第5話:止まったままの時間
クリスマスが目前に迫った、12月のよく晴れた週末の午後。
代官山にある堂島のヴィンテージマンションの部屋には、彼が丁寧に淹れてくれた深煎りコーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。
静かに流れるジャズのレコード。ソファで並んで建築の洋書を眺めながら、彼が時折ページをめくる指先に見惚れる。この部屋にいる間だけは、東京の喧騒も、時計の針の進みも、すべてが止まっているように感じられた。
ずっとこのままでいられたら。美桜がそう願った、その時だった。
ローテーブルの上に置かれていた堂島のスマートフォンが、低く短い振動音を立てた。
ふいに点灯した画面の通知ポップアップに、美桜の視線が引き寄せられる。
『パパ、今日の夕食、何時頃になる? ケーキ買っておくね』
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。堂島はわずかに目元を険しくすると、美桜を安心させるように一度だけ小さく微笑み、「少し、ごめん」とスマートフォンを持ってバルコニーへと出て行った。
ガラス越しに見える彼の広い背中。
彼は電話を耳に当て、何かを優しく話しかけている。こちらには聞こえないけれど、その横顔は、美桜に向ける「大人の男」としての余裕のある表情とは違う。一人の父親であり、夫としての、穏やかで日常に根ざした顔だった。
通話を終えた堂島は、すぐに部屋には戻らず、ポケットからシガリロを取り出して火を点けた。
冬の冷たい空気に、白い煙が細く溶けていく。
――ああ、そうか。
美桜はソファのクッションを強く抱きしめた。
私と彼がこの部屋で過ごす時間は、社会から切り離された「止まったままの時間」だ。どんなに甘く、どんなに深く愛し合っても、私たちの関係が明日へ向かって発展することはない。
けれど、この部屋の一歩外に出れば、彼の時間は確実に動き続けている。彼には守るべき日常があり、共に歳を重ねていく家族がいるのだ。
バルコニーから戻ってきた堂島は、身体に冷たい冬の空気と、ほろ苦いシガリロの香りを纏っていた。
「……ごめんね、美桜。少し、仕事の連絡で」
彼はそう言って、美桜の隣に座り直した。
嘘だ。
でも、その嘘を暴く権利すら、私には与えられていない。ただの「秘密の恋人」である私にできるのは、物分かりの良い大人のふりをして、笑顔で頷くことだけだった。
「お忙しいんですね。……無理、しないでくださいね」
声が震えそうになるのを必死に堪え、美桜は彼にもたれかかった。
堂島の大きな手が、美桜の肩を抱き寄せる。その温もりは痛いほど優しいのに、なぜだか急に、たまらなく孤独に感じられた。
彼と一緒にいると、忘れたくないことばかりが増えていく。ワインの味、優しいキスの温度、深く見つめられる時の視線。それなのに、この思い出を重ねれば重ねるほど、いつか来る「終わり」の日に、自分が立ち直れないほど深く傷つくのだと分かっていた。
止まったままの時間が、少しずつ、けれど確実に動き出そうとしている。
彼が吐き出すシガリロの煙のように、私の手の中にあるこの幸せも、いつかは空気に溶けて跡形もなく消えてしまうのだろうか。
美桜は、彼に気づかれないようにそっと目を閉じ、コーヒーの冷めていく香りと混ざり合う彼の匂いを、胸の奥深くに吸い込んだ。




