3話「力への渇望」
「……では、ネーベル皇子。俺はこれで」
処刑台にて回収した2つの頭をネーベル皇子の足元に投げた。磨かれた黒革のブーツが血で濡れる。しかし、その赤く彩られたブーツを皇子が見ることはない。戯れに罪人にされ、殺された兄弟たちの嘆きが皇子の瞳に映ることはない。
――盲目の皇子は、ただ、夢に沈み嗤うだけ。
からりからりと笑って、皇子はこちらには目も暮れず、腕に抱いた宝物を愛玩するばかり。暗い目をして、それに応える兄から目を逸らし、シェストは部屋を後にした。
夜の帳が降りた廊下は、燭台に刺さった蝋燭の炎の揺らめきと月の光でぼんやりと照らされるばかりで薄暗く、気味が悪いほどに静まり返っている。
そして、1人歩くにはこの回廊は広すぎる。顔をあげる気にもなれず、俯いて歩けば絨毯に散った黒い染みが嫌に目についた。
(どうせ、明日には消えてる)
傍らを、真新しい絨毯を抱えた侍従たちが通り過ぎて行った。明日どころかもう数十分も経てば、綺麗さっぱり消されてしまうだろう。最初から存在しなかったことにされるだろう。
――徒に殺された兄弟達のことなど、みんな忘れてしまう。
だが、レイネだけはその無念を憎悪を悲しみを背負い続ける。剣を振るう痛みを離そうとしない。どれだけ堕ちようとも、どれだけ貶されようとも、立ち続ける。
“兄弟”を守るために。
「クソ……ッ」
また、自己犠牲に守られてしまった。あの腕の中から兄を連れ出そうともせず、逃げてきてしまった。
――次こそは、今度こそは。
そう胸に誓ってもう何度目だろうか。何度、何年、繰り返せば、この茶番を終わらせることが出来るのだろうか。引き返す勇気もなく、少年は唇を噛む。
そんな少年に声をかける者は誰も居ない。誰もが少年など目に入っていないかのように振舞い、通り過ぎていく。
(俺達は、レイネ兄さんを揺するためだけに生かされた玩具)
第6皇子という肩書も名ばかりで、後ろ盾を失った王族など扱いが面倒な奴隷のようなもの。最後に“兄弟”以外に挨拶をされたのは、果たしていつだっただろうか。道行く騎士も、部屋を訪れる侍従すらも、沈黙し、挨拶に答えることはない。彼らはただ、機械仕掛けの人形のように、命じられた仕事をこなすだけ。
少年は舌打ちを1つして、道行く影から目を逸らした。
「ああ……今宵は」
ガラス張りの大窓へ視線を移すと、闇に包まれた市街をぼうと照らす満月が目に入った。
月は人を狂わせるという。特に、始祖神の片割れ女神イーラの血を引く者は月の影響を受けやすいとされている。
「……ただの獣じゃないか」
今夜は、レイネが箱庭に戻ってくることはないだろう。月に狂わされた獣に捧げられた供物として、その身を捧げる――諸手を広げ、命すらも晒して、獣を懐に迎え入れる。
――全ては“兄弟”を護り、生かすための自己犠牲。
「護ってくれなんて、一言も、言ってねぇだろ」
己の無力さを呪う。今の己は、供物を供物たらしめるための枷でしかない。
ネーベルが、レイネに執着していなければ、とっくの昔に処刑されていたであろう、取るに足らない命なのだ。ネーベルの足元に転がされ、その足を赤く穢した、兄弟達と同じ。
否、それ以下だ。彼らには、まだ後ろ盾が居た。母親、そしてその血族達が。
彼らは皇族として名乗り、認識されるだけの価値を認められていた。そして、皇族として処刑された。
だが、自分たちは? 後ろ盾であった母はすでに亡く、その血族はもう、第一皇子ネーベルの母とその一族により絶やされたという。寄る辺も失い、皇族とは名ばかりとなった自分達は、皇族として死ぬことすら許されぬのだろうか。
「嗚呼、そんなことはどうでもいい」
血で血を洗うような、呪わしいこの日々を変えるだけの力が手に入るなら、それだけでいい。腐り堕ちた黒龍となり果てるのも恐れない。
――もう失うものなど、“兄弟”以外には何もありはしないのだから。
「……おかえりなさいませ、お兄様」
部屋を出た時と変わらぬ様相で、少女は兄の帰りを待っていた。窓辺で佇む少女は、月の光を背に浴び、その表情を窺い知ることは出来ないが、恐らくは人形のような温もりのない微笑を浮かべているだろう。
「ああ、ただいま。クルア」
返ってくる声が1つしかないことに心を痛めながらも、それを決して表に出そうとしない妹に、底知れぬ嫌悪感を感じて、シェストはぶっきらぼうに応えた。
頭では分かっている。
この箱庭に閉じ込めることが、クルアを護るためには最善の方法であることは。幸か不幸か、クルアは利口で物分かりの良い少女であった。
兄に、鳥籠から出るなと言われても、嫌な顔一つせず、彼女はただ「はい、お兄様」とだけ言って、その言いつけをその日からずっと守っている。微笑を浮かべて処刑台へ向かう兄達を見送り、そして2人の帰りを待つ日々を繰り返す。
――彼女の世界は、この狭い部屋と窓から見える景色だけだ。
「……訊かないのか?」
外のことを、今日のことを……そして、1人で戻ってきた理由を。
悔しさで震えそうになる拳を握りしめて、シェストは少女に問いかけた、絞り出すような声で。
しかし、少女は、ゆっくりと首を横に振った。そして、椅子からゆっくりと立ち上がると、ドアの前で立ち尽くす兄に近寄り、血で汚れた拳をそっと包み込んで、
「シェストお兄様は十分に苦しんでおられます」
と言って、慈母のような笑みを浮かべた。
深い悲しみと恐怖を隠すかのように、微笑みを張り付けて、少女は、震える唇で続ける。
「今宵は、満月がお綺麗ですから」
(レイネお兄様は帰ってこないのでしょう)
少女は全てを知っていて、素知らぬふりをする。微笑みですべてを隠して、無知を装う。
「イーラ様に祈りを捧げましょう」
(兄様がご無事でありますように)
救いの手を差し伸べてくれる神など居ないのに、少女は祈る。鳥籠に閉じ込められた彼女は、祈りを捧げることしかできない。
「嗚呼」
己は無力さを呪った。兄の傍らに居ながら、その苦しみを背負うことも出来ず、供物として捧げられんとしている兄を見捨てて逃げ帰る他なかった己を呪った。
だが、彼女は?
鳥籠に囚われ、無事を祈って祈りを捧げることしか出来ない彼女の悲しみは?
「女神イーラよ、我が願いを聞き届けて呉れるならば――」
そうだ、全ては、無力な己が悪い。力さえあれば、ネーベルから兄を取り戻し、クルアをここから出してやれるほどの力があれば。
少年は祈る。聞き届けて呉れる神など居ないと叫びながら、神に力を強請る。
「シェストお兄様、これでは御手が傷付いてしまいますわ」
クルアは握りしめた拳を開かせようと、その手を優しく撫でさする。
「綺麗な御手をされているのに」
そう言って赤黒く汚れた手に触れる少女の手は、傷1つ無く雪の様に白い。その穢れを知らぬ純潔を穢しているような錯覚に陥り、シェストはパッとその手を乱暴に振り払った。
「綺麗なもんかよ」
微笑みの隙間から見えた少女の怯えた表情に一抹の思いはあったが、気付かぬふりをして、シェストは逃げるようにして浴室へ向かう。
短く詠唱し指先に小さな火を灯して、燭台にその火を移す。ぼうっと照らされた鏡には、薄汚れ、草臥れたみすぼらしい少年が映りこんでいる。
「……綺麗なもんかよ」
そう言って嗤えば、鏡に映る少年も嗤った。からからと、虚ろに。
されども、その紺碧の眼だけは爛々と輝き、酷く飢えていた。
「ただの獣じゃないか」
血に染まった両手を見下ろし、自嘲する。
悔いてなど居ない、決して。この穢れは、兄の傍らに立つための傷み。兄の苦しみの一端を背負いたいと願い、得た兄の傷みの一端。
穢れることに何ら嫌悪感は無い。処刑される名も知らぬ兄弟達に何の情も無ければ、罪悪感など持ち合わせてはいない。煩い頭は早々に落としてしまうに限る。
処刑人としては優しすぎる兄よりは適任である自信はあった。
「俺は、何も怖くない」
だが、血濡れた手にクルアの真白い手が触れているのを目にした時、湧き起こったのは紛れもない恐怖だった。穢れてしまった事実に慄く己に気が付いた。
「何も恐れてなんかいない」
言い聞かせるように少年はそう言って、頭を振る。自分の弱さを振り払うように。
――少年はその手が清められても暫く、亡霊に取りつかれたかのように洗い続けていた。