3話 「城主の帰還」
その声に皆ざわめく。
黒青色の上衣、同じ色の羽帽子を身に纏った長身の男が、テンレイを阻んでいた。
その手には、刀身、柄、鍔に精巧に龍が彫られた、純白の刀が握られている。
――突如現れたのは、他でもないトワル公爵、テイラー・ザルクその人であった。
「全く、楽しそうで何よりだ」
呆然として硬直してしまっているテンレイからテイラーは細剣をひょいと取り上げた。
「あまり甘やかさないでくれよ? アルヴァ」
彼は刀を鞘に収め、呆れたように人垣から距離を置いて立っているアルヴァに言った。
「申し訳有りません」
従順に、そして深々と頭を下げるアルヴァ。
その動作に常の嫌味っぽさは微塵もない。
「そう堅苦しくなる必要はないぞ。私とて、お前を責められるような御身分ではないしな。また、アルヴァだけでなく皆も主君不在の中で十分にやってくれている。テンレイの相手しかり、本来私がすべき、多くの仕事しかりだ」
それでもアルヴァは依然として頭を下げたままであった。
そして、頭を下げたままで彼は言った。
「貴方の部下として当然の勤めを果たしただけです。私どもも貴方様のような有能で有力な主に仕えさせてもらうことを感謝しているのです。その、ご厚意に応えたい一心でございます」
アルヴァの言葉を受けて、取り巻き達は皆、ひざまずいた。皆一様に、アルヴァと同じ意思であった。
「全く、私の方こそ頭が上がらないよ。世間では主君不在の時に悪事の一つや二つ考えつく輩が居てもおかしくないというのに……。私が仕事に集中できるのもお前達のおかげだな、本当に」
仕事、という言葉に反応して、アルヴァは勢い良く頭を上げた。
テイラーは「うおっ!」と呻き、思わず後ずさりした。
「どうした? アルヴァ」
そして眉を顰めて、訝しげに問うた。
「ところで、次の勅命は頂いたのですか?」
対してアルヴァは、いつもの彼のように落ち着き払った態度で応えた。
「またいっちゃうんですか……? 父上」
いつの間にか正気に戻っていたテンレイも、父の上衣を掴み、不安そうに聞く。
いつもは強気な彼も、両親の前では例外無く子供であった。
テイラーは困ったなと苦笑を浮かべる。
そういえばまだ13才といえば、ぎりぎり甘えたい年頃だったなと、過去の自分と思わず重ね合わせていた。
(私はともかくだ。少なくともテンレイが両親に甘えてはいけない理由はないはずだ)
テイラーはテンレイの目の高さまで屈んで、笑った。
「しばらくトワルに居る予定だ。ただし、明日は皇帝の誕生祭だ。だから、厳密には明後日からが本当の休暇だな。お前がアルヴァの言いつけに従うなら、私が稽古を付けてやってもいい」
途端にテンレイの表情が明るくなった。
突然のことすぎて、夢か現実か分からず、少年は自分の体の至る所を、難しい表情を浮かべながら、つねって確かめている。
「ホント? ホントに父上が相手してくれるの?」
「いちいち嘘を吐いてどうする。ただし、アルヴァの言いつけが聞けたら、だからな?」
少年はそれを聞くなり、矢の如き素早さでアルヴァに駆け寄った。
「ねぇ、アルヴァ! 何かない?」
早速食らいついてくる少年に、アルヴァは心底呆れた様子で溜め息を吐く。
「全く、調子が宜しくて何よりですね。貴方って人は……」
語尾は溜め息に消えた。
「ねぇ! ねぇ!」
と、なおも目を輝かせて少年は騎士に縋る。
その幼稚な行動は騎士の毒沼を掘り起こした。。
アルヴァは満面の笑みを浮かべる。
と、同時に騎士達が後ずさった。
テイラーも苦笑いを浮かべている。
(これは一発落とすか?)
等と暢気なことを考えられるのは、彼が強者であるからだろう。
彼以外は、恐怖で青ざめてしまっており、思考停止している。
アルヴァが笑うとろくなことはなかった。
「そうですね、まず貴方にしてもらいたいことは……」
笑顔はそのまま、彼はテンレイの目の高さに合わせるために、ひざまずいた。
そのまま、一時間をおいて、はやる少年をじらす。
「何? 何? 早く言ってよー!」
少年は不満そうに顔をしかめている。
いつもと違ってずいぶん可愛らしい。
(この退行加減、どうにかして欲しいものですね)
アルヴァは内心毒づく。
(まぁ、テイラー様が暫く止まるそうですし、少しは父離れするでしょう)
チラと主君をみやると、彼は視線に気づいて曇りない笑みを返してきた。
(あのお方はあのお方で、久々の長期休暇に親バカモードに突入しました、か)
アルヴァはそれに溜め息混じりの苦笑を返す。
「ねぇ! ちょっと聞いてるの、アルヴァ?」
「えぇ、勿論です」
騎士はもう一度満面の笑みを浮かべた。
「そこまでおっしゃるなら、お言葉に甘えて、遠慮なく言わせてもらいますよ。後悔しても知りませんからね」
ひどく物腰柔らかに、最終警告をした。
その声音に安心しきった少年はこくりこくりと無邪気に頷く。
刹那、したり顔を浮かべる、騎士。
不運にも目に留めてしまった者から小さく悲鳴が上がった。
きっちりと、悲鳴の主を一瞥してから騎士は言葉を紡いだ。
「第一に帝王学、次にブリステアの地勢学、国勢、さらに、史学、言語学、古文学、礼儀作法、極めつけに、舞踏……やることはいくらでもありますよ。貴方が幾度となく怠けるために、一般的に終わっているはずのことも終わってないのです!」
言い終わったときには、笑顔など微塵も残っておらず、そこにあったのは冷酷な眼差し、いつもの彼であった。
「遅れはきっちり取り戻してもらいますからね」
“夕刻を知らせる鐘の後、必ず来るように”と、言い残し、彼は部屋から出ていった。
呆然と立ち尽くすテンレイ、騎士達。
テイラーだけが愉快そうに声を上げて笑い声をあげている。
「仕事を忘れて部屋に戻るとは、相当ストレスを溜めていたようだな!」
稽古の途中だったんだろう? と、副騎士団長のクオレに問いかければ、彼は苦笑しつつ肯定した。
「団長は、テイラー様から命じられた仕事を一挙に引き受けていらっしゃいます。分担する、という考えは頭にないようですよ」
「では、私が気をつけるとしようか。やつが倒れたら私も色々と困る」
テイラーはおもむろに入り口へと歩きだし、そして練習用のレイピアを手に取った。
何をするつもりか、皆が測りかねているのに気付いて、テイラーはまた楽しげに笑った。
「私が稽古を付けてやりたいところだが、クオレ! 頼んだぞ。あいにく、私はレイルザの元に行かねばならない」
と、そのレイピアを彼に差し出す。
「は、承知しました」
彼は従順に応えて、そのレイピアを両手で受け取った。
「皆も、クオレに従って、稽古を続けてくれ! 今日は、全権を彼に委ねる」
壮年の騎士は、気を引き締め、早速部下たちに1対1の打ち合いを始めるよう命じた。
場は、賑やかな剣戟の音で満たされた。
その様子に満足したテイラーは、目の前で繰り広げられる剣戟に羨望の眼差しを向けているテンレイを半ば無理矢理、連れ出した。