1話 「闇帝国アクフレージョン」
少女は外を見つめていた。来る日も、来る日も、日が昇れば窓辺に椅子を運んで、日が暮れるまでずっと、様々に表情を変える空模様をぼんやりとただ見つめていた。おもむろに軋んだ音を立てて開かれた扉に振り返ることもない。そんな少女の様子に、扉の向こうから現れた青年と少年は表情を曇らせた。
「レイネ兄さん、やっぱり……」
少年はそこで言葉を切った。否、言葉が、続かなかったのだ。途切れてしまった言葉の代わりに、少年は不安げに揺れる視線を青年に向けた。その視線にはどことなく咎める色も宿っていた。その視線に、青年は困ったように微笑んだ。そして少年の頭に手を載せ、目を閉じてゆっくりと首を横に振ると、少年のもの言いたげな視線に背を向けて静かに少女に歩み寄った。
「今日も空を見ているのかい? クルアは本当に、空が好きだね」
少女に語りかける青年の表情、声音は共に酷く穏やかだった。また、青年の声に少女は、ゆったりと振り返ると、その青玉の目を細めてふわりと花が開くように微笑んだ。
「レイネ兄様、戻られたのですね。ああ、シェスト兄様も。良かった……」
胸に手を重ね、そう言う彼女は眩しいばかりの笑顔を二人に向ける。
しかし、その笑顔にシェストと呼ばれた少年は嫌悪感を露にする。そして、少女から目を逸らすと、彼は、また咎めるように兄を睨んだ。しかし、兄はこちらには振り返らない。少女もまた、少年のその態度に何事かと問うことも、不安に瞳を揺らすことも無い。少年の前には見えない壁があった。少年には、その壁を砕く力も、心の強さも無い。それ故に、幾度も繰り返されるそのやり取りを、ただ見ていることしか出来ない。腹の底で燻ぶる思いを吐き出すことも出来ずに、幼子の様に指を咥えて見つめることしか出来ないのだ。
(いつまでこんな茶番を続けるつもりなんだ)
少年は、密かに舌打ちをした。
幻帝国ブリステアの氷龍海を挟んで南方に位置する国家アクフレージョン。闇帝国とも呼ばれるこの国はかつて、その位置を生かした交易によって栄えた大国である。フローガル、ウィーナイラ両国からは肥沃な大地で育った様々な農作物と、その加工品が、そして両国のさらに南にある砂塵の国サフルーズからは、質の良い毛皮や、曇りなく輝きを放つ色とりどりの宝玉とその加工品がアクフレージョンに集結し、そこからさらに海を渡ってブリステアへと運ばれていく。世界を渡り歩く商人達が集う街の市は昼夜問わず賑わいを見せ、至る所から商人やその客の陽気な笑い声が聞こえてくるような、闇とは程遠い国であった。
しかし、今やその面影は残っていない。街に響くのは、命を絶つ刃の滑る音と断末魔の叫び声、そしてそれらをあざ笑うかのように頭上を旋回する大鴉のしわがれた鳴き声だけだ。首を斬られた咎人の前で、刃を吊り下げる縄を断ち切った青年は、転げた首を暫し凝視した後、縄を断ち切る時に振るう幅広の剣をその胸に抱きかかえて、空を仰いだ。少年はその姿を網膜に焼き付ける。
(ああ、そういう顔を見せてくれよ)
夕暮れの、橙色の強い光は彼の端正な横顔を染め上げ、立ちつくす彼の影を色濃く長くする。まだ生温い緋色の台座で剣を胸に抱き、静かに空を仰ぐ彼はさながら、伝承に語られる黒き翼の女神―始祖神イーラ―を彷彿させた。風に踊らされた金糸の髪は光を受けてキラキラと輝いている。その煌めく髪の合間から覗く瞼には深い哀愁が籠っていた。
少年は目を閉じて瞳の裏に焼き付いた兄の姿を認めると、ふっと口元を緩めた。
(ああ、生きている。まだ、死んじゃいない)
立ち尽くす青年の姿を視界の端に置きながら、少年は、切り離された頭を回収すべく、緋色に染まる禍々しい舞台に足を踏み入れた。
少年が床に転がった首を拾い上げ、頭上高く持ち上げると、人々は即座に引き攣った笑いを浮かべて、恐怖で震える口を必死に動かして裏切り者を罵り、王を称賛する。狂っている、と少年は笑う。
(そんなことしたって、あいつは絶望しか与えないのに)
この国に、後ろ盾無き貴族の居場所など、どこにも無い。民にもなれず、貴族にもなれず、自分が何者かも分からないまま、ただ与えられるままにこの手を緋色に染めていく。血にはその者の魂が宿るから、死にごく近い者の飢えた血は、次なる宿主を探している故、そのような血に触れると、徐々に、ある者は彼の意思に急速に侵食されていき、終には自己を喪失してしまうのだと、誰かが言った。もしそうだとすれば、自分も兄も手遅れだろうと、少年は頭から滴る血で汚れた手を見て、今この瞬間にも窓辺に佇み、兄の帰りを待ち続けているであろう少女の姿を思い浮かべる。
おそらくは、彼女はもう知っているのだろう。部屋から出ても、行く宛など何処にもない事を。全てを覆い隠すには、あの部屋は明るすぎる。磨き上げられた窓では、街の至る所を穢す緋色を隠すことはできない。また、音はどれほど遮ろうとも、するりするりと古い石壁の隙間を縫って部屋に忍び込む。窓の向こうからは、人々の悲痛な叫びと彼らを絶望に突き落とす刃の音が、扉の向こうからは、他の兄弟やその後ろ盾の自分や兄たちへ向けられる敵意に満ちた身を突き刺すような言葉が、容赦なく少女の耳を苛む。
それでも、彼女は何事も無かったように微笑んで、兄を迎えるのだ。そう、今、目の前で、白磁の滑らかな手を鮮血で穢しても、それを拭おうともせずに、大丈夫だと言って相好を崩す青年の様に。
少年は掲げていた頭を、その主へ返した。名前も知らない相手だった。だが、その顔は自分達によく似ていた。
「馬鹿だな」
少年は、死してもなお怒りに満ちた表情で宙を睨み据える頭に向かって、ただそれだけ言うと、処刑台から下りた。
その少年に続いて青年も、処刑台から下りる。しかし、これで全てが終わったわけではない。
二人は、手慣れた手付きであらかじめ用意していた枯れ草を纏めると、処刑台へ運び、積み上げていく。人々は、その様子を固唾を呑んで見守る。否、ガタガタと恐怖で身体を震わせる彼らには見守ることしか出来なかったのだ。
死者を、枯れ草ですっかり覆ってしまうと、青年は少年に下がるように言う。そこで素直に従う少年では無い。なかなか食い下がらない少年に、青年はいつもの困ったような微笑みを浮かべた。
「シェスト、良いんだ」
優しい声音で、そうは言ったが、少年を階段へ押しやる左手には強い力が込められていた。その力に抗うことも出来ない少年は、その顔に悔しさを滲ませた。だが、これ以上は兄を困らせるだけだと、怒りで震える腕はそのままに、処刑台から下りた。それから間もなく、緋色の舞台に、火が放たれた。
その種火を前にして、青年は剣を胸に抱き、言葉を紡いだ。
――勇敢かつ高潔なる兄弟よ、せめて、安らかなる眠りを。
青年は、懐から、琥珀色をした精油の入った瓶を取り出して、その中身を産声を上げたばかりのか弱い灯火に振りかけた。すると、まるで、魂を吹き込まれたかのように、急速に勢いを得て火は炎となる。そして、炎は枯れ草を喰らい、空気を呑みこんで、天を貫かんばかりの煌々とした火柱と化した。
自ら開いた死者の国――ラシアナ――への入口に引きずり込まれる前に青年は処刑台から下りる。幅広の剣をその胸にしっかりと抱きしめて、火柱を見上げる彼の顔に笑顔は無い。その隣に佇む少年もまた、火柱の頂上をじっと睨み据えていた。