ミズヨビ様
雨の日に家のトイレやお風呂の排水口からゴポゴポと音が鳴る事は無いかい? 雨の日に道端の穴や平らな土から水が湧き出る所は見た事ないかい?
それはね、『ミズヨビ様』が近くにいらっしゃるって事なんだよ。
「ミズヨビサマって?」
「ミズヨビ様はね、この地域の守り神さ」
「まもりがみ?」
「そう。水について困った時にやってきて、私たちを助けてくれるんだよ」
嘘だよおばあちゃん。ミズヨビ様は助けてくれない。本当はミズヨビ様なんていないんじゃないの?
だからおばあちゃんはあの日、死んじゃったんじゃないの?
***
ボクが住んでいるここ、M市には水を司る『ミズヨビ様』の逸話がある。雨が少ない土地で水は貴重とされていたから、水を生み出すミズヨビ様はあがめられていたとか、多くの山に囲まれていて雨が降ると水が溜まりやすいからミズヨビ様が産まれたなど、話の内容は色々ありすぎてよく分かってない。というか、今のボクは知りたくもない。そんなボクの気持ちとは裏腹に、M市に住んでる人はほぼ全員が存在を信じているから、事あるごとに話題に出てくる。特に梅雨の時期になるとどこにいても誰と話してもミズヨビ様が引き合いに出される。
ただ今年は、いつもと違う形でミズヨビ様が話題になっていた。
「この前C町で事件があっただろ? あれミズヨビ様のせいらしいぜ!」
ある日の放課後、帰る準備をしているとクラスメイトのケンジが大きな声で話していたのが聞こえた。見ると彼を中心に何人かの男女が集まって談笑している。
「事件ってどんな事件だっけ?」
女子の誰かがケンジに聞いて、彼はフフンと待ってましたとばかりに話し始めた。
ミズヨビ様が関わっているかもしれない事件。それは半年前、A町で奇妙な動物の死骸が発見された事から始まった。公園に捨てられていた死骸が何の動物かは公にされてないが、奇妙だったのは『溺死』していたからである。その翌月にB町でより大きな動物の死骸が発見された。その死骸も溺死していて、同じく公園で見つかった。
一連の事件に対し、市が警戒度を強めたのが先月起こったC町の事件だった。公園で老人の溺死体が発見された。事故死だが死体に移動の跡があった事、死体の状況が先に起きた二つの事件と酷似していた事から、一連の事件として警察が今も調査しているらしい。
ここまでの話はボクもテレビのニュースで見たから知っている。特にC町の事件は滅多に殺人事件が起きないこの市では衝撃的で、事件があった翌日には新聞でもテレビでも大きく取り上げられていた。
そしてM市にある町で、事件が起きてないのはこの小学校がある町だけだ。だから次に事件が起こるとすれば次はここだろうとケンジは言った。
「しかもニュースでは言ってなかったけどよ、動物の死骸たちもC町のヒガイシャも公園の『中央』で見つかったらしいぜ!」
情報通のおばちゃんから聞いたから確かな情報だ! とケンジは胸を張って言った。公園の中央、という言葉に引っかかり、帰る準備をしていた手が止まる。
「へー! でもどうしてそれがミズヨビ様のせいって言われてるの?」
ケンジの周りにいた男子の一人がそう聞くと、ケンジは人差し指をたてて言った。
「簡単な事さ! まず死因が溺死。これは水を操れるミズヨビ様が殺したからだ! どの公園にも大きな水場は無いからな!」
そして何より! とケンジが中指を立てる。そしてチラリと一瞬ボクの方を見た。
「公園の中央に死体があった事! ミズヨビ様の仕業とされたあの洪水とそっくりじゃないか!」
一瞬で五年前の光景が蘇る。公園の中央に並べられた数人の遺体。その中にあるずっと探していた、見慣れた顔。
「ケンジ、その話はやめて」
胸が抉られたように痛い。痛みを逃そうと、とっさに出た拒絶の言葉は自分でも驚くくらい教室内へ冷たく響いた。
クラスがシンと静まり返る。なんだよケンジ、そんなふてくされた顔をするな。皆もばつの悪そうな顔をするな。ボクを気遣うな。
「でもよカイ、カイだってあの洪水はミズヨビ様のせいだって思ってるだろ。父ちゃんが言ってたぜ? 死体は儀式のように綺麗に横並びされて、服も体も洗われたように綺麗だったって。カイのばあちゃんも、」
ほとんど反射だった。気が付くとボクはケンジの胸ぐらを掴んでいた。ケンジのギョッとした顔が掴んだ右手越しに見える。
だってケンジが悪いんだ。ボクは思い出したくないのに。
「ごめん、それ以上は聞きたくないんだ」
だとしても、八つ当たりするのは違う。ケンジから手を放して、頭を下げる。ケンジもクラスの皆も何も言わない。沈黙が短気なボクを責めているようで胸が苦しい。
「そうだ、ボク用事があるから急がなきゃ」
「あ、おい!」
じゃあまた、と言ってボクはさっさと荷物をまとめて教室から出て行く。用事なんてある訳ない。ただの口実だ。
早歩きが段々駆け足へ変わる。心臓の音が耳から離れない。『廊下を走らない』というポスターが目についたが、今だけは足を止められなかった。
学校を出て家に帰りながら、ボクは五年前を思い出す。
あの日は警報が出るほどの大雨が降っていた。それにも関わらず、おばあちゃんは一人で日課の散歩に行っていた。おばあちゃんの家とボクの家は別だから、おばあちゃんが出かけてるのに気付かなかったのだ。
『アナタのおばあちゃん、水に捕らわれた』
白いレインコートを着た女の子がボクの家に来てそう教えてくれて、ボクたち家族は慌てておばあちゃんを捜しに行った。おばあちゃんが行きそうな所には全部行った。お父さんもお母さんも懸命に捜して、そして見つけた。近くの公園の中央に、他のいなくなってた人達と一緒に。
『おばあちゃん、おばあちゃん!』
何度揺らしても目を覚まさないおばあちゃんの冷たい肩を、それでも離せなかったのを今でも覚えている。
――水に関して困った時にミズヨビ様はやってきて、私たちを助けてくれるんだよ――
おばあちゃんが言っていた事を思い出して、ボクは泣きながら叫んだ。
『ミズヨビ様! どうしておばちゃんを助けてくれなかったの!』
そしておばあちゃんは、二度と目を覚まさなかった。
「(おばあちゃんはミズヨビ様を信じていたのに)」
地面から顔を上げる。五年経った今、この町の道路や土地は綺麗に整備された。市が水害を重く見て対策したらしく、大雨による被害も減っている。けれどあの水害は市の人々の心に爪痕を残した。今ではミズヨビ様は人の命を奪う怖い神様という認識にほぼ変わっている。
その五年前の水害と同じ、公園の中央に置かれた死骸と遺体。ケンジが話していたあの事件が、もしもおばあちゃんの事故と無関係じゃなかったら。
「(事件を調べれば、おばあちゃんが公園にいた理由が分かるのかな)」
浮かんだ期待を振り切るように頭を横に振る。そんな簡単に理由が分かるなら、周りの大人が知らないわけがない。家に帰ったら両親に聞いてみよう。教えてくれるかもしれないし、言葉を濁すようならボクは知らなくて良いのかもしれない。
そんな事を考えていた時だった。視界の端で気になる人が見えた。今日みたいに近道をすると必ず通りがかる、おばあちゃんが最期にいたあの公園に。
灰色のフードを被った女の子が公園にある水場の蛇口から水を流し、それを座り込んで眺めている。
「(何やってんだろう)」
公園はあの件以降、心霊スポットとされた影響であまり人が訪れない場所になっていた。砂場も遊具も無く、錆びついた水場と周りを囲む荒れ果てた草むらしか無い公園に、一人だけでいるのは珍しい。
近づいてみると、パーカーの物だと思っていたフードはレインコートのフードだった。灰色と思ったレインコートはボロボロで、元々白色だったのが汚れて色が変わってしまっているようだった。
しかし少女本人は綺麗だった。肌は白く滑らかそうで、フードから見える顔は美人だ。短めの黒髪はまっすぐと整えられていて、太陽に当たってキラキラと輝いている。声をかけたい、と思うほど少女は魅力的だった。
「こんにちは。えっと、何をしてるの?」
「……水と遊んでるの」
声をかけると彼女は水に目線を向けたまま静かに答えた。抑揚のない、小さくて透き通るような声だ。
「水と?」
「うん。だから、」
話しかけないで、邪魔されたくない。そう言ってボクの方へ顔を向けた彼女の目は氷のように冷たい。黒く、僅かに青みがかかっている瞳。
ボクはこの目を、知っている。五年前のあの日、おばあちゃんの危機を教えてくれた女の子だ。
「(でも何だろう、この違和感は)」
理由はすぐに分かった。彼女の見た目が変わっていない気がする。前に会った時はボクより年上に見えた彼女が、今は同じ年くらいに見えるのだ。
ただあの時に比べてレインコートは汚れている。彼女は昔と変わっている。見た目だけ変わってないと感じるのは、ボクの記憶違いかもしれない。
「五年前はありがとう。あの後、おばあちゃんに会えたよ」
違っていたら謝ればいい。そう思いながら頭を下げてお礼を言った。返答は無かった。
「(流されたかな)」
そう思いながら顔を上げると、予想に反して彼女はボクの方を見ている。
「どうしてお礼を言うの」
彼女は表情を変えないまま、ボクをジッと見る。ボクは口ごもりながらも答えた。
「えっと、あの後色々あったとはいえ、君にお礼を言えてなかったから」
「でも私は助けられなかった」
淡々と言う彼女の声は相変わらず冷たい。その時、彼女の手がレインコートの裾から見えた。強く強く、握りこぶしを作っていた。
「……仕方ないよ、災害は」
もしかしてもう少し見つけるのが早ければと、五年間ずっと後悔しているのだろうか。それはどうしようもなく辛い事なのに。そう思うと胸がキュッと苦しくなった。
「君が教えてくれなかったら、おばあちゃんを見つけられなかった」
本当にありがとう。と、言うと彼女は何も反応しないで、水の方へ顔を戻した。
沈黙が公園を包む。彼女にお礼は伝えた。帰る時間が遅くなると親が心配する。もう家に帰った方が良いだろう。けれどまだ、ここを離れられなかった。再会したのも何かの縁だし、これを機に仲良くなりたい。友達になりたい。けれど彼女からは『話しかけないで』と言われた手前、声をかけにくい。どうしようかと思えば思うほど手が忙しなく動き、彼女と地面を交互に眺めてしまう。
「……何?」
抑揚の無い声で彼女がボクの方を見る。ボクが挙動不審なせいで言わせてしまった。
「あの、そういえば自己紹介してなかった。僕はカイ。君の名前は?」
あ、答えたくなければ言わなくて良いよ。と早口で付け足す。心臓がバクバクしていて、思わず胸を両手で押さえる。申し訳ない気持ちと緊張で胸がいっぱいだ。
「……ミズキ」
「よろしくねミズキ! あ、さん付けの方がいい?」
「ミズキ、でいいよ」
そう言って彼女はまた水の方へ顔を戻す。彼女の横顔が綺麗で、一瞬見惚れた。
「じ、じゃあボクはこれで」
また会えたら嬉しいな。再会を望む言葉は流石に図々しいと思って言わずに彼女に手を振る。彼女はもう振り返らなかった。ただただ手の平に受け止めた水をジッと見ていた。
次の日の放課後。またいるかな、と期待しながら公園に行くと、昨日と同じ場所に彼女はいた。今日も水飲み場の近くで水を見つめていた。
「(挨拶だけなら良いよね)」
そう思って彼女の近くへ向かう。ミズキは今日も灰色のレインコートに身を包んでいて、昨日と変わらず美しかった。
「こ、こんにちは!」
「!」
どうやら挨拶されるまでボクに気付いていなかったらしい。ミズキはビクッと体を震わせ、ボクの方を見た。
「また来たの」
「うん、」
また会いたかったから、と言うと彼女は目を開けたまま固まる。そして暫くして呟く。
「……来ると思ってなかった」
「え? どうして?」
ボクが聞き返すと何度か口を開けては閉めてを繰り返し、絞り出すように言う。
「私に会いたい人、今はもういないから」
ミズキの表情は見えない。顔を下に向けたからだ。
「ボクは会いたかったよ」
これで会うの二回目だね! と彼女を元気付けたい一心で、大きな声で言う。仁王立ちしてニッと笑いかけると彼女は顔を上げた。
「そう。でもどうして会いに来たの?」
彼女の質問に体が固まる。率直に答えて良いのだろうか、迷惑にならないだろうかと頭の中がグルグル回る。けれどこれだけは確かだ。彼女に嘘はつきたくない。
「その……君と友達になりたいから」
どうしよう、すごく恥ずかしい。予想通り彼女はジッとボクを見続けている。迷惑だと、下心がある奴だと思われたに違いない。
「ご、ごめんなさい!」
彼女の視線に耐えられなくなって勢いよく頭を下げる。公園に一筋の風が流れた。蛇口から流れる水の音だけが、公園を包み込む。
「……私とトモダチになりたいの?」
「えっと、なりたい……です」
「そっか……」
なら明日、ここに来て。と彼女は言う。
「考える時間が欲しいの」
「……! 分かった! ありがとう!」
町内チャイムが聞こえる。本来はこの放送が鳴る前に、ボクは家にいないといけない。彼女に慌ててまたね、と言ってボクは家に向かって走り出した。明日は学校が休みだ。朝起きたらすぐに会いに行こう。ボクは心の中でそう決めた。
次の日。朝ごはんを食べてすぐ行ったら、ボク以外公園には誰もいなかった。
「(そういえばいつ来るか言ってなかったな)」
彼女とはいつも放課後に会っていた。朝は近道を通らない、つまり公園を通らないから気付かなかった。
「(まぁ夕方まで待っていればいいや)」
そう思い、ベンチに座って彼女を待つ。
「(本当にこの公園付近は人がいないな)」
ベンチでボーっとしながら、ふと思う。
公園が例の事件で心霊スポットと言われるようになった影響で、公園のある通りや近辺は人が寄り付かなくなってしまった。
「(でもボクはきっと、これからは通っちゃうんだろうな)」
元々近道で通るし。と付け加える。例えおばあちゃんが最期にいた場所だとしても、ここはもうトラウマが蘇る場所ではない。ミズキに会える場所だ。
ミズキと会って以降、今起きてる事件の事や例の水害についてあまり気にしなくなっていた。だから事件や過去について、両親に聞くこともしなかった。
何より今はミズキと一緒にいる時間が楽しい。それ以外の事がどうでもいい、とまでは思わないが、マイナスな事には極力心を割きたくなかった。
「(友達になれなかったら、悲しいな)」
けれど彼女に迷惑はかけたくない。そう思いながら、ボクは目を閉じた。
「こんにちは」
しばらくウトウトしていると誰かから声をかけられた。知らない声だな、と思って目を開ける。目の前には柔和な表情を浮かべたスーツ姿の男性が立っていて、ボクを見下ろしていた。
「こんな所で寝ていると危ないよ」
そろそろ熱中症になりやすい時期だからね。と言われ、慌ててベンチから降りる。
「ありがとうおじさん、」
知らない人には気をつけてね。そういえば出かける時に母がそう言ってたのを思い出す。例の事件で周りの大人たちはここ数日ピリピリしている。母も例外なく、今日ボクが一人で出かけるのを渋っていた。それをボクは、振り切ってここにいる。
だから分かる。このおじさんの異様さが。おじさんからは『ピリピリ』を感じない。
「君、一人?」
「う、ううん。友達と一緒だよ」
じゃあボク行くね。と、そそくさと公園の外へ向かおうとすると、急にグッと腕を引かれる。ブワッと体中から汗が噴き出した。
「友達を待ってたんじゃないの?」
おじさんの声色は変わっていないのに、掴まれた腕は痛くないのに。どんなに引っ張ってもおじさんの手が離れない。
「待ってる間、少しだけお喋りしようよ」
大声で叫びたいのに声が出ない。頭の中をどうしよう、どうしようという声が埋め尽くしていく。
「大丈夫、怖くないよ。ミズヨビ様が、楽しい所へ連れて行ってくれるから」
そう言っておじさんがグイと腕を引いて、ボクの口を布で塞ぐ。少しずつ頭がぼんやりしていく。
「この子ならミズヨビ様、来て下さるかな」
意識がどんどん遠くなる。どうしよう、どうしよう。
ミズキ、もし近くにいたら今すぐ逃げて。
「「「「なにしてるの」」」」
意識が消えていく中で、声が聞こえた。瞬間、強い力でおじさんから引き剥がされる。かろうじて動く首で力の方へ目を向けると。
それは白い大きな手だった。緑色の水かきがあり、爪は長く鋭い。指は細く、骨が浮き立ってみえる。その手の元を見ようと目で追うと、そこにはミズキがいた。
いや、本当にミズキだろうか?
「「「「アナタね。みずをけがしているのは」」」」
確かにミズキの声は聞こえた。しかし同時に低い男性の声、高い女性の声、しわがれた老婆の声、声変わりしたばかりの少年の声といった様々な声が重なって聞こえる。
確かに『彼女』は灰色のレインコートを着ていた。しかし身長は大人の男性よりも大きく、胴体は人間の子供よりも痩せこけている。コートからのぞく腕やふくらはぎは手と同じように白く、水ぶくれに覆われており所々紫色に変わっていた。
ゆっくりと、体の節々を不自然に曲げながら『彼女』は顔を上げる。白い顔も体と同じように水ぶくれで覆われており、目があるはずの部分は窪んでいて、まるで絵の具で塗りつぶされたように真っ黒だった。
「その姿、も、もしかしてミズヨビ様!」
おじさんが声を上げてその場に跪く。
「ミズヨビ様お願いです! 父を、先日亡くなった父を生き返らせてください!」
父の身体は先日公園に捧げました。生贄は今手に取った者になります! これから溺死させて公園の中央に捧げます!
意味の分からない、分かりたくない言葉をおじさんは早口でまくし立てている。しかし『彼女』はその声に反応せず、ゆっくりとおじさんへ近づいていった。
「「「「ゆるさない」」」」
彼女はおじさんの前に来ると、腕を伸ばしておじさんの首を掴み、持ち上げた。
「ミズヨビ様? 生贄はあちらですよ?」
そこからの光景は見ていない。おじさんが生贄は私じゃない! 用意するので待って下さい! と、悲鳴に似た声を最後に、ボクは意識を失った。
次に目を覚ました時、ボクはベンチに座っていて、隣にはミズキが座っていた。ボクが動くと彼女はこちらをバッと見て、小さくホッと息をついた。
「カイ、だいじょうぶ?」
見慣れた姿のミズキがボクの顔を覗き込む。元気、とは言えないがさっきより意識はクリアだし、体のどこにも怪我は無さそうだ。ボクは身の回りを見ながらも大丈夫、と答えた。
「そうだ、あのおじさんは……」
「あそこで寝てる」
そう言ってミズキが指さした先に、おじさんが仰向けで倒れていた。
「生きてるの?」
「今は気絶してるだけ」
「そっか、」
念のため確かめようとして立ち上がる。が、体がふらついて思うように歩けなくて、またベンチに座り込んだ。
「カイが飲んだ悪い物、まだ完全には取れてないから無理しないで」
「悪い物?」
「これ、」
すると彼女は懐から何かを取り出す。ボール状のそれは透明で、中には透明な液体が入っていた。
「これ、カイを眠くする物みたい。ある程度は取った」
だからさっきより意識がクリアになっていたのか、と納得する。彼女がいなかったらどうなっていたか。今となっては想像もしたくない。
「ありがとうミズキ。助かったよ」
そして、ごめんね。と両手を合わせる。彼女は首を傾げて言った。
「どうして謝るの?」
「……ボク、ミズキが人間じゃないって知って一瞬怖くなったんだ」
「……そう」
ゆっくりとミズキがベンチから立ち上がる。顔はおじさんの方へ向けていた。
「この人が言ってた通り、私はミズヨビ様って呼ばれてる」
だからこういう事をする。そう言いながらおじさんの元へ行く。
「この人は水を使って多くの命を奪った。使われた水はけがれた」
けがれた水はけがした人の命できれいにする。そう言って右腕をおもむろにあげた。右腕はさっきの形に変わり、鋭い爪を槍のように一つにまとめる。
そして、右腕をおじさんへ振り下ろす。
「待って!」
ほとんど反射だった。思うように動かない体を引きずってミズキの隣へ向かう。ミズキは右腕を空中で止めたまま動かない。
「それじゃ水は綺麗にならないよ」
「なる。私はそれを知ってる」
「でもおじさんの命を奪ったらミズキがけがれるじゃん!」
「!」
彼女の右腕が変形して、ボクと同じ形になる。だらんと下ろされた右腕がもう変形しないように、ボクは彼女の隣に座り込んで、そっと手を握った。
「どうして止めるの?」
「友達だから!」
「……」
あ、いや、まだ友達じゃないよね。ごめんね! と食い気味に言った友達宣言を訂正する。ミズキはおじさんを見つめたまま淡々と言う。
「私はミズヨビ様。人とはトモダチになれない」
「でも昨日は『考える』って言ってたよ」
「……私はあの日、人間たちを、アナタの大切な人を助けられなかった」
「私の助けを求めていたのに、助けられなかった。水から引き揚げて、綺麗にして、公園で寝かせる事しか出来なかった」
顔を地面に向けたまま、言葉を切れ切れにして当時の事を話すミズキに、ボクはグッと息をのむ。そして意を決して口を開いた。
「ミズキ、ありがとう」
「……え?」
あの日、ミズキはミズキなりに頑張っていたのだ。ならボクは、ボクなりの感謝の気持ちを伝えるべきだと思った。
手を握ったまま俯くミズキの前に立って、頭を下げる。その時やっと、ミズキが顔を上げたような気がした。
「ボクの、人間たちのために色々してくれて。でもね、ボクはミズキの身を犠牲にするような事はして欲しくない。水の浄化方法はその……一緒に別の方法を探そう!」
だからおじさんの命を奪うのはやめてほしい。そう伝えて頭を上げる。ミズキは無表情のままボクを見て、おじさんを見た。
「……分かった。カイが……トモダチがそう言うならやめる」
「! うん、ありがとう!」
友達、とミズキが言ってくれた事が嬉しくて彼女に微笑みかける。そんなボクを見て、ミズキの表情が和らいだような気がした。
「……カイ、ならこの人はどうする? このままにする?」
「いや。それはそれ。おじさんには罪を償ってもらわなきゃ」
そう言ってボクは親に持たされていた携帯で警察に連絡する。しばらくすると警察が来て、おじさんはパトカーに乗って行った。
「あれ、ミズキは?」
おじさんを乗せたパトカーを見送った後。警察の人から詳しく話を聞きたいと言われたボクはその前にミズキと呼ぼうと、彼女の姿を探す。しかし彼女はどこにもいなかった。警察の人と公園の隅々まで彼女を探したが、結局見つからなかった。
週明けの月曜日。晴空の下、心配する親に見送られながら登校したボクは、いきなりクラスの皆から質問攻めにあった。ミズヨビ様に会ったのかとか、犯人とどういうやり取りしたのかとか色々聞かれたが殆どは流した。ミズキの事はあまり教えたらいけないと思ったからだ。
「ミズヨビ様って良い神様なんだな!」
そう言ったケンジを始めとして、クラスの皆がミズヨビ様に好感を持っていたのが、ボクは嬉しかった。
放課後、あの公園に行ってみた。公園は黄色いテープで塞がれていて、中へは入れなかった。
「ミズキに会えると思ったのにな」
誰もいない公園前でボソリと呟く。
「カイ?」
すると後ろで声が聞こえた。振り返るとミズキがいた。いつもと変わらない、レインコート姿で立っている。
「ミズキ!」
「待って。今は近寄らない方が良い」
彼女の言葉を聞いて駆け寄ろうとする足を止める。
「この前『力』を使ったから反動でヒトの形を保ちにくいの。今は無理してるだけで、しばらくは会えない」
しばらくは会えない。ミズキの言葉にボクはそっか、としか返せなかった。また遊んだり、お喋りしたりしたかったけれど、仕方ない、仕方ないんだと言い聞かせる。
「だから、会えるようになったら遊ぼう」
トモダチだもんね。その一言にガバッと顔を上げる。ミズキと目が合った。
「ッ、もちろん!」
ミズキに聞こえるように大きな声で返事すると、ミズキの顔が綻んだ。初めて見る、可愛い笑顔だった。
「遊べるようになったらこの公園に来るね」
そう言ってミズキは水蒸気が立ち昇るように姿を消す。彼女がいた場所をよく見ると水たまりが薄っすらと溜まっていた。水たまりは夕日に照らされていて、覗き込んだボクの顔はキラキラと輝いていた。




