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捨てられない        :約4000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/09/27

 捨てたくても捨てられないものというのは、実に厄介な存在である。

 単に部屋のスペースを圧迫するだけでなく、その存在がじわじわと心まで圧迫してくるのだ。目に入るたびに忘れていた過去を呼び覚ましたり、捨てられない理由を意識させたりして、ストレスを感じさせてくる。

 たとえば、先輩から格安で譲ってもらったギター、友人からのプレゼント、祖父の形見である茶色く変色した扇子。あるいは元カノに別れ際に手渡された手紙。どれも今となっては使うこともなく、必要になるときが来る見込みもない。それでも、いざゴミ袋に放り込もうとすると、胸の奥がちくりと痛む。また、どこかで再会したときに『そういえばあれどうなった?』などと聞かれる場面を想像すると、ぐっと息を呑み、静かに元の場所へ戻してしまうのだ。

 そうしたものが放つ“香り”がすっかりなくなるまでクローゼットの奥にまとめて押し込んでおくのが常套手段であろう。部屋に十分な余裕があるなら棚の一角にでもまとめて飾り、折に触れて眺めては思い出にふけるのも悪くないかもしれない。歳を重ねているなら、なおさらである。

 だが黒田はそのどちらでもなかった。狭いアパート暮らしで、男盛りの年頃である。思い出の品を綺麗に並べておく趣味もなく、何よりこの部屋にクローゼットなどない。

 そんな黒田はある晩、酒に酔った勢いでマネキンを拾って帰ってきた。

 色は白で表面には何らかのコーティングが施されているらしく、うっすらと光沢を帯びていた。内部は空洞のようだが、素材は木らしく、それなりに重い。上半身だけの男型で、腕はついていなかった。あるいは女なのかもしれないが、頭髪はなく、胸のあたりにも女性らしい起伏はほとんどない。少なくとも、そこにエロスを感じる余地はなかった。

 帰り道で偶然見つけ、「こりゃ面白いぞ」と酔いも手伝った面白四分の三ほどの気持ちで担いで帰ってきたのだ。

 しかし翌日の晩――つまり、すっかり酒が抜けきった頃には、口元を歪めても笑い声は一つも漏れなかった。


「なんなんだ、このゴミは……」


 胡坐をかき、床に置かれたマネキンと向き合った黒田はそうこぼした。

 昨夜はあれほど面白く思えたものが、今では厄介なゴミにしか見えない。まるで調子に乗って食べ過ぎ、胃もたれしたときのような気分。見ていると、実際に胸の奥がずんと沈む感覚がした。

 このマネキン、一般的なマネキンと同じく表情らしい表情は持ち合わせていないものの、わずかに唇が尖り、口の端が妙な具合に曲がっていた。そのため、正面から見つめると顔をぷるぷると小刻みに震わせながら笑いを堪えているように見えなくもない。

 まるで


『ゴミはお前だろ』


 とでも言っているような顔であった。

 作者はあまり好まない表現ではあるが、言葉の端々に『w』を差し込みたくなるような表情である。

 試しに実際に入れてみるとしよう。


『ゴミはwwwお前だろwwwなんで拾ったん?wwwwww』


 黒田が苛立つのも納得である。

 このマネキンを捨てること自体には、何のためらいもなかった。が、次のゴミの収集日は二週間も先だった。燃えるゴミの日なら三日後だが、黒田はこのマネキンを不燃ゴミだと判断したためである。

 仕方なく黒田は、この不快極まりない笑みの持ち主と同棲生活を余儀なくされた。

 ただ、これがまた実に厄介であった。喩えるなら歯の隙間に食べカスが挟まっているときの感覚に近いが、大きさも不快感もその比ではない。視界に入るたびに気になって仕方なく、意識しまいとすればするほどかえって存在感を増していくばかりだった。

 顔をこちらに向けて置いておくと、なんとなく見られている気がするので壁のほうへ向けているが、それはそれで背中を小刻みに震わせて笑いを堪えているように見えなくもなく、結局落ち着かなかった。

 また、夜中にふと目を覚ましたときにその姿が視界に入ると、思わずびくりと体が震えた。暗闇の中にぼんやりと白い人型が浮かんでいるのだ。怖気が走るのも無理はない。何度か目を瞬かせ、すぐに「ああ……」と状況を思い出して納得するものの、夢の余韻から一気に現実へ引き戻されて、胸の奥がずんと沈むのだった。

 もっとも、それはあくまで見慣れないがゆえの恐れにすぎず、マネキンそのものに呪いだとか心霊現象めいた恐怖を覚えることは一切なかった。

 黒田がこの物体に対して抱いていた感情は憎しみ。ただそれだけである。


 そもそも、なぜおれがわざわざ捨ててやらなければならないのだ。こいつはもともと、どこかの誰かが不法投棄した物だろう。ゴミ袋だってタダじゃないぞ。地域によってはタダのところもあるらしい。なんでだ。不公平だろ。全国一律で金を取るようにしろ。

 黒田の胸の内で燃え上がる怒りはいつだってこの狭い室内を飛び出し、外へと羽ばたいていくのだった。


 そもそも、黒田も黒田である。適当にどこかへこっそり捨ててしまえばいいだろう、と思う人もいるかもしれないが、彼はこれでもそれなりにルールを気にする男だった。普段から善人ぶっているわけでもないし、細かな規則を一つ残らず守るような生真面目な性格でもない。ただ、自分が明確に『やってはいけない』とわかっていることをやるのはどうにも気分が悪かった。

 一応、人けのない林や明らかな空き家など、近辺で捨てられそうな場所はいくつか思い浮かんだものの、同時に『不法投棄厳禁! 罰金○○円』と書かれた看板も脳裏をよぎった。

 誰かが過去に不法投棄したから、そんな看板が立てられたのだろう。見かけるたびに、何もしていないのに脅されている気分になる類のものだ。今はただの注意書きにすぎないが、もし本当に不法投棄してしまえば途端にそれは自らの罪を突きつける告発者へと変わるだろう。後になってそれを見かけるたびに、胸の奥が疼くであろうことは想像に難くない。

 それはまたそれでストレスになるだろうし、何より自分が不法投棄をするクソどもと同列になるなど、黒田のプライドが許さないのであった。

 かくして黒田は、来たる別れの日を辛抱強く待つことになったのである。

 その間、黒田がマネキンに情を抱くこともなければ、おかしな現象に見舞われることもなかった。夜中に勝手に位置が変わっていたり、いつの間にかこちらを向いていたりすることもない。ただ一度、おそらくストレスが原因だったのだろう、夢に出てきたことはあった。だがマネキンは一言も喋ることなく、ただあの不快な微笑をたたえているだけであった。

 苛立ちのあまり何度か殴ったことはあったが、いかんせんマネキンは硬く、拳が痛むだけだった。それどころか殴った衝撃でマネキンは床を転がり、壁に傷をつけたり床板をへこませたりと、手痛い反撃を食らわせてくることもあった。


 そうして日々はゆるやかに流れ、ようやく不燃ゴミの日がやってきた。マネキンは無造作にゴミ袋に詰められ、あっさりと捨てられた。

 このときの黒田の脳内を駆け巡った爽快感はそこそこのものであった。

 数週間かけて歯の治療を終え、歯科医院の外に出た瞬間程度のものだろう。とりあえず終わったという安堵はあるが、それまでに受けたストレスのほうが遥かに大きかった。

 それもそのはず。片やおよそ二週間、片やほんの数秒。マネキンをバイクの後ろにロープで結びつけて街中を引きずり回し、積み上げた薪の中へ放り込んで火を放ち、粉砕機にかけて跡形もなく砕く――そんな処分工程を丸々二週間かけて自らの手で行わない限り、到底釣り合うものではないのである。三年間自分をいじめてきたいじめっこからの数秒の謝罪一つですべてを許せるのなら、それはもう心が壊れているに違いない。

 もっとも、黒田本人はそんなことなど露ほども考えず、表面上は実にすっきりとした顔で頷いたのだった。


 それ以降、マネキンのことを思い出すことは一度もなかった。

 しかし、それから数年後のある日。マネキンは思いもよらぬ形で再び黒田の脳裏に浮かび上がることになる。もっとも、本人がそれを認識することさえない、ほんの一瞬のことだった。 

 それは固く握り込んだ拳を繰り出す瞬間だったのか、それともその拳が恋人の顔に叩き込まれた瞬間だったのか。あまりに突発的だったため、黒田自身にすら判然としなかった上に、その直後に起きた出来事があまりに大きすぎたせいで、マネキンの記憶が居座る余地などなかった。


「別れてほしい? はあ?wwww無理www責任取れよww男だろwwwwww。じゃないと、あんたの知り合い全員にあることないこと言ってやるからwwwwwwww」


 酒の勢いで付き合い始め、そのままずるずると関係を続けていたものの、年上の彼女はお世辞にもいい女とは言えなかった。むしろ最悪と言っていい。付き合った当初は猫をかぶっていたが、時間が経つにつれて顔に脂が浮いていくように、その醜悪な内面が次第に露わになっていったのである。

 そして、彼女の尖った唇を目にした瞬間、黒田は拳を放っていた。

 見事に顎を打ち抜いたその一撃は、彼女の足から当人以上に持ち合わせていた忍耐や踏ん張りといったものを根こそぎ奪い去り、その軽い頭をテーブルの角へと追いやったのだった。

 つまりは打ちどころが悪かったのである。

 ただし、都合良くも悪くも人間はそう簡単には死なない。彼女は生きていた。

 首から下は動かなくなったが、口元だけはかろうじて動かすことができた。

 かくして黒田は、またしても容易には捨てられないものを抱え込むことになったのだった。

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