第6話:忘れたくない、けれど
年が明け、1月の東京は底冷えのする厳しい寒さに包まれていた。
吐く息は白く、街の輪郭は冷たい空気の中でより一層鋭く研ぎ澄まされているように見える。
深夜の代官山。堂島の隠れ家であるヴィンテージマンションのベッドで、美桜は一人、静かに目を覚ました。
隣からは、規則正しく深い寝息が聞こえる。シーツ越しに伝わる彼の体温はとても温かく、部屋には微かに、彼が眠る前に吸っていたシガリロのほろ苦い香りが漂っていた。
ほんの数時間前まで、自分はこの腕の中で、甘く蕩けるような熱を分かち合っていた。
「美桜、愛しているよ」と、彼が低い声で何度も耳元に落としてくれた言葉。その響きだけで、世界中のすべてを手に入れたような無敵の幸福感に包まれた。
けれど、彼が眠りに落ち、部屋が静寂に包まれると、決まって同じ痛みが美桜の胸を締め付ける。
暗がりの中で、堂島の美しい横顔を見つめた。
少しだけ白髪の混じった髪、整った鼻筋、そして、シーツの上に無防備に投げ出された左手。そこには、ベッドに入る直前まで外されることのなかった、プラチナの指輪の痕がうっすらと残っている。
――明日の朝になれば、彼はまたあの指輪をはめ、シワ一つないスーツを着て、私の手の届かない世界へと帰っていく。
彼と一緒に過ごす時間は、まるで美しい映画を観ているようだった。
彼が教えてくれたワインの味、ジャズのレコードのノイズ、雨の日のドライブの静けさ。そして、肌に刻まれた深い愛撫の記憶。どれもこれも、これまでの私の人生にはなかった、眩しいほどに美しい宝物だ。
忘れたくない。彼の声も、指先の温度も、このほろ苦い匂いも。
すべてを自分の細胞の奥深くに刻み込んで、絶対に手放したくないと願う自分がいる。
けれど、その「忘れたくないこと」が増えれば増えるほど、美桜は恐ろしくてたまらなかった。
いつか来る終わりの日、あるいは彼がふといなくなってしまった時、この完璧な記憶たちは、私を内側から引き裂く鋭い刃に変わるだろう。彼以外の誰かに触れられても、きっと彼の温度を探してしまう。新しい恋をしたとしても、無意識に彼の面影を重ねてしまう。
愛し方を教えてくれたこの人が、私から「普通に誰かを愛して生きていく未来」を奪っていく。
その残酷な事実に、美桜は少しずつ気づき始めていた。
「……ん、美桜? どうした、眠れないの」
寝返りを打った堂島が、微睡みの中で美桜の肩を抱き寄せた。
「ううん、なんでもないです。……堂島さんの寝顔、見てただけ」
美桜は無理に微笑みを作り、彼の広い胸に額を押し当てた。
トクン、トクンと鳴る彼の心音。この心臓の鼓動は今、私の耳のすぐそばにあるけれど、彼の心の一番深い部分は、決して私のものではない。
「冷えるね。もっとこっちにおいで」
彼が毛布を引き上げ、美桜をすっぽりと包み込む。
その優しさが、今はただひどく悲しかった。
永遠なんてない。この恋の賞味期限は、もうとっくに切れかかっているのだ。
美桜は、込み上げてくる涙を必死に堪えながら、シガリロの匂いが染み付いた彼の腕の中で、朝が来るのを静かに待っていた。




