第1話:ほろ苦い香りの引力
東京・青山の夜は、冷たい雨に濡れて黒いアスファルトが艶やかに光っていた。
24歳の美桜は、勤めているインテリアデザイン事務所が主催するレセプションパーティーの喧騒から逃れるように、テラス席へと足を踏み出した。シャンパングラスの触れ合う高い音や、上辺だけの華やかな会話に少しだけ疲れてしまったのだ。
ひんやりとした秋の夜風に深く息を吐き出した瞬間、ふわりと、ビターで少しだけスパイスの効いた香りが鼻先を掠めた。
タバコの香りだ。
「……あ、すみません。煙、気になりますか」
低く、チェロの弦を弾くような落ち着いた声だった。
驚いて視線を向けると、テラスの薄暗い隅で、一人の男性が細いシガリロを指に挟んで立っていた。
年齢は40代の半ば、あるいは後半だろうか。上質なネイビーのスリーピーススーツを完璧に着こなし、少しだけ混じった銀糸のような白髪が、彼にただの「おじさん」とは次元の違う、洗練された大人の色気を漂わせていた。
伏せられた長い睫毛や、無駄のない所作。何より、その奥深く静かな瞳で見つめられた瞬間、美桜の心臓はトクンと不規則な音を立てた。
「いえ、大丈夫です。私の方こそ、静かな時間を邪魔してしまって……」
「とんでもない。中、少し息が詰まりますよね。……僕は、堂島といいます。一応、今日のプロジェクトの建築設計を担当しました」
堂島誠一郎。業界では名の知れた、気鋭の建築家だった。美桜のような下っ端のアシスタントが気安く言葉を交わせるような相手ではない。
「あっ、初めまして! 私、今回の内装アシスタントに入らせていただいた……」
「知っていますよ。美桜さん、ですよね。あのエントランスの照明の配置、すごく良かった。冷たいコンクリートの空間に、一気に血が通ったようだった」
堂島は、シガリロの煙を夜空に細く吐き出しながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、大人の余裕に満ちていて、どこか甘かった。自分の細かな仕事を見て、名前まで覚えていてくれたこと。そして、その深い声で名前を呼ばれたことに、美桜の頬は一気に熱を持った。
「ありがとうございます……」
「この仕事は、ずっと気を張っていないといけないから。たまにはこうして、深呼吸することも大事ですよ」
そう言って、彼が灰皿にシガリロを押し付けた時だった。
テラスの淡い間接照明が、彼の手元を照らし出した。
堂島の左手の薬指には、プラチナのシンプルな指輪が、静かに、けれど絶対的な事実として光を反射していた。
――既婚者。
美桜の胸の奥で、小さな警鐘が鳴った。これ以上、この引力に近づいてはいけない。経験の少ない24歳の自分が太刀打ちできる相手ではないと、本能が告げている。
「……そろそろ、戻りましょうか」
堂島がグラスを手に取り、美桜に促す。すれ違いざま、彼のスーツから先ほどのシガリロのほろ苦い香りと、上質なウッディ系の香水が混ざり合った、胸が締め付けられるような切なく甘い匂いがした。
この時、美桜はまだ知らなかった。
このビターで大人びた香りが、やがて自分の心に決して消えない傷と、永遠に忘れることのできない愛の記憶を刻み込むことになるとは。
青山を濡らす雨は、いつの間にか上がっていた。
雲の切れ間から覗く東京タワーの光を横目に、美桜は、決して踏み込んではいけない扉の前に立ってしまった自分に、気づかないふりをした。




