8話 「帰路につくまで」
宴は盛り上がりに欠けたまま、皇帝の言葉を以て、終わりをむかえた。余韻は呆気ないほど急速に冷めた。
宴の最後に踊ったワルツは、付け焼き刃ながらも上々の出来であった。相手の裾を踏まなかったのはもちろん、始終、愛想笑いを続けられたのは我ながら上出来だとテンレイは思った。
一人、余韻に浸っていると背をぽんぽんと軽く叩かれた。振り返れば、にこにこと微笑むクオレの姿。
「テンレイ様にしては上出来だったんじゃないですかね」
穏やかな表情に反して、開口一番に飛び出したのは皮肉であった。むっとすれば彼の思うつぼだと思い、口を真一文字に結び、平生を保とうと必死に堪えるが、逆にその様を笑われた。笑いながらも、クオレは懐から取り出した白のハンカチで、テンレイの額に滲んだ汗を手早くふき取っていく。
皮肉に返す言葉を探しているうちに、すっかり汗はふき取られていた。
汗が拭き取られて、こざっぱりとはした。しかし、テンレイの顔はすっきりとはしなかった。白粉と香水の臭いが衣服に染み着いて、彼の鼻を襲っていた。混ざりに混ざったその臭いは、もはや不快感しか催さない。
(これだけで、疲れる)
我先にと、外へ出ようと犇めき始めた貴族達を横目に、テンレイは首のスカーフを少し弛めた。汗の滲んだ首元に、冷えた夜風が吹き込んで心地よい。
「こらこら、みっともないですよ」
と、言いながらもクオレは直そうとはしない。にこにこと、いつもの無邪気な笑顔を浮かべながら、軽い調子でたしなめるだけだ。
そして、作法にうるさいレイルザに見つからぬように、さりげなく匿ってくれる。
「さ、行きましょう」
クオレに導かれるままに、一行と合流した。
合流してみれば、険悪な雰囲気が漂っていた。発生源は、クトックナー公爵夫妻である。
聞かずとも、原因は何となく察しがついた。
「また、叔父様が婦人に手を出したんだろう」
「でしょうね」
この夫妻の衝突はよくあることであった。
ルージは無類の女好きで、誰彼構わず口説くような男、対してフミリィは良家の娘で、大層甘やかされて育ったらしく、夫の注目が他へ向くことが許せない。
「しかし、よく仕え続けようと思いますよねえ」
茶番の犠牲になるのは、いつもレドールただ一人。今日もおどおどとしながらも、激昂する夫人を必死に宥めていた。
「私は御免ですね、あんな仕事は」
心底嫌そうな顔をして、クオレはぽつりと言った。
「お前は、どんな仕事も御免じゃないのか?」
城内で、彼が仕事をする姿をテンレイは見たことがなかった。いつも彼はふらふらと城内を徘徊していて、命令を聞き流しては団長に叱られていた。
そうであるから、仕事が嫌いなのかと思ったのだが。
「さあ、それはどうでしょうね」
クオレは曖昧な笑顔で、誤魔化した。
レイルザの「フミリィの怒りが鎮まるのを待っていたら夜が明けてしまうわ」という一言で、ようやく一行は転移の間に足を向けた。その時にはもう、貴族の姿は無く、あたりはしんと静まり返っていた。
疲れきった体は重く、テンレイは半ば引きずるようにして歩いた。ロウは、すでに睡魔に敗れ、レドールの背ですやすやと寝息を立てていた。
「おぶってさしあげましょうか」
口角を上げて、聞いてくるクオレを、テンレイは睨んだ。
「いい」
足取りはふらついて、説得力はなかったが、自尊心が許さない。結局、自分の足でトワル行きの転移の間まで歩ききってやった。
トワルへ着けば、転移魔法陣が放つ青い光の向こうにアルヴァが立っていた。
「お疲れさまです」
青い光が弱まると同時に彼はつかつかと歩み寄り、公爵の前に跪いた。
「留守中、ご苦労だった。だが、今日はもう遅い。報告は明日にしてくれ」
はっ、と短く返事をして、アルヴァは立ち上がる。そして、部屋を後にしようとした時、レイルザが引き留めた。
「湯は、用意できているのかしら」
アルヴァはくるりと、レイルザに向き直り答えた。
「勿論、用意出来ておりますが」
必要ならば侍女を向かわせましょうかと、淡々と付け加える。
「どうする」
テイラーが身を屈めて、テンレイに優しく問いかけた。
テンレイはワルツの際の移り香を落としたかったが、疲労に負けて首を振った。
「では、私が送っていきますよ」
疲労でうつらうつらとし始めているテンレイの手を引いて、クオレが申し出る。
その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「また、良からぬことを考えていますね」
その笑みに不穏な何かを感じ取ったアルヴァが、クオレを睨む。
鋭い視線に臆することなく、クオレは笑顔を返した。
「いえいえ、そんな! 幼子は可愛らしいと思っただけですよ」
さあ、行きましょうと、テンレイの手を引いて、クオレはそそくさと転移の間を後にした。
「感づかれましたかねえ」
青い絨毯の敷かれた廊下を踏みしめながら、くつくつと笑うクオレ。
ロウとの約束を、彼には教えていた。
「わざとだろう?」
面白いことに目がないこの男のこと、わざと感づかせたのだろう。
「面白いですからね、冷静なあの顔が崩れるのは」
言ってる端から、クオレは声を上げて笑い始める。
「だからって、巻き込むなよ」
「まあ、協力するのでこれくらい許してくださいよ、殿下」
そう言って、至上の楽しみを奪わないでくださいと、形だけの懇願をした。
「つくづく悪趣味だな」
心底呆れた振りをして、言ってやれば、
「誉め言葉と受け取りますね」
と、悪戯っぽい笑みを返された。
他愛のない話をしている内に、自室に着いた。
「ささ、早く着替えてしまいましょう」
部屋に入るなり、クオレは侍女によって寝台の上に用意されていた寝間着を引っ掴む。
そして、テンレイを寝台に座らせると、早く脱ぐように急かした。
「ほらほら、早くしないと寝坊しますよ」
「急かされた方が、時間が掛かるんだけど」
ただでさえ、脱ぎにくい正装。
濃紺の上衣の留め具は、細かい装飾が施されており、少しでも荒っぽく扱えば壊れてしまいそうなほど繊細だ。
苦戦の果てに、その上衣を脱ぎ捨てた後には、膝上まであるブーツが待ちかまえている。
「手伝ってくれ」
片方をクオレに任せて、脱ぎにかかる。
外側面にずらりの並ぶ留め具に、嫌気が差す。
儀礼用とあって、このブーツの金具も繊細な装飾が施されていた。
しかし、上衣と違って、こちらは酷く強靱で、結構な力を込めなければ外れてくれない代物であった。
全ての金具を外した頃には、テンレイの指先はじんじんとした熱を持ち、疼いた。
「ああ、疲れた」
白いシルクのブラウスと薄青のスラックスはそのままに寝台に倒れ込んだ。
首にまとわりつくスカーフが少々鬱陶しかったが、外す気力はもう残って居なかった。
「ちょっと失礼しますよ」
クオレはそう言うと、くたりと沈み込んだテンレイの体を浮かせてきちんと寝かせ、下敷きになった掛け布団も引き出した。
そして、それを掛けながら、クオレは耳打ちする。
「では、明日はお任せを」
その顔には年不相応の無邪気な笑みが浮かんでいた。
「おやすみなさいませ」
声に促されるまま、テンレイは眠りにおちていった。