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最終話:胸の奥の特別な場所

冷たい雨の降る代官山で、堂島どうじまに背を向けてから、ひと月が経った。

 四月を迎えた東京の街は、桜の花びらが風に舞い、どこか浮き足立ったような春の空気に包まれている。

 美桜みおは、新しいホテルのラウンジ設計のプロジェクトリーダーとして、息をつく暇もないほど忙しい日々を送っていた。

 仕事に没頭している間だけは、胸にぽっかりと空いた穴の痛みを忘れることができた。けれど、夜になって一人きりの部屋に帰り、静寂に包まれると、決まってあの冷たい雨の日の記憶が鮮明に蘇ってくる。

 彼が最後に残した、ほろ苦く焦げつくようなシガリロの味。

 傘を持つ手を包み込んだ、大きくて温かい手のひら。

 すべてを見透かしたような、深く寂しげな瞳。

 街ですれ違う誰かから微かにウッディな香水の匂いがするだけで、美桜の足はすくみ、泣き出しそうになる。私の心の中で流れている音楽は、いまだにどうしようもなく悲しいメロディのままだ。

 それでも、あの日、彼のもとを去った自分の決断を後悔してはいなかった。

 もしあのまま彼に縋り付いていれば、私はいつか醜い嫉妬に狂い、彼が私に教えてくれた美しい愛の形すらも、自分の手で汚してしまっていただろう。

 一番綺麗なままで思い出を閉じ込めたからこそ、堂島誠一郎という人は、私の中で永遠に完璧な男性として生き続けることができるのだ。

 休日の午後。美桜は、彼が教えてくれた西麻布の静かなカフェのテラス席で、一人で深煎りのコーヒーを飲んでいた。

 ふと、春の陽気に誘われるように、未来のことに思いを馳せる。

 ――いつか、私にもまた別の恋が訪れる日が来るのだろうか。

 きっと、いつかは来るはずだ。

 でも、もし私がこの先、誰か別の男性と出会い、新しい恋に落ちたとしても。私がその人を愛する時、そこには必ず、堂島が教えてくれた「愛し方」の面影が宿るだろう。

 上質なワインの香りを楽しむ余裕。

 静かなジャズのレコードに耳を傾ける夜の豊かさ。

 そして、見返りを求めず、ただ相手の存在そのものを深く愛おしむということ。

 私が大人の女性として誰かを愛することができるのは、あの数ヶ月間、彼が私にそのすべてを注ぎ込み、手を取って教えてくれたからだ。彼と過ごした時間は、私の血肉となり、これからの人生を支える確かな背骨になっている。

 だから、彼はこれからもずっと、私にとってただ一人の特別な人だ。

 私の心の奥底には、彼のためだけに用意された、鍵のかかった静かな部屋がある。他の誰も決して踏み入ることのできない、甘くてほろ苦い紫煙の香りがする場所。

 願わくば、彼の心の中のほんの片隅にも、私という存在が、美しい記憶としてほんの少しだけ残っていてくれたらいい。

 美桜は空のカップをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。

 顔を上げると、ビルの隙間から抜けるような青空が広がっている。

 今はまだ、胸の奥で悲しいメロディが鳴り響いている。

 けれど、いつか時間がこの傷を優しいかさぶたに変えてくれた時。私はきっと、このほろ苦い記憶を抱えたまま、前を向いて新しい歌を口ずさむことができるはずだ。

 春の風が、美桜の髪をふわりと揺らした。

 彼女は、彼から教わった凛とした足取りで、光の溢れる東京の街へと、静かに歩き出した。

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