9話 「クトックナーへ」
「テンレイ様、お迎えにあがりましたよ」
約束した通り、クオレはテンレイを起こしにきた。
声と、金属と金属とが擦れ合う音に反応して、瞼をわずかに持ち上げてみれば、切れ目から容赦なく橙に色づく目映い光が目に差し込んできた。
「……えらく、早いな」
テンレイはあまりの眩しさに顔をしかめながらも、ゆっくりと身を起こした。
光が射し込んでくる方向を見遣れば、クオレが薄手のカーテンを引いて、窓を開けているところであった。
「団長が来る前に、と思いましたが早すぎましたねえ」
そう言いながらも、本当に悪いとは思っていないようだ。声音は明るく、くるくるとカーテンを纏める手つきは軽やかだ。
そもそも、彼はテンレイを見て居なかった。
(相変わらず、無礼な奴だな)
そこで怒るテンレイではない。彼の恐れ知らずなふてぶてしさは、よく分かっていた。
主君であるテイラーですらお手上げ状態なのだ、ましてや半人前の自分が彼を従わせるのは不可能に近いだろう。
テンレイは苦笑いを浮かべながら、その背に命じた。
「まあ良いだろう、手を貸してくれ」
テンレイの応じてクオレはくるりと少年の方に振り返った。
そして、両手に白絹のグローブをはめてから、すっと右手を差し出した。その手を借りて、寝台から降りれば、素足にひやりとした空気が纏わりついてきて、思わず身震いした。
「夏が近いとはいえ、朝は冷えますねえ」
そういって柔らかな毛の室内履きを差し出す。
「気が利くな」
驚いた素振りを見せれば、心外だと言わんばかりにクオレは、ぶっきらぼうに答えた。
「これくらいは、当然の勤めですよ」
棒読みのそれを、演技だと見抜いたテンレイはくすりと笑んで、なおも追撃する。
「お前以外にとっては、だろ?」
すると、クオレの仮面はあっけなく外れて、いつもの嫌らしい笑顔が現れた。
「まあ、無償の奉仕というのは柄じゃないですからね」
あれよあれよという間に支度は済んで、今のテンレイは決して安くはないが、高くもない、綿の衣服で身を包んでいた。
「よくお似合いですよ」
「嫌味か? それ」
綿の少々よれた白いシャツと、同じく綿のこれまたやや色あせた紺色の短パンを穿いているテンレイは、確かに貴族の子供には見えない。
「では、仕上げに……」
意味深な笑みを浮かべてクオレは、テンレイの頭に手を乗せる。
「ん?」
何事かと頭に疑問符を浮かべていると、その手がいきなり、まだ湿気を帯びた黒髪を無造作に掻き乱し始めた。
そして出来たのは、真っ黒な鳥の巣。
「さすがにやりすぎだ」
さすがのテンレイもそれには嫌な顔をして、手櫛でさっと整えた。
「念には念をと思いましたが、残念」
眉を八の字にしているものの、肩が揺れていた。
「わざとだな」
恨めしげな視線を向けるテンレイ。睨まれた男は、相変わらずの表情のまま両掌をテンレイに向けた。
「まあまあ、そう怒らないでくださいよ」
宥めているのは口だけであった。目はいたずらっぽく細められていた。
その表情に、テンレイは溜息を吐いて、男の脇をすり抜けようとした。
しかし、それは途中で阻まれた。
「おっと、うっかり忘れるところでしたよ」
クオレが、テンレイの右手首をぎゅっと掴んだ。それはまるで加減を知らない。布越しでも伝わるごつごつとした無骨な手と、少年の未熟な骨を折らんばかりの力。
眉をつり上げて、非難の眼差しを向ければ、その手はパッと離れた。
「すみません、うっかり力加減を……」
緩んだ頬を引き締めて、深く頭を下げるクオレ。
表情を伺うことはできないが、恐らく笑ってはいないだろう。
テンレイは居心地の悪さを感じて、頭を上げるように命じた。
そして、熱を持ち、微かに疼く手首をさすりながら問いかけた。
「お前のうっかりはいつものことだから別に良い。で、何なんだ」
別に良いという言葉の通り、その目に怒りはない。
それを確認して初めて、クオレはいつもの人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。
別に、この少年が怒ろうが痛くも痒くもないクオレであるが、からかいが過ぎると公爵直々にお叱りを受けるため、限度というものは設けている。
――あくまで、彼なりにではあったが。
少年への返事の代わりにクオレは、一振りの質素な小刀を差し出した。
「いつもいつも、大げさだな」
呆れながらもテンレイは素直に受け取った。
「念には念を、ですよテンレイ様」
仮にも王族なのですからと、わざとらしくクオレは付け加える。
それを聞き流して、テンレイは小刀を腰に差した。
「では、参りましょうか」
「ああ」
扉を開けば、すでに追っ手が待ちかまえていた。
迫り来る追っ手を振り払いながら、テンレイは城内を駆け抜けた。
目指す場所はただ一つ、クトックナー行きの転移魔法陣がある一室だ。城に二つある尖塔の内、左側の方にそれはある。
息を切らしながら無我夢中に螺旋階段を駆け上る。
クオレが足止めしてくれているため、若干の余裕はある。
だが、気を抜くわけにはいかない。テンレイはさらに足を速めた。
塔の半ばに差し掛かった頃、案の定、下方から足音が聞こえてきた。
また、足音に混じって、ばさばさと布がはためく音も聞こえる。
テンレイは額の汗を拭い、呟いた。
「来たな……」
テンレイは目を閉じて、深く深呼吸をした。
そして、クトックナーと刻まれた扉を目指して一心不乱に駆けだした。
「お待ちなさい!」
階下から制止の声。
下をちらりと見遣れば特徴的な金髪が揺れているのが見えた。
「待てと言われて待つわけがないだろう!」
「全く、貴方という人は……!」
子供と大人では歩幅が違いすぎる。瞬く間に縮まっていく二人の距離。
しかし、焦りはなかった。
同時に、部屋との距離も近づいていた。
テンレイは勝利を確信して、下方へ向かって叫んだ。
「誰が捕まってやるものか」
目の前にはクトックナーと刻まれた、古い木製の扉。
取っ手をひっつかんで、身を滑り込ませた。
転移の間は、しんと静まり返っている。
テンレイは迷わず魔法陣に足を踏み入れた。
青い光が己を包む。
あとは、先日、テイラーが唱えていた通り唱えるだけだ。
口を開け唱えようとしたその時、扉が開いた。
「今ならまだ、許して差し上げます」
騎士団長のアルヴァ・ソーンその人が冷たい目をして立っていた。
しかし、彼は決して魔法陣に入ってこようとはしなかった。
まるで青い光を厭っている様だ。
常ならば、テンレイを引きずってでも連れていこうとする彼が、魔法陣まで逃げ込むと決まって、ぴたりと追撃を止めるのであった。
それを知っていたテンレイは、勝ち誇った笑みを浮かべて、高らかに唱えた。
「我は始祖神ルシフェルの血族、認知せよ」
小刀を指に滑らせて、血を一滴落とせば、魔法陣が一際輝く。
そして、間もなく視界が歪み始めた。
「説教なら後でな」
眉間を押さえて唸るアルヴァを映したのを最後に、テンレイは目を閉じた。
浮遊感がなくなり目を開くと、己を包む光が深い青色から鮮やかな翡翠色に変わっていた。
――クトックナーだ。
ひとまず、握っていた小刀を腰にしまって、部屋を出る。
音を立てないようにゆっくりと扉を開けて、辺りを見回す。
様々な年齢、性別、身なりの人々に混じって魔法陣と同じ、翡翠色の服を纏った騎士が徘徊していた。
その手には、棒に刃を取り付けただけの簡素な槍が握られていた。
「見習いか」
これはついていると、テンレイは回廊に飛び出した。
回廊はトワル同様、絨毯が敷かれていた。
ただ、敷かれた翡翠色の絨毯は真新しいのか、窓からの光を受けてきらきらと光を反射していた。
また、トワル城内のどんよりとした重い空気に対して、クトックナーの空気は人の出入りが激しいためか新鮮で、微かに潮の香りがした。
(晴れてるし、賑わってるだろうな)
反射し、充満する白い光に眼を細めながら、テンレイはゆっくりと城を出た。
季節は初夏。
照りつける日差しは、もうすでに人々を焼き焦がさんばかりの強さだ。
テンレイは少々目眩を覚えながらも、人混みに身を投じた。
クトックナーは貿易の要衝で、往来が絶えることはない。いつ来ても、人混みに揉まれた。
トワル育ちのテンレイにとって、それは新鮮でもあり、苦痛でもあった。
暑さと、苦しさで気分が悪くなりながらも、どこかで待っているはずのロウの姿を探した。
「どこで待つかぐらいは、せめて教えて欲しいものだ」
前は港の桟橋、その前は城からすぐの路地裏、そしてさらにその前は街の中央の広場に立つ騎士像の前と、ロウの居場所は一定しない。
おまけに、居場所を伝えないものだから、なおたちが悪い。
「見つからないように、ってのは分かっているが」
とりあえず、じりじりと降り注ぐ日差しから逃れようと、テンレイは人混みから抜け出して、狭い路地に逃れた。
――その時だった。
「!?」
突然、腕を掴まれて、狭い路地に引きずり込まれた。
強光で弱っていたせいか、反応が遅れてしまったが、直ちに足に力を入れ、己を掴む手を素早く振り払う。
そして素早く小刀を抜き放ち、犯人の鼻先に刃先を突きつけた。
「悪ふざけは程々にするんだな、ロウ」
刃先を向けられた犯人もといロウはそれを退けて、笑った。
「隙だらけのお前が悪いのさ」
と。
終盤のつめの甘さが……。