第9話:最後の口づけと冷たい雨
ジャズのレコードが終わり、針が空回りするパチパチというノイズだけが、代官山のヴィンテージマンションの部屋に響いていた。
「これでお別れにしましょう」
美桜の真っ直ぐな言葉を受け止めた堂島は、しばらくの間、深い海のような瞳で彼女を見つめ返していた。やがて彼は、ゆっくりと伏し目がちに息を吐き出し、静かに頷いた。
「……そうか」
たった一言。引き留めることも、言い訳をすることもなかった。
それが、彼なりの最大の誠意であり、大人の男としての矜持なのだろう。彼は美桜がなぜこの決断を下したのか、その痛いほどの真意をすべて理解してくれていた。
「君は本当に、強くて美しい女性になったね。……僕が教えることなんて、もう何もないくらいに」
堂島は寂しげに微笑むと、テーブルの上のシガリロに火を点けた。
カチリ、と銀色のライターが鳴る。オレンジ色の小さな火が灯り、細く立ち昇る紫煙が、二人の間に透明な境界線を引いていくように見えた。
美桜は立ち上がり、コートを羽織った。
いつもなら「送っていくよ」と車のキーを手に取る彼が、今日は動かない。それが、二人の関係が完全に終わったという何よりの証拠だった。
「……今まで、本当にありがとうございました。堂島さんと過ごした時間、一生忘れません」
震えそうになる声を必死に腹の底に押し込め、美桜は深く頭を下げた。
エントランスまで見送りに来た堂島と共に、重厚な扉を開ける。
外はいつの間にか、氷のように冷たい春の雨が降り出していた。灰色の空から落ちる雨粒が、アスファルトを黒く染め、東京の街からすべての色彩を奪い去っていくようだった。
傘を開こうとした美桜の手を、堂島の大きな手がそっと包み込んだ。
ハッとして見上げると、彼の深く静かな瞳が、美桜の顔をこの網膜に焼き付けようとするかのように、至近距離で見つめていた。
「美桜」
彼が低く、掠れた声で名前を呼ぶ。
次の瞬間、堂島の腕が美桜の腰を強く引き寄せた。雨の冷たさを遮断するように、彼のコートに包み込まれる。そして、静かに、けれど逃げ場のないほどの力強さで、唇が重なった。
――あ。
美桜は目を閉じた。
彼の唇から、さきほどまで吸っていたシガリロの匂いがした。
深く焦がしたスパイスのような、ひどくビターな味わい。それに混じって、彼自身のウッディな香水と、隠しきれない大人の男の熱が舌先に伝わってくる。
今まで何度も交わしてきた甘く優しい口づけとは違う。胸が張り裂けそうになるほど切なくて、ほろ苦い、終わりの儀式。
このビターな味が、私が彼から受け取る最後の記憶なのだ。
美桜は、彼の背中に回した手に一度だけ強く力を込め、そして、自らその腕をほどいた。
「……さようなら」
もう、彼の顔を見ることはできなかった。
傘を開き、冷たい雨の降る通りへと歩き出す。背中に彼の視線を感じていたが、絶対に振り返らないと決めていた。もし一度でも振り返ってあの深く寂しげな瞳を見てしまえば、築き上げた決意の堤防が一瞬で崩れ去り、彼の足元に縋り付いてしまうと分かっていたから。
代官山の坂道を下りながら、美桜の目から堪えきれなくなった涙が溢れ出した。
頬を伝う涙は、雨粒に混じって足元へと落ちていく。けれど、強く噛み締めた唇には、彼が残していったほろ苦いシガリロの香りが、いつまでも、いつまでも消えずに焼き付いていた。




