6話 「生誕祭」
解放されたのは夕餉前。
体中の筋肉は悲鳴を上げ、頭は頭で活力を失っている。
休息に入らんとして、身体は睡魔を召喚した。
「酷い目にあった」
眠りに落ちそうな身体に鞭打ち、部屋を目指す。
今は2階、夕餉の間は1階である。
何度も踏み外しそうになりつつも何とか螺旋階段を無事降り切る。
「空腹といえば空腹なのだな」
廊下の向こうより漂ってくる匂い。
匂いに誘われ、腹が堪えられんと言わんばかりに呻いた。
ずっしりとした疲労で鉛のように重かった足が、ほんの少しだけ軽くなる。
「お待たせして、すみません」
しかし、椅子に座った途端、また足は鉛に戻る。
自分で部屋に戻れる自信は最早無い。
「酷い有様だな」
窶れきったテンレイにテイラーは苦笑した。
「遊ぶなら上手くやるんだぞ」
「テイラー!」
レイルザの氷の眼差しで凍り付くテイラー。
「無学で恥をかくのは、テンレイ自身ですわ。お分かり?」
「それは確かにそうかもしれないが、過剰な勉学は貴重な子供時代を奪うだけだ」
これだけは譲れないと、強い語気で反論するテイラー。
「貴重な子供時代だからこそ、生きていく術を徹底的に教える必要があるんです」
しかし、引き下がるレイルザではなかった。
テイラーに負けず劣らず強い語気で言い返す。
まさに、一触即発。
「勘弁して下さい」
空腹も瞼も最早限界であった。
テンレイは「お先に失礼します」と言うと、フォークとナイフを手に取った。
「テイラー、この話は後ほど」
「ああ、そうだな」
二人とも臨戦態勢は崩さぬまま、ナイフとフォークを手に取った。
時折カチャリと食器がぶつかる音以外は無音、シンとした静寂で包まれた三人には広すぎる部屋。
(眠すぎる)
控え目すぎるほどの薄味料理をつつきながら、必死に睡魔と戦うテンレイ。
自分が今、何を食べているのかすらよく分からない有様。
(限界だ……)
何かを飲み込んだのが最後、睡魔が笑いかけた。
「早く起きなさい、遅刻する気ですか?」
不機嫌そうなアルヴァの声。
目を開ければ、腕を組んだアルヴァが傍らに居た。
「朝なのか?」
昨夜の記憶は夕餉の間で途切れている。
「私はどうやってここに?」
「テイラー様が」
「な、父上が!?」
何という失態を、とテンレイは頭を抱え呻いた。
「クオレが言うには、テイラー様はとても機嫌が良かったそうですが、“子供で良かった”と」
「父上……」
もう子供じゃないと言ったときのテイラーの寂しげな顔が、脳裏に浮かんだ。
置いていかれた幼子のような、どこか縋るような目が気になって仕方がない。
「父上は、独りぼっちだったのか……?」
応えは返って来なかった。
アルヴァは一言、時間です、そう言っただけだった。
霧がかった思考、動きにキレはない。
「しっかりなさい!」
動きの鈍いテンレイに痺れを切らし、てきぱきと服を着替えさせ、慣れた手つきで装飾品で飾ってゆく。
「ほら、下に行きますよ!」
気がつけば、髪まで整えられていた。
恐るべき手際の良さ。
「騎士兼執事に職を改めたらどうだ」
「丁重にお断りさせていただきます」
アルヴァは急ぎながらも冷静に、ゆっくりと歩き始めた。
しかし、それは部屋を出るまでのこと。
「急ぐのですよ」
部屋を出る間際にそう言うと、つかつかと早足と言って良い程の速さで歩き始めた。
「速い!」
テンレイはその背を、半分小走りになって追った。
馴染みの螺旋階段を下りに下って、あっと言う間に一階に着く。
「今から馬で行って間に合うのか?」
「何を寝ぼけたことを……。転移魔法陣を使いますよ」
入り口とは反対側、武器庫に向かって歩き出すアルヴァ。
「ああ、なるほど」
転移魔法陣とは、ブリステアの英知、時空魔法により描かれた魔法陣で、その力を引き出せるのは王家の血を引く者だけである。
ブリステア国内に点在する魔法陣はそれぞれ一対一で繋がっている。
二人が向かっている場所にある陣は、首都メルフォンに繋がっている、最も重要な七つの陣の一つである。
「クトックナー行きと違って流石、って感じだな」
「当然でしょう」
騙し扉を潜り抜けること5つ。
たどり着いた先には、テイラーとレイルザ、そしてクオレが居た。
「あとは任せました、クオレ」
「言われずとも分かっていますよ、アルヴァ」
それだけ言うと、アルヴァはテンレイの横を通り過ぎ、来たときよりもさらに速く、足早に去っていった。
隙はいつにも増して無かった。
「アルヴァは、やっぱり行かないのか」
付き人はいつでもクオレであった。
「彼には、トワルの仕事が山のようにありますから」
適材適所、私は書類系統はさっぱりですからと柔らかに笑んだ。
「そろそろ、行くぞ」
魔法陣は紺碧に、脈打つように輝いていた。
陣の内に足を踏み入れ、4人。
枠内に入ったことを確認すると、テイラーは右手を振り上げ、声を上げた。
「我はルシフェルの血族、認知せよ」
途端に歪み始める視界、どうしても慣れぬ宙にふわりと浮く感覚。
胃からせり上がる何かを感じて、テンレイは目を閉ざした。
瞼の向こうではあまたの色彩が混じり合い、線を引いては消えて行っているのだろう。
狭間に入りて、暫く。
足が地に着く感覚と同時に、テンレイは目を開いた。
「静かなものだ」
会場とは思えぬほど、しんと静まり返っていた。
たどり着いた先も隔絶された一室で、数枚の騙し扉によって守られているのだ。
足下の鉛白に光る魔法陣だけが、確かに移動してきたという事実を伝えている。
「覚悟は良いか、テンレイ」
「……なんとか」
「では、行こうか」
ここの騙し扉も5つであった。
ただし、こちらの騙し扉は実に類似性が高い。
扉に彫られたブリステアのレリーフに目を凝らし、真に正しき紋章を見極める。
違いは細かな物ばかり、慎重にやらねばならぬ作業である。
「これに違いない」
繰り返すこと5度。
扉の向こうは、我先に広間へ行かんとする人々でごった返していた。
「毎度思うのですが、野蛮ですね」
テンレイは不愉快感から顔を歪め、吐き捨てた。
「思っても言うんじゃない、少なくともここではな」
「聞こえませんよ、正気には程遠い」
宴の席の生き地獄を思うと、気が重くて仕方がないテンレイであった。
こちらに気付くなり、血相を変えて寄ってくる人人人。
笑顔の裏にちらつく下心。
気取った豪奢なドレスにタキシード、目映いばかりのいかにも重量がありそうなジュエル。
雪崩のように襲いかかる夜会の誘いを顔色一つ変えず払い退けていくテイラーと嫌悪を隠せず眉間に皺を寄せるテンレイ。
そんなテンレイの様子を見咎めて、言う。
「我慢するのですよ、そして慣れるのです」
テンレイは助けを求め、傍らに控えるクオレを見るも、クオレはゆっくりと頷いただけであった。
(どうして私はこんな世界に生まれてしまったのだろう)
クオレの陰に隠れ、テンレイは密かに溜め息を吐いた。
しかし、その姿を見ていた者が居た。
「なーに、溜め息吐いちゃってんの?」
この場にふさわしくない、砕けた物言い。
振り向けば、無邪気に笑う少年が一人。
「ロウ! 脅かすなよ……」
「ははっ、ごめんごめん」
折角整えられた髪を掻く少年は、クトックナー公子ロウ・ネドル。
テンレイの従弟であり、弟分であった。
「で、元気っしてた?」
「そこそこだな。人に酔ってきた」
「はは、テンレイらしいや」
気がつけばテンレイは心から笑っていた。
眉間の皺は嘘のように消えていた。
子供同士の会話は弾みに弾む。
お互い、似たような境遇ーー周囲に同年代の者が居ないのだ。
それ故に話の種は尽きることなく、むしろ時が経つほどに会話は加速する。
テイラー、レイルザ、クオレが居なくなったことにも気付かないほど、テンレイは会話に夢中になっていた。
対して、ロウは三人が離れていくのを待っていた。
会話を続けつつ、ちらりちらりと、離れゆく三つの背中を落ちつかない様子で観察していた。
そして、三人の背中が人混みに消えたのを確認してから、吐き出す。
「それはそうと、早速だけど明日こっちに来いよ! 良い場所見つけたんだ!」
待ちに待った後の決死の言葉。
「明日って、いくら何でも無茶だろう」
しかし、テンレイはリアリスト。
真顔でそう一蹴した。
だが、そこで引き下がるようなロウではなかった。
「明日しか駄目なんだよ! 明日はほら、伯母様も伯父様も生誕祭でぐったりだから、ちょちょいっと城抜け出せるだろ?」
必死の形相で説得するロウ。
「いや、アルヴァが居る」
一番厄介な者がトワルには居るのだ。
抜け出せたとしても、落雷は必須。
「昨日だって、酷い目にあったんだ」
「へぇ……どんな?」
好奇心に目を輝かせ、迫ってくるロウ。
「他人事と思ってるだろ?」
「おう!」
「一度、殴らせてくれないだろうか?」
口角は上がっていた。
しかし、その目は爛々と輝いている。
「わ、悪かったよ」
両手を上げて、後ずさるロウ。
頬が恐怖でひきつり不自然。
すっかり勢いを失ってしまったロウの様子に満足し、テンレイは目を細めた。
彼はゆっくりと深呼吸を二、三度した後、言葉を紡ぎ出した。
「確かに、まあ、何をしようがアルヴァは怒る」
その言葉にロウは、ぱあっと表情を明るくした。
「だろ?」
勢いを取り戻し、じりじりと迫り来るロウ。
次はテンレイが両手を上げる番であった。
「明日、行くことにする」
結局、勢いに圧され承諾する。
「おっしゃあー!」
自分が居る場所も忘れ、雄叫びを上げる。
目をきゅっと閉じて、腕を突き上げ、体を曲げて、少年は全身で喜びを表した。
その声に、その様子に眉を顰め、視線を向けた者は少なくなかった。
あまりの傍ら痛さに、テンレイは頭を抱えた。
「場違いな声がしたと思ったら、ロウか」
さらに追い討ちを掛けるようにテイラーが現れた。
「あ、伯父様、ご機嫌麗わしゅう!」
集まる視線も何のその、ロウはにこにこと朗らかに挨拶する。
テイラーも視線を気にする様子もなく、元気そうで何よりだと穏やかに微笑んだ。
(アルヴァなら眉をつり上げ、不作法だとロウを叱るのだろうか)
気難しい顔をして考えるテンレイが居た。
「ところで我が愚弟はどこにいる?」
テイラーはそんなテンレイに気付くことなく、ロウを真っ直ぐ見据え、尋ねた。
「えーっと父上ですか?」
にわかに眉が八の字に下がるロウ。
どうにかして言葉を引き出そうとして、あたふたと手をせわしなく動かし始める。
「ああ、なるほど」
その様子にすべてを悟ったテイラー。
周囲を見回して、令嬢にちょっかい出しているルージを見つけた。
「懲りないな、あいつは」
テイラーはそう言って苦笑を浮かべると、令嬢と彼を引き離しに行った。
「怒ると怖いもんな、お袋」
父親が妻に叱りつけられる様子を思い浮かべて、身を震わせるロウ。
「……ああ、こっちもだ」
彼に話しかけられ、思考の渦から抜け出したテンレイは、ふっ、と苦笑をもらした。
今回はなんとかルージの妻フミリィに見つかる前にルージを連れ戻し、事なきを得た。
挨拶もそこそこ、実兄に文句垂れるルージに、うなだれるテイラー。
苛立ちを押さえ説教するも駄々っ子には何の効力も無かった。
「レイルザ怖くて、女遊び出来ない兄貴はとんだ腰抜けさ!」
その言葉に流石のテイラーの眉もぴくり。
然るべき言葉を返さんと口が開きかけたとき、
「リンゴーン、リンゴーン」
と、空気を、そして鼓膜から体の奥底を震わせる重くずっしりとした鐘の音が鳴り響いた。
それまでの喧噪は嘘のようにぴたりと止み、人々は部屋の最奥、主の座に目を向けた。
暗紫、夜の帳の如き衣を纏った紳士が、甲高い靴音と共に現れた。
「紳士淑女の皆様、ご着席願います」
上がりも下がりもしない、声。
暗き水面を覗いているような錯覚に陥る、漆黒の眼。
「これより、生誕祭と致します。ですがその前に、陛下より皆にお言葉があるそうです」
彼の言葉が終わると同時に現れるは、ゆったりとした紺碧の衣を纏う、老年を過ぎ、老齢に差し掛かった小男。
彼こそがブリステアの皇帝、アーネイ・ノイルスである。
彼の姿を見るなり、父が顔をしかめたのをテンレイは見逃さなかった。
(やっぱり、何か絶対ある)
王座に腰掛ける、皇帝を見据える。
覇気、威厳が特に感じられるようではない。
だが、眼だけが広原を見下ろす猛禽類のような鋭い光を放っていた。
(気に入らない)
テンレイもまた、顔をしかめた。
「皆、我が生誕祭へよくぞ来てくれた。今宵は存分に楽しむといいだろう」
どっと湧く場内。
しかし、それは皇帝により鎮められた。
「だが、その前に言わねばならぬことがある」
長く、溜め息ほどに息を深く吐き出す皇帝。
その容貌には深い皺が刻まれ、疲労滲んでいた。
「他でもない氷龍海を挟み、対岸の侵略国家、アクフレージョンのことじゃ。彼の国が、同族とも言えるフローガル、ウィーナイラの二国を支配下に置いたのだ」
一つ海を挟んだ向こう側で血みどろの侵略戦争が繰り返されていた。
海を挟んで向こうの大陸にはアクフレージョン、ウィーナイラ、フローガル、そして砂塵の帝国サフルーズがある。
つまり、残すは国は同大陸でサフルーズのみ、ブリステアが標的になるのは時間の問題であった。
「更に忌々しきことに……」
人々が固唾を呑んで、続く言葉を待つ。
テンレイもその一人であったが、邪魔が入った。
「もう、どこに行ってたのよ!」
突然現れる烈火のイブニングドレスを纏った女性。
その背後には垂眼の騎士がおどおどとした様子で控えていた。
「奥様どうか、お静かに……!」
「レドール、わたくし怒ってるの」
「場を弁えてください」
クトックナー公爵婦人、そしてロウの実母フミリィと同地の騎士団長レドールである。
「私からもお願いするわ、フミリィ」
遅れて、クオレを従えたレイルザも登場。
「明日に関わる話なの」
怒りで肩を震わせていたフミリィは、義姉の真摯な眼差しに口を噤いだ。
「お話中御免あそばせ」
にっこりと微笑んでレイルザは皇帝に謝罪する。
皇帝は、怒るでもなく咳払い一つ。
「更に忌々しきことに、愚帝は皇子二人を国外追放したという報告がある、性別は分からない、そしてその行方も分からぬ」
ざわめきに包まれる場内。
蒼白な顔で、テイラー、ルージ、そしてテンレイとロウを注視する人々。
「トワル、クトックナーの両公は特に気をつけるのだ」
猛禽の目を光らせ、皇帝もまた、彼らを見ていた。