞ」
ふらつきながらも辛うじて洗面所にたどり着く。鏡に麻耶が映らないのを見て、やはり幽霊なんだと再確認した。少女の幽霊だなんてありがちな展開には映画や小説で免疫がある。呪い殺されそうな悪霊と夜中に出会すならまだしも、爽やかな朝に笑顔の女子高生が現れたところで、どうということはない。驚きはもちろんあった。けれど、取り乱す程の衝撃はなかった。人間案外図太くできている。
洗顔をすませ、ついでに歯も磨いて次はキッチンへ。今日は両親とも早く仕事に出たことを思いだし、朝食を作る煩わしさに少し気分が沈んだ。傍らの麻耶は色々諦めたらしく大人しくなっている。
「なあ、あんた朝飯作れないか?」
無理だとわかっていながらも、願望を込めて尋ねる。壁すら抜けてしまう幽霊だ、どうせ物には触れられない仕組みに違いない。
『作れるよ?』
「ちょっと待て幽霊。どこまでハチャメチャだ」
予想外の返答を責めると、彼女は心外そうに眉を寄せた。
『いや、だってよくあるでしょ、幽霊に足を引っ張られた、とか。基本的にはスケスケだけど、要は胸三寸なわけよ』
私は人には触れられないけどね、などと、歌うように呟いて麻耶は冷蔵庫へ。卵とベーコンをとりだし、勝手に目玉焼きを作り始める。
それは困ると、俺は思った。無害な幽霊くらい家に何人来たって構いやしない。しかし、物に触れられるとなると、もはや生きた人間と同じだ。場合によっては実害を生むこともあるだろう。突然家に女子高生が転がり込んでくるなんて迷惑千万だった。
「他にもあるのか」
テーブルの上のトースターにパンをセットしながら訊く。何が? と、フライパン片手に首だけ振り向く麻耶。
「そういう、幽霊としてのルールみたいな物」
『ああ、あるよ。そんなに沢山はないけど』
何故か楽しそうに彼女は答えた。その存在について詳しく知る必要性を感じた俺は、冗談めかした彼女の説明を真剣に聞いた。
第一に、彼女は俺にしか見えないし、声も聞こえない。
第二に、彼女は自分の意志次第で人間以外の物には触れることが出来る。
第三に、彼女はこの世への未練が無くなれば消える。
一つ目の決まりは納得出来るとして、二つ目の人間以外という制限は少し引っかかった。物に触れるというだけでそれなりの驚きなのだが、どうせ触れるのならなぜ人間だけ駄目なのだろうか。
『んー、まずもってね、幽霊ってのは取捨選択なワケよ』
曰く、幽霊とは生者から様々な要素を引き算した結果なのだそうだ。命という高価な品物を神様から分けてもらうために、死者達は自分の持つ“人間”を質に入れる。足だとか、声だとか、記憶だとか、そういった幾つかの人間的要素を犠牲にし、ようやく現世に舞い戻ってくるらしい。だから世間一般の幽霊は目に見えない。取り憑かれた相手以外には声も聞こえない。ただ、それらの性質は何を捨てたかによって変わるものだから、捨て方によっては、例えば夜中の墓地だけなど限定的に姿を現すことも出来るし、人や物に触れることも出来る。
『スケスケで壁とかすり抜けられるのも、何か特別な力を得たわけじゃなくて、単に“壁に触れられなくなった”だけなの。宙に浮けるのは地面に立てなくなったから。声とか質量とかは、なんて言うか、レートが高いのよね。命って、やっぱり重いから。そういう尊い犠牲を払わないと、貸して貰えないワケ。ほんとはね、その気になれば人にも触れられるんだけど。それだと寿命がごっそり減っちゃうんだ』
フライパンから目を離さない背中越しの説明。幽霊のくせに寿命とは珍妙な。彼女の言葉が正しいかなんて知る由もないが、本人がそう言っているのだから、生きている自分が疑ったところで仕方がない。他にも幾つか疑問はあったが、今はこのくらいにしておくことにした。一気に詰め込もうとすると混乱しそうだったし、朝っぱらから幽霊講釈なんてなんだか不健康だ。
料理が完成したらしく、麻耶はコンロの火を止めると食器棚へ向かった。白い皿を取りだし、元の位置に戻り、今度はキョロキョロと物欲しそうに辺りを見回す。下半身さえ見なければいたって普通の女子高生。これで死んでいるというのだから、現実味なんて持てるはずがない。
近くの引き出しからようやくフライ返しを見付けた麻耶は、出来たての目玉焼きを皿に盛ると誇らしげにテーブルに乗せた。人生初、幽霊による手料理である。
『ソース派? 醤油派? それとも渋く塩胡椒派?』
「マヨネーズ派」
『同志!』
にぱっと嬉しげに笑う麻耶。一口食べて美味いと褒めると、一層笑みを深めた。別に世辞ではない。素直に美味しかった。あんたは食べないのかと問うと、幽霊は食べない、と彼女は答えた。
「まぁ、色々疑問は残るが、それは追々訊いていくとして。あと一ついいか?」
食べ終わった皿を下げ、洗い物までしてくれている背中に尋ねる。麻耶は傾げ気味に首だけ振り返った。
「あんた、どうして幽霊なんかに?」
『そりゃ、死んだからだけど?』
的外れな返答に心中苦笑する。同じ台詞を言い直すのも億劫だったので、別の質問へ差し替えることにした。知りたかったのは、この世に何の未練があったのかということと、もう一つ。
「あんたそもそも、なんで俺に取り憑いてるんだ?」
『そう。それ、私もわかんないのよねー』
えらく脳天気な声で彼女は告白した。少なくとも、調味料の趣味が同じだから、だなんて馬鹿げた理由ではないことだけは確かだった。
第一章「別離へのイニシエーション」