第2話:琥珀色のグラスと、越えてはいけない線
青山のレセプションパーティーからひと月が過ぎた、11月の終わりのことだった。
美桜は、銀座に新しくオープンする複合商業施設の現場視察に同行していた。まだ塗料の匂いが微かに残るフロアで、図面と睨めっこをしていると、「お疲れ様」と低い声が降ってきた。
顔を上げると、そこにはグレーのチェスターコートを羽織った堂島が立っていた。
「あ、堂島さん。お疲れ様です」
「遅くまで熱心だね。美桜さんのところのチーフ、もう下のカフェで休憩してるよ」
「もう少しだけ、この間接照明の角度を確認しておきたくて」
堂島は「そっか」と優しく目を細め、美桜の横に並んで天井の照明を見上げた。彼の肩から、あの夜と同じ、ほろ苦いタバコとウッディな香水の匂いがふわりと漂う。たったそれだけで、美桜の胸の奥がキュッと締め付けられるように鳴った。
「……ねえ、この後少しだけ時間ある?」
視線を照明に向けたまま、堂島が静かに尋ねてきた。
「え?」
「いい仕事をした後は、少しだけ脳を甘やかした方がいい。美味しいお酒を出してくれる、静かな店を知ってるんだ」
それは、ただのアシスタントに対する労いなのか、それとも一人の女性としての誘いなのか。
堂島の左手の薬指には、今日もプラチナの指輪が冷たく光っている。帰る場所があり、彼を待っている誰かがいるのだ。絶対に行ってはいけないと、頭の中で警告音が鳴り響いていた。けれど、彼の深く落ち着いた声で誘われて、首を横に振ることなど、24歳の美桜にできるはずもなかった。
連れられて行ったのは、銀座の裏通りにある看板のないオーセンティックバーだった。
照明が極端に落とされた店内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。カウンターの奥に座ると、堂島は美桜の好みを少し聞いただけで、バーテンダーにスマートにカクテルをオーダーした。
「強いお酒は大丈夫?」
「はい、たぶん……」
「無理はしないで。でも、君にはこういう少し複雑な味が似合うと思って」
差し出されたのは、琥珀色に透き通る美しいカクテルだった。一口含むと、甘さの奥にハーブのほろ苦さが広がり、喉の奥が熱くなる。大人の世界の味がした。
「あの……堂島さんは、どうして私を誘ってくださったんですか?」
アルコールの力に背中を押され、美桜はグラスを見つめたまま尋ねた。
堂島は手元のロックグラスをゆっくりと揺らした。氷がカラン、と澄んだ音を立てる。
「どうしてだろうね」
彼はクスリと笑い、シガリロに火を点けた。紫煙が薄暗いカウンターの上を静かに這っていく。
「仕事に対して真っ直ぐで、少し不器用な君から、目が離せなくなったからかもしれない」
ズルい人だ、と思った。
そんな風に甘く囁きながらも、彼の纏う空気にはどこか「これ以上は踏み込ませない」という透明な壁のようなものがある。その余裕が、大人の男としての途方もない色気となって美桜を絡め取っていく。
彼にとって、私はほんの一時の気まぐれに過ぎないのかもしれない。でも、彼が私を見つめるその深く静かな瞳の奥に、ほんの少しでも自分だけの場所が欲しいと、切実に願ってしまっている自分がいた。
「堂島さんには……奥様が、いらっしゃるんですよね」
自分に対する戒めのように、美桜は核心を突く言葉を口にした。
堂島の表情から、ふっと笑みが消えた。彼はシガリロを灰皿に置き、美桜の方へと少しだけ身を乗り出した。
至近距離で彼と視線が絡み合う。心臓が跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
「……そうだよ。僕には、家庭がある。君みたいな若くて未来のある綺麗な女性を、こんな暗い場所に誘い込む資格なんてない」
堂島は自嘲するように呟き、美桜の頬にかかった髪を、長い指でそっと耳にかけた。
「でも、君のそのまっすぐな瞳を見ていると、理性が上手く働かなくなるんだ。……困ったな」
彼の指先が頬に触れた瞬間、美桜の中で微かに抵抗しようとしていた「正しさ」の防波堤が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
許されない恋だと分かっている。
この甘い夜の先には、決して一番にはなれないという絶望や、ひとりぼっちで泣く夜が待っていることも、火を見るより明らかだった。
それでも、彼が教えてくれる新しい感情の波に、ただ身を委ねてしまいたかった。
「……困らなくて、いいです」
美桜は、震える声でそう答えた。
堂島の瞳がわずかに見開かれ、やがて、観念したような、それでいてどこか熱を帯びた眼差しへと変わっていく。
バーの重厚な扉の向こう側、東京の夜の冷たい空気の中に、美桜は自分の「引き返す権利」を置き去りにした。ほろ苦く、焦きつけるようなシガリロの香りに包まれながら、二人は決して越えてはいけない境界線を、静かに踏み越えた。




