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第3話:隠れ家のような夜

12月の声を聞くと、東京の街は一気に色彩を増した。表参道の街路樹にはシャンパンゴールドの光が灯り、通りを行き交う人々は皆、誰かに会うための高揚感を纏っているように見える。

 けれど、美桜みおが向かう場所は、そんな浮かれた光の届かない場所だった。

「ここは、僕が集中して図面を引きたい時に使っている場所なんだ」

 堂島どうじまに連れられてやってきたのは、代官山の閑静な住宅街にひっそりと佇む、築年数を重ねた低層のヴィンテージマンションだった。重厚なエントランスを抜け、彼が鍵を開けたその部屋は、インテリアデザイナーである美桜を沈黙させるほど完璧な空間だった。

 コンクリートの打ち放しの壁に、ミッドセンチュリーの家具。照明は必要最低限に抑えられ、棚には建築関連の洋書が美しく並んでいる。部屋全体を支配しているのは、静寂と、そして彼がいつも纏っているシガリロの残り香だった。

「……素敵。堂島さんそのもの、ですね」

「最高の褒め言葉だ。ありがとう」

 堂島はコートを脱ぐと、手慣れた手つきでレコードプレーヤーの針を落とした。微かなスクラッチノイズの後、ハスキーな女性歌手のジャズが、夜の静寂を溶かすように流れ始める。

 この部屋には、彼の「日常」の気配がまったくない。

 家族の写真も、生活感のある消耗品も、彼を「夫」や「父」に引き戻すものは何ひとつ置かれていなかった。ここは彼が自分自身に還るための場所であり、そして今は、私だけが許された秘密の聖域なのだ。その優越感と背徳感が、美桜の心を甘く痺れさせる。

「少し、冷えただろう」

 堂島が背後から美桜を抱き寄せた。スーツ越しに伝わる彼の体温と、深く落ち着いた呼吸。

「……こうしていると、外の世界のことが全部、遠い昔のことみたいに感じます」

「そうだね。今、この瞬間だけは、誰にも僕たちの邪魔はできない」

 堂島は美桜の首筋に顔を埋め、深く、愛おしむようにその香りを吸い込んだ。彼の大きな手が美桜の髪を撫で、やがて顔を上げさせて、静かに唇を重ねる。

 二度目のキスの後、彼はポケットからいつものシガリロを取り出し、銀色のライターで火を点けた。

 暗い部屋の中で、シガリロの先がオレンジ色にポッと光る。

 彼は美桜をソファに座らせると、自分もその隣に腰を下ろし、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

「美桜さんは、どうして建築の世界に入ろうと思ったの?」

「……最初は、ただの憧れでした。誰かの記憶の中に残るような、そんな場所を作れたらいいなって」

「いい動機だね」

 堂島はシガリロを灰皿に置き、美桜の手をそっと取った。

「僕も同じだよ。人はいつか消えてしまうけれど、建物は残る。僕が死んだ後も、誰かが僕の作った空間で恋をしたり、泣いたりする。それは、少しだけ永遠に触れるような感覚なんだ」

 堂島の語る言葉には、知的な好奇心と、そしてどこか孤独な哲学が混ざり合っていた。彼が見ている景色は、24歳の自分にはまだ遠すぎる。けれど、その遠さに触れたいと、もっと深く彼を理解したいと願わずにはいられない。

「ねえ、堂島さん。……朝が来ても、あなたはどこにも行かないでいてくれますか?」

 言った後で、それがどれほど愚かな問いか、美桜はすぐに気づいた。

 朝が来れば、彼は「堂島誠一郎」という社会的な顔に戻り、指輪の主が待つ場所へ帰らなければならない。この部屋は、夜という魔法がかかっている間だけ有効な、かりそめのシェルターなのだから。

 堂島は、答えの代わりに美桜をもう一度きつく抱きしめた。

「……今は、この静かな音楽を聴いていよう。今はまだ、この夜が終わるなんて考えなくていい」

 窓の外では、東京の夜景が果てしなく広がっている。

 一千万個の光の粒子の中で、自分たちだけが闇に溶けている。このまま時間が止まってしまえばいい。意味のない悲しい予感なんて、すべて煙と一緒に消えてしまえばいい。

 美桜は、彼の胸に顔を押し当てた。

 ほろ苦くて、少しだけ切ないシガリロの香りが、彼女の肌に、そして記憶の奥深くに、ゆっくりと染み込んでいった。

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