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【1】CrossDestiny  作者: 氷鴉 刹
1章「古き本と黒き鳥」
15/18

13話 「真実の断片」

「随分と話が弾んでるようねえ? 楽しそうで何よりだわ。って、どうしたのあんた。そんな疲れた顔して」

 右手に湯気がたち上る白のカップ&ソーサー、左手に栓抜きとグラスをそれぞれ持った女店主が、項垂れるテンレイを見るなり目を丸くした。

そして、こいつと喧嘩でもしたのかいと、向かい側で背凭れに身を預けニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべているロウを顎でしゃくる。

女店主の問い掛けにテンレイは、ただ弱々しく首を振り、微笑んだ。

「いや、ただ自分の力不足を恥じていただけですよ」

 それだけ言うと、深く溜め息をついて、また俯いてしまった。その様子を見てロウは声を上げて笑い始めた。女店主は、横目でロウを睨み据えると、俯くテンレイの鼻先に右手を差し出した。

「力不足ねえ。何のことかは分からないけれど、まあとりあえずこれでも飲んで元気だしな」

 テンレイが顔を上げると、そこには柔らかく笑む女店主の姿があった。笑顔に彩られた容貌は、クトックナーを白く染め上げる陽光のように(まばゆ)く、陰りを感じさせない。その眩い(かんばせ)を艶のある黒髪が縁取っている。

(そうか、これが)

 彼女の本当の姿かと、テンレイは一人納得した。口許に緩く弧を描いて、差し出された紅茶を受け取ると、柔らかく優しい香りが鼻孔を擽った。香りに誘われるようにして一口含んだ瞬間、自然と声が漏れた。

「美味しい」

 渋みの少ない澄んだ味わいが口の中で花開き、柔らかく優しい香りと混ざり合い鼻筋へ抜けていく。ミルクの量も絶妙で、茶葉の良さを殺さずそれでいてしっかりとその存在を主張するのを忘れていない。

「とても、美味しいです」

 そう言って破顔すると、女店主もまた顔を綻ばせた。

「あら、ありがとう。私もこの茶葉気に入ってるのよ。南のキレのある茶葉も良いけれど、私はやっぱり飲みなれたこれ(寒冷種)が好きね。あと、はいこれ」

 ロウに左手を差し出せば、あっと声を上げた。

「すっかり忘れてたぜ! ありがとな」

 グラスと栓抜きを受け取り、円卓に置くと、傍らで鎮座させていたキウイジュースを膝に乗せた。そして、栓抜きの先ををコルクに押し当てた。小さな手に握られた栓抜きは、何度もコルクを捉えるけれども、力が足りずにコルクに弾かれる。そんな少年の様子に、女店主はくつくつと笑む。

「それじゃ何時まで経っても飲めそうにないわね。かして頂戴」

 ロウは素直に瓶と栓抜きを差し出した。女店主はそれを受け取ると、手慣れた手つきでコルクを抜いた。ポンと乾いた音が店内に響く。

「おお、さっすがー。お見事」

 そう言って手を叩き褒めるロウに、女店主は褒めても何も出ないわよと目を細める。だが口元は、笑っていた。

「しっかし、あれだけ欲しがってたのに忘れるって、そんなに面白い話をしてたのかい?」

 キウイジュースをグラスに注ぎながら、女店主は問い掛ける。それに、ロウは身を乗り出して答えた。

「そうなんだよ! 聞いてく――」

 しかし、ロウの言葉はそこで途絶えた。テンレイがロウの口を押さえてしまったからだ。テンレイは不満を露わにするロウの肩を抱いて、女店主に背を向けた。

「何を考えているんだ。気付かれたらどうする!」

 声を潜め、ロウを責めるテンレイに対しロウはただ悪戯っぽい笑みを返す。

「なあに、問題ないさ。それに、レドールの奥さんなら、何か知ってるかもしれないだろ?」

 軽率ではあるが彼は愚かでは無い。それを知っているテンレイは渋い表情はそのままではあったが、ロウの言い分を受け入れてこういった。

「くれぐれも、私達の素性がばれないように気を付けてくれよ」

「分かってるって」

 二人揃って女店主に向き直れば、彼女は怒るでもなく、ただ穏やかに微笑みこちらを見詰めていた。

「相談は終わったかしら?」

 ロウは彼女に歯を見せて笑い返した。そして、テンレイの背中を二度強く叩きこう言った。  

「ごめんごめん。こいつ、人見知りでさ」

 テンレイはロウを一睨みしたが、ロウは片目を瞑って返す。まかせてろと、その口が音も無く告げた。

「あら、そうなの」

 女店主は特に不審な顔はしなかった。

「それで、どんな面白い話なのかしら?」

 それよりも、暇を持て余した彼女は、二人の話が気になって仕方がないようだ。その黒曜石のような瞳が、鋭い光を放っている。

それに気付いたロウが一瞬、あの嫌らしい笑顔を浮かべたのをテンレイは見逃さなかった。

(頼むから、やりすぎるなよ)

 そんなテンレイの心中を知ってか知らずか、ロウは子供らしい無邪気な笑顔を浮かべて、女店主に返事した。

「んーとねー、こいつの知り合いに、金髪のやつが居るんだけど、そいつも難民なのかなと」

 それを聞いた女主人は、頬に手を当てしばし考えこんだ。

「難民、ねえ。黒以外の髪色はみんな余所者(よそもの)なんでしょうけど……」

 そして出された女店主の返答は歯切れが悪く、その顔もどことなく暗かった。

「何か、あるんですか?」

 その歯切れの悪さに引っ掛かりを覚えたテンレイがおずおずと尋ねると、女店主は困ったように眉を寄せて笑った。

「いやね、一つだけ心当たりがあるのよ」

「心当たりって、もしかして金髪のブリステア人?」

「そうよ」

 目をキラキラと輝かせ身を乗り出すロウの額を、苦笑いを浮かべて人差し指で押し止める。

「忘れもしないわ」

 それだけ言うと、彼女は目を閉じてしまった。目を閉じ、胸に手を当てて、二度三度深く呼吸を繰り返す。それから何かを振り払うように首を振ると彼女はゆっくりと目を開けた。

「若い頃に、見たことがあるのよ。そうねえ……十年以上前にね。まだ、難民なんて居なかった頃よ」

 そう語る彼女の眼差しは温かくもあり、また、どこか寂しさも感じさせた。

「それで、その人とは話したのですか?」

「ええ、話したわ。世間話は色々とね。でも、自分の事は何一つ話そうとはしなかったわ」

 過去に思いを馳せて語る彼女の横顔はやはり寂しい。

「ただ、嫌っていたわねえ、自分の容姿を」

 その言葉に食い付くのはロウであった。

「そんなに酷い見た目だったのかよ」

「いいえ、そんなことは無かったわ。醜いどころか、この世の者とは思えないほど、整った顔立ちをしていたわ」

「変な奴。見た目が良いなんて最高じゃないか」

 ロウは、信じられねえと口を尖らせると背凭れに身を預けて天井を仰いだ。

「まあ、人には色々とあるものなのよ」

「んー、そういうものなのか?」

「そういうものよ」

 気難しい顔で首を捻り呻くロウの頭を撫でて女店主は穏やかに笑って言った。

「他に特徴とかあるかしら?」

 女店主は少し疲れた顔をしていたが、話を止める気は無いらしい。

「あるか?」

 ロウに話を振られたテンレイはその脳裏に、あの憎たらしい世話係の顔を思い浮かべる。どれほど人が居ようと目につくあの特徴的な暗い金色の髪と、剣を振るう度に舞う金色……。

(違う、他にも何かある筈だ)

 金色の隙間から覗くのは何だ? 自分を睨み据えて、未熟さを責めるあの凍て付いた切れ長の眼、その目は何色をしている?

「……紫だ。そいつの目は紫色をしている」

 それを耳にした途端女店主の笑顔が凍り付いた。

「目が、紫!?」

 女店主は目に見えて動揺していた。眼は見開かれ、胸に当てられていた手は固い拳となりふるふると小刻みに震えている。

その様子に不安を覚えたテンレイは、彼女に手を伸ばしたが、彼女はそれを拒んだ。

大丈夫、大丈夫だからと小さくもらして、震える拳をもう片方で包み込んだ。

「取り乱してごめんなさい。あまりにもあの人に似ていたものだから驚いてしまっただけよ」

 再び、彼女は笑みを浮かべた、ぎこちない笑みを。その笑顔があまりにも痛々しかったので、テンレイは思わず目を逸らした。

口を閉ざしてしまったテンレイの代わりにロウが、彼女に問い掛けた。

「あの人?」

「その、私が昔出会った金髪の人も、紫色の目をしていたのよ」

 一言一言噛み締めるようにして彼女はそう言った。細められた目は、どこか遠くを見詰めている。

「その人はこう言ったの、”この紫の目は、厄災の、汚れの象徴だ”と」

 その言葉に、テンレイは逸らした目を再び彼女に向けた。

(厄災、穢れ? 紫は高貴を意味するんじゃないのか?)

 始祖神の持ち物である白龍刀を継承するブリステアでは、白が最も高貴な色とされているが、紫もまた高貴な色とされている。白は神の色ということで、高貴とされているが、紫は一重に、その染料の生成が難しく、大変高価である。貴族の中でもごく一部の者しか身に着けることが出来ない。それ故に、貴族の色とされ高貴の象徴とされている。テンレイは、そう教えられていたし、実際首都に赴いたときに、紫の衣に身を包む人々を数多く見た。

テンレイは一人首を捻った。その人は貴族に何か、恨みでも抱いていたのだろうか、と。しかし、その人は、“紫”では無く、“紫の目”と言った。しかも、己の目を指して言ったという。テンレイは、眉間に皺を寄せた。

「でも、私はその紫色の目が好きだったわ」

 そんなテンレイの様子など気付かずに彼女はただ、儚げに微笑んだ。

「……なんてね。昔のことよ、もうあまり思い出せないわ。少しは助けになったかしら?」

 その儚さを自分で振り払って、代わりに歯を見せて悪戯っぽい子供の様な笑顔を浮かべた。ロウもつられてニッと歯を見せ笑った。

「少しどころか、大収穫だぜ! な?」

 ロウの陽気な声に、テンレイは顔を上げる。眉間には皺が寄ったままだ。

「なんだよ、そんな難しい顔して」

「いや、何でも無い。少し気になることがあったんだ」

 何だよ聞かせろよと迫るロウに、大したことじゃないと言ってテンレイはかわす。紫の染料は先程も言ったように、希少価値が高く非常に高価なものだ。公爵直属騎士団の団長の奥方であっても身に纏うことはかなわないだろうし、目にすることすらかなわないかもしれない。そんな相手に、紫の話題を出すのは危険だと思ったのだ。ふとした折に、漏らした言葉で自らの素性暴かれてしまうことをテンレイは恐れていた。

ロウはロウで頑なに口を割ろうとしないテンレイに焦れて、しつこく何度も食らい付く。お互いに退こうとしない二人の攻防は平行線の一途を辿っていた。

しかし、それは女主人によって幕が下ろされた。

「あら?」

 何かに気が付いた彼女はおもむろに、テンレイの頬に手を添えて、彼の瞳をのぞき込んだ。

「な、何か?」

 ロウへの反論を忘れてテンレイは口をポカンと開けて、彼女を見詰め返した。そんな少年の間の抜けた様子をクスクスと笑いながら彼女はこう言った。

「よく見るとあなたの目、紫色をしているのね」

 女主人の言葉に反応したロウもまたテンレイの瞳を覗き込んだ。二人に瞳を覗きこまれて居心地の悪さを感じたテンレイは視線を足元に向けた。

「お、本当だ。言われてみれば紫っぽいな」

 二人に凝視されて落ち着かないテンレイは、ちらと視線だけ上に持ち上げ、ロウに問い掛けた。

「私が紫なら、お前もそうじゃないのか?」

「あら、二人は兄弟なの?」

「いえ、従兄弟です」

 彼女の問い掛けにそう返せば、彼女はテンレイとロウを交互に見た。そして、顎に手を当てて首を傾げた。

「でも、あんたは真っ黒ね」

「っかしいなぁ。どっちも典型的なブリステア人だよなぁ?」

「ああ。黒髪に黒い目だ」

 父テイラー、母レイルザもどちらも黒い髪、黒い瞳を持ったブリステア人である。しかも、テイラーは白龍刀を継承しているのだ。ブリステア人以外有り得ない。

(では、私は何だ?)

 厄災、穢れと誰かが嫌悪した紫の目が眼窩(ここ)にある。その事実が、少年に暗い影を落とした。

(そして、お前は何者だ? 何を隠している)

 いつもの顰め面で自分の帰りを首を長くして待っているだろう男を脳裏に浮かべ、テンレイは一つ決意した。

――お前の嘘を暴いてやる、と。

 気付けば日は大分傾いてしまっていた。小さな窓からは橙色の光が差し込んでいる。店に入った時に居た二人の客もいつの間にかその姿を消していた。

「さあて、そろそろ坊やはお家に帰る時間ね」

 クトックナーの夜は賑やかだ。街の至るところにある酒場は一仕事終えた人々で溢れかえる。街の外れにあるここも例外では無いだろう。

「ちぇっ、もうそんな時間かよ」

 ロウは椅子から立ち上がると大きく背伸びした。テンレイも懐から一枚の銀貨を取り出すと、それを円卓に置いてから立ち上がった。

「紅茶、本当に美味しかったです」

「ありがとう。でも、紅茶一杯にこれは多すぎるわ」

 女店主は円卓の銀貨をテンレイに返そうとしたが、テンレイは首を横に振ってそれを拒んだ。

「紅茶と、昔話の分ですよ」

 頑なに拒むテンレイに、次は差額である銅貨を五枚程握らせようとしたが、テンレイはそれも受け取ろうとしなかった。

「それに、また来ますから。そうだろ?」

 ちらりと円卓に視線を移せばすっかり空になってしまった瓶が一つ。その横にあるグラスも空だ。それを頼んだ当人は、テンレイの問い掛けにニヤリと笑って、機嫌良く答えた。  

「もちろんだろー。そういうことだからまた、キウイジュースよろしくな!」

 人懐こい笑みを浮かべてそう強請るロウに、女店主は肩を竦めて、溜め息を吐いた。

「あんたってやつは……。まあ、仕入れる努力はしてやるわ」

 彼女は呆れた声音でそう言ったが、その目は優しげに細められていた。

「さあて、とっととお帰り。好奇心に負けて、路地裏なんかに行くんじゃないよ」

「言われなくても、分かってるよーだ!」

 すっかり店主に懐いたロウは元気良く返した。

その隣でテンレイは何も言わずにただ深々と頭を下げた。

 酒場を出た後二人は寄り道せずに、真っ直ぐ城へ向かった。その途中で、昼間は扉を固く閉ざしていたいくつもの酒場が、その扉を開き、客を出迎える仕度に追われて忙しなく店と外とを行き来している人々の姿を見た。また、戸口で腰に手を当てた婦人が手を合わせ何度も頭を下げて必死に頼み込む男を怒鳴りつけているのも何度か目にした。それを見てロウはただ一言、“レドールも苦労するよな”とどこか遠い目をして言った。果たして彼は解放されたのだろうか。

城でロウを出迎えたのはレドールでは無かった。出迎えた騎士のジェードグリーンの制服の縁は銀色。彼は、職務に追われ手が離せない騎士団長にロウの世話を任されたのだという。まだ夫婦喧嘩の仲裁をしているのかとテンレイが問えば彼は首を振った。そして、“いいえ、団長は今、主の書類の処理に追われて居られまして……”と困り顔で答えた。それを聞いたテンレイは心から同情を覚えた。

テンレイは転移の間の前でロウに別れを告げた。ロウと困り顔の騎士に見送られながら部屋に入り、翡翠色の魔法陣を使ってトワルへ戻った。

トワルに着けば案の定、顰め面でこちらを睨むアルヴァの姿があった。彼は、青い光を避けて壁に体を預けて立っていた。

「お帰りなさいませ、テンレイ様」

 凍て付いた視線がテンレイの身を貫く。普通の人ならば、竦み上がってしまうほどの気迫であるが、テンレイは怖気づくことなく真っ直ぐその紫眼を見返した。そして、その目を直視したままテンレイは堂々とした態度でこう言った。 

「説教は後でいくらでも聞いてやる。その前に、訊きたいことがある」

 テンレイの言葉にアルヴァは何か言いたげに眉を寄せたが、口は開かなかった。口を真一文字に結び、ただじっとテンレイの目を見詰める。その様子から、彼の同意が得られたと判断したテンレイは早速あの話を切り出した。

「紫色は何を意味する?」

 そう問い掛ければ、アルヴァは深く息を吐き出した。眉間には深い皺が刻まれている。

「紫は高貴を意味すると教えた筈ですが?」

 心底呆れきった声音でそう言うと、彼は軽蔑の眼差しを向けた。しかし、その冷めた眼差しはテンレイの言葉で揺らめく。

「ある者は”厄災の、汚れの象徴だ”と言ったそうだ。自分の目を、そう、お前と同じ紫の目を指してな」

 表面上は平静を装っていたが、その目にいつもの気迫は無く、動揺を隠せてはいない。その様子にテンレイは確信した。“こいつは、知っている”のだと。そして、紫の目は“厄災と汚れの象徴”だということを。テンレイは、笑った。

「お前は、私に軽蔑されることを恐れていたのか? そんなことはないよな」

 騎士、それも団長の彼が、自分の様な子供に軽蔑されたところで、何ということもないだろう。その子供が主人の子供であってもだ。彼は誰かを軽蔑する素振りを見せたら、それは君主の振る舞いとしては相応しくないと指摘して、延々と君主とは何かを叩きこんでくるのだから。だから、考えられることは一つ。

「お前は、私が、紫の(このこと)に触れることを恐れていたのだろう?」

 そう問い掛けた途端、アルヴァの目が見開かれた。違うと訴える声は、掠れてしまって音にならない。その様に、テンレイはただニヤリと笑って止めを刺した。

「私の目も紫色をしているからな」

 それを口にしたテンレイからも笑顔がさっと消えた。魔法陣から抜け出して、アルヴァに大股で寄っていくと、怒りに満ちた眼差しを頭上の紫に向けた。そしてその群青の衣を掴んで、テンレイは吠えた。

「教えろ、アルヴァ。教えてくれ。もう、うんざりだ。何も知らない自分も、私を無知にさせるお前も」

 服が裂けてしまうほど強く、強く握りしめて、揺さぶって、吠えた。

「もう、うんざりなんだ」

 そして、俯いた。強く、衣を握り締めたまま、彼は口を閉ざした。しかし、アルヴァは首を縦には振らなかった。ただ静かに、いつもの落ち着き払った声でこう言った。

「……いいえ、まだ。まだ、その時では無いのです」

 またそれか、もう聞き飽きたとテンレイは内心毒付いた。

「お待ち下さい。時が来るまでは」

 苛立ちから顔を上げるが、開かれた口から言葉が紡がれることは無かった。

「果てまで続く苦しみを、自ら進んで背負おうとする必要などないのですよ」

 そう言う彼の眼差しは深い憂いに満ち、全てを諦めたような、酷く疲れた顔をしていた。


 夜も更けた頃。トワル城のある一室。静寂の中で、くぐもった雨音だけが響いている。

そんな闇の中で、騎士が主人の前に跪き、静かに主の言葉を待っていた。主人は騎士に背を向けたまま、こう問い掛けた。

「テンレイは、どこまで知っている?」

「は……」

 騎士はその問い掛けに言葉を詰まらせる。迷った末に騎士は、言葉を絞り出した。

「私が把握している限りでは、まだ何も。何一つ、知らない筈です」

 少なくとも真実そのものには触れていない。そう判断して答えたのだが、主人は振り返り、騎士に訝しむ目を向けた。そして、声を落としてこう言った。

「……断片は、すでに拾ってしまっているとしても?」

 主人の言葉に騎士の紫眼が揺れる。

「そう、か」

 騎士の目から何かを悟った主人は、眼を伏せた。しかし、すぐ視線を上げて、騎士を見据えた。強い意思を孕んだ有無を言わせぬ強い視線だ。その視線を向けて、主人は騎士に命じた。

「まだ、隠し通せ。分かったな?」

 騎士は頭を下げなかった。騎士の心には迷いがあった。

「テンレイには、私達と同じ苦しみはさせたくない」

 その思いが、少年を苦しめているのだと、言ってしまいたかった。しかし、騎士にはそれが出来なかった。主人の思いも、痛いほど分かるからだ。

「分かるだろう、お前ならば」

 迷う騎士はその問い掛けに肯定も否定もせず、ただ主人の瞳を見詰めた。

「……私と同じ、あの血を引くお前ならば」

 燭台の灯火に照らされた物憂げな瞳は、深い深い紫色をしていた。


(一章 完)


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