第8話:一番綺麗なままで
三月の足音が聞こえ始めた頃。東京の空気はまだ冷たかったが、日差しの色にはほんの少しだけ春の気配が混じり始めていた。
数日間の「小旅行」から戻った堂島は、何事もなかったかのように美桜を代官山のヴィンテージマンションへと呼び出した。
「寂しい思いをさせたね。ごめん」
部屋に入るなり、彼は美桜をきつく抱きしめ、頭の上から降るような優しい声で囁いた。彼のスーツからは、外の冷たい空気と、いつものシガリロのほろ苦い香り、そして微かに――美桜の知らない、見知らぬ柔軟剤のような甘い匂いがした。
家族の匂いだ。
美桜の胸の奥で、カチンと冷たい音が鳴った。それは悲しみというよりは、あまりにも残酷で、静かな諦めの音だった。
「……ううん。大丈夫です。お帰りなさい」
美桜は堂島の背中に腕を回し、その大きな身体の温もりをしっかりと確かめた。
堂島は満足そうに微笑み、美桜から離れると、いつものようにレコードに針を落とし、二人分のコーヒーを淹れ始めた。
豆を挽く低い音。彼の手の動き。窓から差し込む冬の終わりの光。すべてが、まるで美しく計算された映画のワンシーンのように完璧だった。
ソファに座り、コーヒーの湯気越しに彼の横顔を見つめる。
彼を愛している。心の底から。彼と一緒にいる時、自分が一番綺麗で、特別な女性になれた気がした。彼が教えてくれたワインの味も、ジャズの調べも、大人の愛の交わし方も、すべてが私の血肉になっている。
この先、どんなに長い人生を歩んだとしても、この数ヶ月間の記憶が色褪せることは決してないだろう。彼が私の心に刻み込んだものは、あまりにも深くて、甘くて、そしてほろ苦い。
だからこそ、終わりにしなければならないのだと、美桜は静かに悟った。
このまま彼の腕の中にいれば、私はいつか、彼を責めるようになるだろう。
「どうして私だけを選んでくれないの」「あの指輪を外してよ」と、醜い嫉妬に狂い、彼が愛してくれた「物分かりのいい綺麗な私」を、私自身の手で壊してしまう。彼に向ける愛情が、どろどろとした憎悪や執着に変わってしまう前に、自ら幕を引かなければならない。
彼をずっと、私の中で一番美しく、完璧な人のままで永遠に閉じ込めておくために。
「美桜? どうしたの、そんなに見つめて」
コーヒーの入ったマグカップをテーブルに置きながら、堂島が不思議そうに首を傾げた。
「堂島さん」
美桜はマグカップには触れず、背筋を真っ直ぐに伸ばして彼を見た。
「堂島さんは……私に、愛し方を教えてくれました。本物の綺麗なものを見る目も、誰かを心の底から大切に想うっていうことも」
「……美桜?」
堂島の声に、微かな戸惑いの色が混じる。大人の男の鋭い勘が、これから美桜が口にしようとしている言葉の気配を察知したのだろう。
「私、あなたのことが大好きです。本当に、ずっと、これからも」
美桜の瞳から、一粒だけ涙がこぼれ落ちた。
それは、雪の夜に一人で流したような、孤独と絶望の涙ではない。彼という存在を自分の中に永遠に刻み込むための、澄み切った決意の涙だった。
この恋は、ここで終わる。
でも、彼が私に教えてくれた愛の記憶は、この先、私が誰か別の人と生きていくことになったとしても、ずっと私の心の奥底で静かに息づき続ける。彼はずっと、私の特別な人であり続けるのだ。
「……だから、これでお別れにしましょう」
静寂に包まれた代官山の部屋に、ジャズの気怠いピアノの音だけが響いていた。
堂島は、シガリロを取り出そうとしていた手を止め、ただ静かに、何かを堪えるような深い瞳で美桜を見つめ返した。




