第7話:明日、あなたはどこに
2月の半ば。東京に数年ぶりの大雪が降った週末の夜。
美桜は、自分の小さなワンルームの窓から、音もなく降り積もる白い雪をぼんやりと見つめていた。
部屋の明かりは点けていない。唯一の光源は、サイドテーブルに置かれたスマートフォンの無機質な画面だけだった。
『雪、すごいですね。風邪をひかないように気をつけてください』
数時間前に送ったその短いメッセージには、いまだに「既読」の文字すらつかない。
堂島からは数日前、「今週末は、少し遠出をする予定があるから連絡が取れなくなる」と静かに告げられていた。どこへ行くのか、誰と行くのか。そんな野暮な質問を飲み込むのが、彼が愛した「物分かりのいい大人の女性」としての最低限のルールだ。
けれど、想像がつかないほど子供ではない。
週末の小旅行。きっと彼は今頃、雪景色の綺麗な温泉宿かどこかで、左手の薬指に指輪をはめたまま、家族と共に温かい夕食を囲んでいるのだろう。
彼が私のためにワインを選んでくれたように、奥様のために気の利いたお酒を頼み、あの深く響く声で、穏やかな日常の会話を交わしているはずだ。
冷え切った窓ガラスに額を押し当てると、美桜の目から、不意にポロリと涙がこぼれ落ちた。
――明日の今頃、あなたはどこにいるのだろう。
――明日の今頃、あなたは誰の顔を見て、誰のことを想っているのだろう。
その答えが「私ではない」という絶対的な事実に、美桜は息が詰まりそうだった。
代官山のあの部屋で、彼にきつく抱きしめられている時、美桜はたしかに彼の一番だった。彼が注いでくれる愛情は本物だと信じている。でも、彼の一日は二十四時間あり、その大半は、私が決して足を踏み入れることのできない別の世界で構成されているのだ。
美桜にとって、堂島は世界のすべてになりつつあった。彼からの連絡一つで一日の気分が変わり、街を歩けば彼に似合うものを探してしまう。
けれど、彼にとっての美桜は、完璧に構築された人生というフルコースの最後に添えられる、少しビターで甘いデザートのようなものなのかもしれない。なくてはならない大切なものだけれど、決して主食にはならない。その非対称な関係性が、雪の静寂の中で鋭い刃となって美桜の心を抉った。
ソファの上に、彼が先月「少し寒かったから」と、自分の首から外して貸してくれたカシミヤのストールが置かれたままになっている。
美桜はそれに手を伸ばし、顔を深く埋めた。
ウッディな香水の奥に潜む、あのシガリロのほろ苦い香り。
匂いは記憶と直結している。香りを吸い込むだけで、彼に撫でられた髪の感触や、首筋に落とされたキスの熱が鮮明に蘇り、美桜の身体を芯から震わせた。
触れたい。今すぐ声が聞きたい。
でも、発信ボタンを押すことは許されない。もし私がここでわがままを言って彼の日常を脅かせば、彼はあの悲しそうな、大人の余裕を含んだ瞳で私を諭し、そして静かに離れていくだろう。
明日の今頃には、私はきっと、どうしようもない孤独の中で泣いている。
そして、それでもなお、雪の降る空の下にいる彼のことを、狂おしいほどに想い続けているのだ。
この恋は、もう限界だ。
彼を愛せば愛するほど、自分がすり減って消えてしまいそうになる。ストールに染み付いたビターな香りを抱きしめながら、美桜は声を殺して、ただ静かに泣き続けた。




