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ピンクの星屑

ピンクの星屑

                                   石川安泰


エレベーターの前には、黒の上下に蝶ネクタイの、目にはまだ幼さは残るものの精悍な顔立ちをした青年が手を前に組んで立っていた。

「従業員募集の看板を見たんですが」

僕がビルの表を指しながら言うと、そのスポーツ刈りの頭をした青年は「どうぞ」と組んでいた手を開き、半身になって僕をエレベーターに促した。

ドアがゆっくりと締まり、世界は夜になった。ダークブルーのライトのせいだった。正面の壁には『今週のショースケジュール』と書かれたパネルが掛けられていた。金曜日だけ、他の日に比べて勝ち誇ったように、ゴシック体で大きく歌手名が書かれていたが、聞いたことのない名前だった。

ドア横には、短く刈られた髪がハリネズミのように見える青年が、無言の背中を向けていた。

エレベーターの開き際「いらっしゃいませ!」と、来客と勘違いした複数の逞しい声と、生バンドの奏でる軽快なジャズが耳に飛び込んできた。

エレベーターの両隣に二人、カウンターの前に二人と黒の上下が、真紅のじゅうたんのうえに並んでいた。

カラスの群れだ、と僕は思った。エレベーターの青年から耳打ちされた髪の毛の薄いカラスが「客にしちゃあえらく若いと思ったんだ」と僕に言った。

僕はその『主任』と名札に書かれたカラスの背中のあとを歩いた。ざっくざっくと、じゅうたんのパイルを踏む音が聞こえる気がした。

次に引き合わされたカラスの名札は『マネージャー』だった。

僕はカウンターの奥の控え室に通され、黒いソファに彼と向かいあって座った。空気の色ががらりと変わり、白い壁に囲まれた明るい部屋だった。

彼はハイライトをシャツの胸ポケットから取り出し、吸うか?と一本差し出した。僕が遠慮すると、彼は自分でそれを口にくわえ、タキシードのポケットから金色のライターを出して火をつけた。

僕がショルダーバックの中に常時用意していた履歴書を、彼は身を乗り出てはいるものの、さして興味もなさそうに手に取って眺めていた。自分の指に挟んだ煙草が煙たいのか、彼は眉間にしわを寄せていて、目尻が日本刀の刃先のように釣り上がっていた。すべてに分厚い人だった。太い眉、太い首回り、重量感のある手と胸板・・・浅黒い肌がタキシードの下の堅い筋肉を想像させた

「今まで働いたことは?」

彼は履歴書に目を落としたまま、その厚い唇を動かして聞いた。

「ないです」

「そう・・・」

彼は相変わらず下を向いたまま、間を置きながら、まるで僕がここにいるのをその都度思い出しているかのように幾つか質問を僕に向けたあと、「じゃあ明日から頼むよ」としわがれた声で言った。

僕が未成年であるにも係わらず、彼は身元保証人など一切問わなかった。

マネージャーは立ち上がりながら「訳ありだろうから、何も聞かないよ。だけど」と抑揚のない口振りで付け加えた。

「無断欠勤と、店の女の子に手を出すのは厳禁だよ。うちの商品だからね。そんときはやめてもらうよ。それから靴を買っといてくれ。エナメルの黒いやつ。靴だけはちゃんと自分にあったのでないと、歩きにくいんだ」


6階のロッカールームで、主任から、クリーニングから返ってきたばかりと分かるビニールに包まれたタキシード上下と、黒のボウタイを手渡された。

「ワイシャツはここから取ってくれ」

正面の棚の上には二つのダンボール箱があった。片方は空、もう一方には数枚のワイシャツが、やはりビニール袋に包まれて積まれていた。

首のところのラベルでMかLかを確認して着用する、仕事が終われば、脱いだままの状態で隣の空箱に放り込んでおけばいい、お前は華奢そうだから首回りもMだったら十分だろ、と彼は続けた。

あとのことは何でもエレベーターで会った青年に聞くように、とだけ言い残し、主任はロッカールームを出ていった。

彼の印象を部分的に思い返せば、白い肌にひげの濃い頬、ちょうど中年という新たな人生に足を踏み入れたことを示す腹の膨らみと薄くなっている後頭部、だった。

バックから持参のエナメルの靴を取り出して着替えていると、ボウタイを襟から垂らし、昨日のエレベーターの青年が入ってきた。

僕が着替える間、シャツの袖をまくりズボンをサスペンダーで吊った彼は、ロッカーにもたれて煙草を吸っていた。僕は彼のあとを継いでエレベーターボーイをするそうだった。彼の名前は木村だった。

ボウタイを残すばかりとなった時点で、

「エレベーターの前に立つ前に結び方教えるよ。まずはみんなの弁当の買い出しだ」

木村は愛嬌の残る目を向け、僕を外に促した。

僕たちはむき出しの非常階段を上がり、7階のカウンターのところにいたマネージャーに買うべき弁当の数を確認し、裏手の従業員専用エレベーターで1階に降りた

弁当の袋を手に7階に戻ってくると、木村の後について厨房の中に入った。空瓶の入ったケースを横に並べ、ホースでそれぞれの瓶の口に水を注ぐ主任と、お絞りをビニール袋から取り出しては保温器の中に入れているボーイの姿が目に映った。その顔をあげた二人に「今日はからあげですよ」と木村が言った。

弁当と、氷水の入ったグラスを、閑散としたホール一角のテーブルに運びながら、木村は僕に耳打ちした。

「主任のつくってたのはミネラルさ。あとで割り箸を口に突っ込んで、ちょうど栓を抜いたあとの状態にしとくんだ。小一時間置いとくと、水道水の臭みも消えるらしいけど、こんなもので金取っていいのかね」

カウンターから現れたマネージャーの「飯にしようか」という一声で、ワイシャツの腕をまくり、ボウタイを首から垂らしたボーイたちが集まってきた。

クラリネットの音色が薄暗いステージ奥から漂ってきた。主人のいないピアノやドラムスの横で、白髪の男がスコアに目をやりながら熱心に吹いていた。

「今日はおかず何なの?」

みんなの問いに、木村は「からあげです」と一様に同じ答えを返していた。

マネージャーはどっかとソファに腰を下ろし、前かがみになって弁当の蓋を取った。割り箸を割ると、乱暴に食べ始めた。続けて、割り箸を割る複数の音が、ぱちぱちとホールに響いた。

突然マネージャーの大声に、みんなの箸が一斉に動きを止めた。

「新人の野村君をよろしくな!いじめちゃだめだぞ。今うちは人がいなくて困ってんだ」

主任を始めとするすべての視線が、僕に集まるのを待って、マネージャーは不自然に声を和らげた。

「でも、ホステスに手をつけたら駄目だぞ」

マネージャーの箸は、もう弁当と口を往復していた。安心したように、みんなの箸が動き始めた。


1階に降り、従業員募集と客引き用の2枚の立て看板をビルの外に用意した。

ビルの地階には居酒屋、2階から5階までは会計事務所などテナントが入り、6階がクラブの事務所や更衣室、7階がホールとなっていた。

二つある正面エレベーターは、6時半以降は1台がクラブ専用になる。地階の居酒屋には、ビルの入口すぐにある階段を利用することになるし、事務所などは5時過ぎには締まってしまうので、これからビルに足を踏み入れてエレベーターに向かってくるとすれば、それはほとんどがクラブの客ということだった。

木村は僕の横に並んで実演しながら、ボウタイの結び方を説明する。

「まず首に巻いて、少しだけ右を長く残す・・・そう、そのくらい・・・次にこうして巻く・・・」

何度かやり直すうち、木村が腕時計を見て、その丹精な顔に似合わぬ驚声をあげた。

「また自分で練習しといてくれ」

すぐ目の前で、僕の首元を締め上げるハリネズミの頭が、右に左に揺れていた。

6時半きっかりに、エレベーターの階を示すボタンの下のカギを開けて手動にし、ライトを薄暗いブルーに切り替えた。8時近くまでは、同伴の客がちらほら現れるくらいらしかった。

彼は僕に煙草を一本勧めたが、僕は吸わないからと断った。

「未成年だからか。つまらねえ奴だ」

クラブの役付けは店長、マネージャー、主任、ヒラというヒエラルヒーとなっていた。

「マネージャー恐そうだろ。このクラブの実質的な管理者だよ。今はもう太っちゃって見る影ないけど、ボクサーだったらしい。4回戦ボーイか何かのな。4回戦から上には行けなかった、なんてことは口にしたらだめだぞ」

「・・・店長はどんな人?」

カウンターのところで見かけた限りだった彼の風体は、ちょうどマネージャーが分厚いのに比べ、すべてに薄い印象が残っていた・・・薄い唇と眉、薄い胸板、ほっそりとした口ひげとあごひげ・・・

肺いっぱいに吸い込んだ煙草の煙を、木村は口の端からゆっくりはいた。

「めったに喋ることもないから、よく分かんねえんだ。飯なんかも俺たちとは絶対一緒に食べないし。カウンターに入って金の勘定ばっかやってるようだし。とにかく金がすべてなんだろ・・・でもな、実のところあれは素人じゃないんだ。誰も何も言わないけどさ。あのうつろな、いつも遠くを見つめているような目は、何人か殺してる目だよ」

店長の伸びた背筋は、あのときのあたりの空気を引き締めていた。

「冗談だよ。ま、たちの悪い客なんかの相手はマネージャーが出ていけばいいとしてもさ、いざという時には、そんな訳の分からない威風も必要なんだろうさ」

木村は自分のはいた煙の行き先を中空に見つめながら、思い出したようにつぶやいた。

「・・・主任は見かけ通りだよ」

僕は主任の容姿を頭に描いた。

「分かんねえか?当然だよな。まだ分かんねえよな。マネージャーの飼ってるオウムってことさ。いつもマネージャーの方ばっか向いてて、まれに喋ると思えばマネージャーからの受け売りだ」

木村の怒気を含んだ口振りを耳にしたとき、ビルの入口に太った女が現れた。彼女は足早にこちらに向かってきて、木村にあざとい笑顔を投げた。

「ごめん、6階まで乗せてね。今お客さんいないからいいでしょ」

女は僕をちらりと不思議そうに見た。

「あら、今日はエレベーター二人なの?」

「彼、新人です。よろしくしてやってください」

木村は後ろにあった灰皿に、手の煙草を落ちないように置いた。

「マネージャーに怒られちゃうんだけどなあ」

そう不満気に聞こえない不満の台詞を口にして、彼は女を中に促した。僕に外で待ってるよう手でジェスチャーした木村は、エレベーターのドアの向こうに見えなくなった。

ドアの上の明かりが、7階で折り返して、ゆっくりと戻ってきた。夜色のボックスから木村が出てきた。

「まれにとんでもないのいるだろ。どうして今のような女のために高い金を払って飲みにくるんだろな。不思議だよな」

そう彼はうそぶいて、吸い掛けの煙草を灰皿から取り上げ、一口吸った。

「本当はさ、出勤のときは裏の専用エレベーターを使わなきゃなんねえんだ。エレベーターを動かすとさ、7階のマネージャーが見ててドアの前でスタンバイしてんだよ」

体格に似合わぬマネージャーの繊細さだった。

「・・・まず、エレベーターで上がってる間に、客を1階で待たせてしまうかもしれないってことが考えられるだろ。それから・・・例えば客を乗せているときに6階でドアを開けるとするとだな、7階以外は専用の照明が施されていないから、せっかくエレベーターの中でつくっていたムードが壊れちゃうってこともある」

想像だけどな、とはにかんだ彼は、短くなった煙草を灰皿で消し、ところで、と改まって言った。

「ここのエレベーターボーイってのは、一見さんがほとんどないから、呼び込みは必要ないんだ。要は来た客を慇懃にお迎えすればいい。それだけだ」

あたりに誰も見あたらないが、彼は少し声をひそめた。

「それにさ、気のいい客だったら、『にいちゃん、きたねえ服だな。これでシャツでも買いな』ってこともある。きれいなホステスさんとお近付きになれるってこともある・・・まあ、お近付きになれても仕方がないか。所詮金もない俺たちボーイ風情を彼女たち本気で相手にしないだろうしな」

とそのとき、ビルの前にふたつの人影が現れた。

「さて、まずは俺が見本見せるから」

口を開けているエレベーターのドアの左右に、僕たちは控えた。

スーツ姿の客は小柄な男だった。その腕に、男より数段上背のある派手な女が、背を丸めるようにして自分の腕を回している。

「いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます」

とってつけたような丁寧な口調と共に、木村が頭を下げて手を広げる。男は軽くうなずき、顎を上げ気味に僕たちの間を通り過ぎた。腕を組んだままの女は、男から半歩遅れてエレベーターにハイヒールの足を踏み入れた。その様子は、コバンザメを先頭に、大きなエイが歩幅を無理に合わせながらついていくといった滑稽さを伴っていた。

こら、ちゃんと頭を下げろよ、と木村が上目使いに僕を見ていた。僕は急いで木村に続いてエレベーターに乗り込み、ドアを挟んで彼と反対側に立った。木村の作動で濃紺のボックスは上昇を始めた。

「今日、シャンソンみたいよ。あなた好きだったよね」

ホステスが壁に掛けられたショースケジュールを見て男に耳打ちしていた。男は背筋を伸ばし、そうすることが威厳を示すすべであるかの如く、撫然としてうなずいている。

「お待たせいたしました。7階クラブレジェンドでございます。ごゆっくりどうぞ」

木村が開いたドアに手をかけながら、続けて「お一人様ご案内です!」と一際大きな声をあげるのに呼応してエレベーターのそばに控えていたマネージャーと主任が半身になり、コバンザメをホールに導いた。カウンターのところでは、店長がVIPのための笑顔を用意している。

ドアが閉まるなり、木村は呆れた様子で僕に言った。

「あまり客をじろじろ見るもんじゃないぞ。彼らはホステスと遊びに来てんだ。俺たちゃ、ただ背を向けてればいいんだよ。俺たちは影なんだ。人間として存在してないんだ」

やっぱり声がまだ小さすぎるな、もっと元気にやらないと・・・交替して僕が務めるボーイぶりに不満げながらも、木村はホールの仕事があるからと、僕を残して7階で降りていった。

そのあと初めて一人で案内するエレベーターの中で、「だれでもペーペーからはじまんだよ。まあがんばれよな」と客から言葉を掛けられた。情味というものだった。

次にどこかで一杯やってきたと明らかに分かる男にうしろから股間を握られた。スーツ族の間隙を縫って現れた着流しの男が、「これでも入っていいかな」と僕の目の前にかざした手には小指がなかった。

一息ついていたところにビルの前に現れたのは、一組の老年カップルだった。

頭の禿げ上がった男は、杖をつき、女に寄り掛かかって歩いてきた。頭の大きい老人だった。

二人はどこか料理屋にでも入ろうとして迷いこんできた老夫婦のように見えた。その思いは彼らの容姿が目に明らかになるにつれ、さらに大きくなっていった。

ところが彼らは僕の横を通り過ぎ、するりとエレベーターに乗り込んだ。

確かに女の身なりはそれなりに水っぽく見えないこともないが、ホステスというにはあまりに歳だった。ドアの上の数字を、明かりが飛び移っていくのを見つめているとき、背中から妙な音がして振り返ると、ブルーのライトに抱かれた二人は、情熱的なキスを交していた。

休憩行ってこいよ、という言葉を携えて1階に現れた木村に、老カップルのことを話した。彼は歯並びのいい白い歯を見せて言った。

「社長だな。ホステスさんはお花さん。息子に会社を譲ったあと、やることなくなっちゃったんだろうなあ。奥さんは大分以前に亡くなってるらしい。毎日二人でふらりと来ては、1時間ほど水割りをちびりちびりして帰っていくよ」

木村は煙草に火をつけて、きれいに口の端から煙をはく。

「お花さんとはこのクラブのできる前からの付き合いという噂だけど、彼女も社長がいなくなったらどうするんだろうな。もう誰も新しい客がつくはずはないもんな」

「一緒に住まないんだ・・・」

「今さら世界を変えたくないんだろ。最後まで夢のままで終わりたいんじゃないの。まあ現実的なことを言えば、今更遺産問題や何やで家族ともめるのが面倒なのかもな」

木村は興味もなさそうに答えた。


僕はいつものようにみんなと食事を済ませたあと、看板をビルの前に用意し、エレベーターの前で両手を前に組み、同伴客の姿が現れるのを待っていた。

ふと腕時計に目をやったとき、女が駆け込んできた。ウェーブのかかった髪をピンク色のリボンで束ね、耳たぶから覗く真珠のイヤリングが揺れている。水色のスーツを着ていて品のいいOLのように見える。

裏手の従業員専用エレベーターにそそくさと向かおうとする彼女と、瞬時目があった。

僕は軽く会釈をした。彼女は足をとめ、小さくうなずいてから近付いてきた。彼女の額にうっすら汗が吹き出ていたドレスの胸につけられた彼女の名札を見たことがある。

水音さんだった。

「ごめん、6階までいい?」

彼女は息を切らしながら尋ねた。

僕は中に促した。

マネージャーに怒られちゃうんだけどな・・・木村の軽口がふっと頭に甦ってくる。

ボックスがようやく重力に抗うことから解放されたとき、背中の方から息を整えた彼女の声がした。

「あーあ、遅れちゃった・・・今日同伴日でしょ。同伴日に一人で出勤すると罰金取られるのよ。あなたそんなの知ってた?おまけに遅刻なんて散々だわ」

僕の口をついて出たのは「はい」という返事だった。

「おじさんの相手ももう懲り懲りだわ。かと言って私にできることって何もないものね・・・ああ、やだやだ」

閉店時間になってエレベーターから客を送り出したあとの場面が、僕の脳裏に沁み入ってきた。それは、ビルの出口のあたりで、たむろして待っている客たちのことだった。彼らはドレスから私服に着替えたホステスが現れると、一組、二組とカップルになってタクシーで消えていく。

「ねえ、今日のショーはなに?」

水音さんの声が記憶の光景を遮った。

「・・・演歌です」

「なあんだ。私ジャズが好きなのよね。じゃあね」

ドアの閉まったボックスの中には、彼女の残り香がしっとりとたち込めていた。


ホールに吸い込まれていく客の背中がドアに遮られたときには、既に1階のボタンにライトが点燈していた。

赤ら顔をしたスーツ族が、ポケットに手を突っ込み、ドアの前で待っているさまを僕は思った。週末がやってくるたび、クラブは会社のひけた彼らでごった返すのだった。

僕は息を整え、ドアが開ききる前に声をあげた。

「いらっしゃ」

木村が目の前に立っていた。

「休憩行ってこいよ。そのあとにさ、ショータイムの照明を俺の替わりにやってみないか?特に今日はヌードショーだしな」

彼はきれいな歯を見せて言った。

左右両側からスポットライトをあてるための小窓が二つ、ホールを囲む壁から覗いている。左側は音響と照明担当の大橋さんという人が受け持っている。僕は右の照明に陣取り、ヘッドホンを通して彼の指示に従えばいいということだった。

僕は木村に聞いた通り、カウンター横の通路に入り、小さな梯子を上った。頭を打たないようにかがんで手探りしつつ、照明器の横の木箱に腰掛けた。壁のヘッドホンを首にかけ、小窓の黒いカーテンを引いた。

半円形の舞台を包むようにいくつものテーブルが居並んでいた。それぞれのスタンドライトが、紫煙のなかのグラスやボトル、ソファから生えでたスーツの肩と肩紐のかかった裸の肩たち、笑い声、氷がグラスにぶつかる音、さらには咀嚼の音までもを、混然と浮き上がらせていた。

クモの巣状に広がる通路に、測ったように等しい間隔で点在するボーイたちが、手摺りに身体を寄せてオーダーを待っている。

ミラーボールのつくり出す無数の小さな明かりが、無機質な壁をゆっくりはっているのを眺めているうち、僕の目前には静かにもやがかかり始めた。

そこは、見通しのきかない深海の底、静寂が広がっていた。しんしんと明かりたちは落ちていた。それらは、ここから息を吹きかけるだけでゆらいでしまうほどか弱く見えた。完全な黒に被われた海の底に、彼らは密かに瞬きながら沈殿していた。

その中央に、ぼんやり霞んだピンクの明かりが、ぽつねんと現れた。しばらくすると、一つだったその色はあちらこちらに飛び移り、いたるところで明滅を始めた。

僕は突然まぶたをきつく閉じていた。僕は身体を小さくして、彼らの行き過ぎるのを待った。

耳に甦ってきた女たちの笑い声に、うっすら目を開けてみれば、あたりの光景はあるべき姿を取り戻していた

ピンクに染まったテーブルに、オーダーを取りにいったボーイが片ひざをつくと、ホステスがスタンドライトを元に戻す。その、短くはかないピンク色の時間が、ホールで点滅を繰り返しているように見えていたのだ。

「水音さん、水音さん、カウンターまで」

マネージャーの声で場内アナウンスが流れていた。赤いイブニングドレスの水音さんが、足早にカウンターを往復し、客に愛想を振りまきながら最前列のテーブルにつくのが見えた。

ヘッドホンを頭につけて待っていると、電源が入ったような弱音がした。

「もしもし、今日はじめてだって。よろしく」

かん高い声だった。

僕が名前を答えると、

「ファーストネームはなんて言うの」

「真也です」

「じゃあ真ちゃんでいいね。最初は白でいくからね。準備しといてよ」

円盤を回し、カラーフィルターを透明色のところに合わせた。

テーブルのライトを残し、ホールのライトが急に消えた。ステージに黒い人影が滑り出て、中央で動かなくなった。ロックの演奏が始まった。

「はいスイッチを入れて、ダンサーの全身を入れて」

ホットパンツ姿の、テンガロンハットを目深にかぶった踊り子が、白く射抜かれた。

「輪が少し大きすぎるね。もう少し絞って。そうそう、その感じ。何だってしまりのないのはよくないんだよ」

間髪入れず、ヘッドホンの向こうからかん高い笑い声がびりびりと響いてきた。

踊り子がテンガロンハットを舞台の袖に投げ捨てた。頭を振った彼女の髪が、肩まで崩れ出るのに歓声が起こった。

女が裏皮のジャケットを脱ぎだすと、今度はピンクのところに円盤を回して合わすよう、指示があった。

後ろを向いた踊り子は、腰を振りながらホットパンツを床に落とし、Tバックのビキニ姿になった。ビーズが施してあるのか、きらきら輝くビキニから、今にも崩れてしまうばかりに豊満な肢体がこぼれている。

「真ちゃん、今、食いいるように見てんだろうねえ。若いねえ、若いっていいねえ。でもね、正直言うと僕は全然楽しくないよ・・・あの首のスカーフで隠すから、結局毛だって見えないんだよねえ」

もったいぶるように、女は肩紐をはずしたブラを片手で胸に留めてステージを踊る。

「今度、ちゃんとしたストリップいこうね。そもそも肝心なところを見ないっていうのは野球で言えば9回裏を見ずに帰るような・・・せずにセックスするような・・・」

ステージ下の客席にいた水音さんが、男に肩を抱かれているのが目の端にとまった。

踊り子はステージを擦るようにブラを投げる。ボーイたちの手慣れた拍手に、口笛が混じっていた。

ステージ下には・・・水音さんが頭を客の肩にもたれ掛けている輪郭がおぼろげに見えた。

矢庭にヘッドホンから声がした。

「真ちゃん、スポットずれてるよ。それから濃いピンク、濃いピンクだよ。よろしく」

踊り子が身につけているものは、ウェスタンブーツだけとなっていた。彼女は脱いだパンティーを右手の人差し指でくるくる回し、左手のスカーフで下腹部を被っていた。アルトサックスをフィーチャーしたバラードが、ろう人形のような光沢を見せる女の肌を、滑り落ちては足元から螺旋を描いて吹き上がっていた。


7階のドアが開くなり、頭のうなだれたスーツの客を抱きかかえるようにして、水音さんが乗り込んできた。

僕は、二人に背中を向けたまま手を前に組み、1階に到着するのを待った。

睦言のように最初思えたものは、泥酔した男のろれつの回らない言葉だった。

「今度来てくれたときにね。まだ閉店じゃないから私は出られないからね」

水音さんの諭す声がする。

「お待たせいたしました。またお越しくださいませ」

ドアが開くと同時に、僕は右手を開いて男を外へと促した。

「馬鹿野郎!俺はまだ帰らないんだよ!」

顔を上げた男は突然気色ばみ、僕のボウタイを掴んで怒鳴った。酒臭い、生暖かい息が僕の顔を被った。男のネクタイの結び目が緩んでいた。

「ちょっと、ちょっと」

水音さんは僕と客の間に身体を入れて、男の手を僕の首から解いた。

「あなたはちょっと飲み過ぎてるの。外で酔いを冷ましましょう」

男の視線を自分に向かせ直し、水音さんは男の身体に腕を回して連れ出した。蛇行しながら進む二人の姿はビルの外に見えなくなった。

しばらくして戻ってきた彼女の足取りは、一人になってもおぼつかない様子だった。安心して急に酔いが自分にも回ってきた、そんな風に見えた。

僕は無言でエレベーターに乗せ、7階のボタンを押した。

「タクシーに乗せるの大変だったわ」

消え入りそうな声だった。

「はい?」

「私の腕を強く掴むもんだから、あざになるかと思った。まだ来店2回目なのに、身体は触るし、しつこいし、ほんと嫌な客」

「・・・」

「ごめんね、さっきは」

「いえ・・・」

「ちょっと、あんた!背中向けてないでよ。こっちを向きなさい!」

彼女の急に荒らげた声で、僕は振り返った。

「えへへ、ちょっとは私たち哀れなホステスにもお話をしてあげるなり君もサービスなさい」

腕を胸の前で組んだ彼女は、壁に背をつけてもたれかかり、笑った。悪戯に、という笑みだった。彼女の視線から逸らした僕の目にショースケジュールのパネルが映った。

「・・・来週の月曜日ジャズみたいです」

戻りかけていた彼女の顔が、綻んだ。

「あなたもジャズ好きなの?」

「いえ・・・あまり知らないです。いえ、まったく知らないです」

彼女はふと視線を落とし、片手でこぶしをつくって額にあて、考え込む仕草を見せた。

「今日都合いい?仕事終わったら立ち食いそば屋の前にいて」と彼女は顔を上げて言った。

「はい?」

そのとき、エレベーターのドアが開いた。水音さんはじゃあね、と言い残し、赤いじゅうたんを確かな足取りで歩いていった。


「あら、ほんとに待ってたんだ」

ジーパンにティーシャツの水音さんが歩いてきた。

彼女の青いパンプスの足先が、僕を向いて動きを止めた。

「ほんとに何も喋らないのね。何考えてるの?・・・でも嬉しいわ。いなかったらおそばでも食べて帰りましょって思ってたの」

「きっとあとで、『俺の女に手を出しやがって』とかいって、僕は殴られる・・・」

水音さんの表情が変化した。

水音さんの口元にゆっくりえくぼができた。

「まあ、だまされたと思ってついていらっしゃいよ。いいジャズのライブハウス見つけたのよ。だいたいさあ、クラブのショータイムでジャズやることって少ないじゃない。演歌とかシャンソンとかさ。欲求不満になっちゃってさ」

「ちらっとホール覗いただけですけど、バンドさんもジャズやってるときは生き生きして見えます。ショータイムの演歌のときはしゅんとしてます」

芝居のセリフのように、僕はすらすらと言葉を口にすることができていた。僕たちは並んで歩き出した。

「彼らもね、生活ってことはもちろんだけど、その日にもらった譜面をすぐに、どんなジャンルでも演奏する練習って意味もあるみたいだけどね」

「あのクラリネット吹いてる白髪のおじいさんも?」

「彼は道楽。高校の音楽教師を定年で辞めたんだって。あまり出番ないみたいだけど、バンドマンやることがずっと夢だったんでしょうね・・・確かに君の言うようにみんな4ビートやってるときのほうが楽しそうに見えるね」

彼女が手を上げてタクシーをとめた。

彼女はドライバーの背中に行き先を告げた。

「クラブだとね、ジャズといってもショータイムは女性ボーカル、それ以外はビックバンド時代のダンス音楽なのよ。今日はね、十分にピアノトリオのインプロビゼイションを堪能するの」

彼女は両こぶしを顔の前で握りしめ、右頬にえくぼをつくって僕を見た。豊かな胸元にはハートのネックレスが揺れていた。ハンドル横についたレバーを、ドライバーの荒い指ふしをした手が無器用に動かしていた。加速するたびにくる圧迫感は、悪いものではなかった。

重く淀んだ闇の広がる窓外から、夜風が迷い込んできて、水音さんの髪の回りを舞ってから逃げていった。


何度目のステージか分からないが、既に演奏は始まっていた。

トレンチの上のものをボーイが一式テーブルに広げていった。彼女は慣れた手つきで水割りをつくって僕に差し出し、はたと気付いたように笑った。

「条件反射で、目の前に空のグラスが置いてあると勝手に手が動いちゃうわ」

僕の耳許に顔を近付けて言い、彼女はハンドバックから煙草を取り出し、火をつけた。

「遅くまで店やってるんですね」

僕は口をつけたグラスを手に持ったまま、彼女の耳許に顔を寄せて聞いた。僕のグラスに、彼女は自分のグラスをカチンと音をたてて合わせた。

「4時までやってるの。ニューヨークみたいなのよね。そういえば『ビレッジ・バンガード』ってニューヨークにあるライブハウスがあってね、ここ、行った友達に聞いたんだけど、そこの雰囲気に似てるらしいわ」

縦長の店の木質の壁には、ところどころ無造作にジャズメンのモノクロ写真が飾ってある。くわえ煙草でピアノの上のスコアーに鉛筆をいれる横顔。眉間にしわをつくり、前方の何かを見据えながら、テナーサックスのリードに口をつけている立ち姿・・・

フローリングの床には、ぞんざいに並ぶ白の円テーブル・・・清潔感はないが、調和という言葉が当てはまる空間だった。

「狭い階段を降りてドアを開けるとね、そこに昔ながらの頑固な黒人の店主がでんと座ってるの。彼にチャージ払って入るんだって・・・ねえ一緒に行ってみようか?」

水音さんは、煙草の煙をきれいな線にしてはいた。次第にスピードを落とした煙の先端は、諦めたようにゆらゆら天井に立ち昇っていく。その姿は、ジャズの律動に身体を委ねているようだった。豊かな頬に、うっすらえくぼを浮かべた彼女の頭も、小さく上下に揺れている。

なに?というような目を僕に向けている水音さんの笑顔は、僕が彼女を見つめていたことを意味していた。

彼女は僕から目を逸らし、脇に置いていたハンドバックを手に取った。彼女のしなやかな指は、手帳に挟んだポールペンを抜いて、タンブラーの下になっていた丸い紙製コースターの裏に、さらさらと何やら書き込んだ。彼女の人差し指と中指に挟まれたコースターは、宙を泳ぎ、脇を通りがかったウェイターの手に渡された。

「リクエストしちゃった。プレゼントよ」

えくぼを携えて、彼女が言った。

間もなく始まった曲の、小気味良いビートに合わせ、水音さんは組んだ足でリズムをとっていた。ドラマーの手の2本のブラシが、シンバルの肌を撫でていた。僕は心臓の拍動を音楽に重ねてみた。上手くできた。頭を振りながら、踊るように鍵盤を叩いていたアフロヘアのピアニストが後ろを振り向き、口ひげをはやし髪を後ろできつく束ねたベーシストと笑みを交わしていた。

ラストステージも終わり、僕たちは店を出た。少し寝かせてくれない?と水音さんは僕のアパートまでついてきた。

5分後、僕は螢光灯の明かりを消し、彼女の隣へ滑り込んだ。彼女が唇を押しつけてきた。


大橋さんの容姿とヘッドホンを通したときの彼の陽気な口調はそぐわなかった。

大橋さんは、いつもGパンにブルーのタンガリーシャツ、あるいはこれと大差ない出立ちをしていた。そんな姿をしているのは彼だけだった。彼を見かけるとすれば決まって開店前の薄暗いホールで、一人黙々とライトやマイクのチェックをしている姿だった。彼は開店前の食事を僕たちと一緒に取ることはなかった。客の残していった気の抜けたビールでする、閉店後の小さな打ち上げにも、彼はいなかった。ボーイたちのなかで彼と言葉を交わす人間と言えば、木村と僕、この二人だけだった。

そのとき、大橋さんの調光室兼音響室を光源とするスポットライトは、ホールに漂う煙草の煙を浮き上がらせながらステージに向けられていた。それは、僕のつくるスポットライトと交錯し、動きの緩慢な演歌歌手のうしろに二つの濃い影を伸ばしていた。

「このホールって、すりばちを縦半分に割ったように見えない?」

ヘッドホンの向こうから、手持ちぶさたになったような大橋さんの声がした。

「これね、古代のギリシャやローマの劇場に似てると思わない?石造りの。傾斜はそれほどないけどね。だとすれば劇場って何をするとこだと思う?」

「・・・演劇・・・ですか?」

彼はヘッドホンの向こうで一息置いてから続けた。

「このホール全体が芝居なんだ。全部茶番なんだよ。ホステスは女優。真ちゃんたちだって脇役だけど俳優なんだ。客は素人なりに、俳優たちに手引きされてホールの中で演じ始める。ホステスたち女優がそのぎこちない手を取って、ステージ下で踊り出す。そして、僕はミラーボール回して星を降らせてアシストする。当時もさ、夜を徹して芝居が行われることもあったらしいんだよね。そのときは自然の星々とたいまつが照明だっただろう芝居がさ」

歌手からスポットがずれないよう注意しつつ、僕はテーブルのライト群にぼんやり視線を投げていた。

「突然、星降らすのやめちゃってさ、ぱっと電気つけたら面白いだろうな。目の前の女見てさ、俺、何でこんなの相手に飲んでたんだろうって、みんな覚めちゃうだろうな。どうせ張りぼての世界なんだから・・・それならいずれ消えてなくなるんだったら、いっそのこと今ぶち壊してやるか、そんな誘惑に襲われることがあるんだよ」

今僕の目に映っているのは、たよりない明かりたちが、静かに落ちていく姿だけだった。

「真ちゃんはエレベーターにいるから分かんないかもしれないけど、閉店時間になるとね、ぱっとホール全体に明かりをつけるんだ。そんなに明るいやつじゃないんだけど、効果はあるよ。どんなに酔ってた奴でも、はっと大人しくなって帰っていくよ。喫茶店なんかだったら、何度閉店ですって言おうがいつまでも腰をあげない客っているよね・・・やっぱり、だから照明は本当に大切なんだよ」

演歌歌手が深く客席に頭を垂れていた。

「真ちゃん!ほら、8の字よろしく!」

ショーのエンディグには、カラーフィルムの円盤をがらがら回しながら、同時にステージ全体8の字にライトの先端を転がすのが決まりになっていた。

「これって横向きの8の字だから、無限大ってことになんだよね。夢が無限に、いつまでも続くってように願いを込めてさ。いつか覚めるのが夢なのにさ。オーケーいい感じだよ。真ちゃん、随分と腕あがったよ。お疲れさま」

ぷつんと電源の切れる弱音がした。拍手が静まり、少しばかり明るくなったホールの一つのテーブルに、男たちに挟まれた水音さんの背中が見えた。僕はヘッドホンを外し、小窓の黒いカーテンを閉じた。


ハンドバッグを肩に掛けたまま、水音さんは電球の下にじっと立っていた。

西向きの窓を挟むように、無規則にヒビの入った壁が向き合うかたちで伸びている。その片側に、冴え渡った空の写真のカレンダーが一つ、ぽつんと掛けられている。

「何にもないでしょ」と僕は言う。

光の輪の浮かぶ頭に向かって、声を掛けた。

「ほんと」と水音さんの背中は答えた。

「狭くて古くてきたないとこでしょ」

「・・・ううん、不思議に落ち着くわ。夢のなかで見た『ビレッジ・バンガード』みたいにね」

彼女は振り返った。

「ほんとよ。それに、隣の部屋の人の、寝息が聞こえてくるくらいの薄い壁といい、申し分ないじゃない」

舌を出した彼女は、足を前に伸ばし、壁に背をつけて座った。

僕は窓のそばに置いてあったCDラジカセのスイッチを入れ、4曲目を選んでスタートボタンを押した。部屋の中央にちゃぶ台を用意しながら、僕は彼女の様子を伺った。

「買ったんだね」

水音さんはそうつぶやいて、僕に手招きをした。顔を近付けると、にゅっと伸びてきた手が、僕の鼻をつまんでいた。

曲は、水音さんがライブハウスでリクエストした『マイ・ロマンス』だった。ビル・エバンスの指先が奏でるピアノの旋律が、部屋の空気を穏やかに波立たせていた

「水割りでいい?」と僕は立ち上がりながら聞いた。

「サービスいいのね」

「条件反射。クラブのボーイやってるもので。煙草もどうぞ。灰皿そこに買ってあるので」

僕は玄関横の流し台の食器入れからタンブラーを取り出し、冷蔵庫から氷を出して入れる。

水音さんはちゃぶ台の上に両肘を乗せて頬杖をつき、ビートに合わせて首をゆらゆら揺すっていた。

バーボンの水割りをトンと置くのと同時に、彼女が僕の右手の甲の上からグラスごと両手で包み込んだ。

「華奢な手・・・きれいな指ね」

彼女はグラスから僕の手をはがし、撫でていた。

「ピアニストになろうと思ってた。ビル・エバンスみたいに」

「へえ、そうなんだ」

水音さんは笑って、再び僕の鼻を指でつまんだ。

水音さんとのやりとりは、僕にはすべてが下手な芝居だった。だけど、それでよかった。海老茶色の鉄階段を上がった2階にある、古いモルタルアパートの一室を舞台とした、水音さんと僕の二人だけの芝居・・・そこで、僕はただ最後まで演じる。もしかすると、僕にとって、パートナーは水音さんでなくても良かった。僕は、僕自身という観衆を相手に、与えられたシチュエイションのなかで、僕を演じ切る。


打ち上げのために閉店時間を早めたにも係わらず、子持ちのホステスなど帰ってしまった者もいて、結局、銀皿の料理を配した最前列のテーブル群に居残ったホステスは20人足らずだった。

僕はその一つのソファの端に腰掛け、傍らの肉づきのいい腕をしたホステスに、水割りをつくっていた。他のテーブルに視線を走らせてみると、恵比須顔、素知らぬ顔、したり顔、浮かぬ顔、思案顔・・・女たちのとりどりの表情が並び、時折、一様に化粧と香水に気圧された風のボーイたちの面持ちが混じっている。

中央のテーブルには、珍しく表情の柔らかい店長がいる。隣の水音さんと言葉を交わしているようだ。

出来た水割りを隣のコースターの上に置いたのと、横にやってきていた木村が、僕の肩を軽く叩いたのは同時だった。

「マネージャーが、俺たちにステージに上がって来いってさ。何やらされんだろう」

僕は立ち上がろうとしてよろめいた。隣のホステスがお返しとばかりつぐグラスのビールを何度も空けているうち、足にきていたようだった。

ひどく遠くに見える靴先が交互に動き、ステージ裾の階段を上がりきると、前を行っていた木村が歩を止めた。彼の肩の向こうでは、マネージャーが後ろ手を組んで立っていた。

マネージャーは、手に持っていたものを僕たちの目の前に差し出した。

「ほら、ホステスさんから借りてきたドレスと襟巻きだ。これ借りるの苦労したんだぞ。パンツは自前のものでいいだろ」

僕たちは目を見合わせた。

マネージャーは意に介さず続けた。

「お前たち、ヌードショーの照明でいつも勉強してんだろ。勉強の成果を見せてくれ」

木村がこれまで発したことのないような声をあげた。

マネージャーは僕たちの胸にそれぞれドレスを押しつけた。木村はピンク、僕は白のイブニングドレスだった

せっかくならきらきらのイヤリングとかネックレスとか銀のハイヒールも用意しろよな、チェックのトランクス姿になった木村はぶつぶつ毒づいていた。

背中のファスナーが締まらないことに、

「真也はいいよな。華奢で」

背中のファスナーを締めることをあきらめた木村は、羨ましそうな様子もなく言った。

《ミュージック、スタート!踊り子にはくれぐれもお手をお触れにならぬよう・・・》

マイクを通したマネージャーの声で、内股の擦れ合う妙な感覚と、素足に伝わってくる床の冷たさを引きずって、僕たちはステージの中央へ繰り出した。

むせかえるようなライトの帯に、矢庭に僕は包まれていた。フットライト、フロントサイド、サスペンションライト・・・ステージ下に、暖炉に顔を寄せているような、陰影のついた笑顔たちが並んでいる。僕の頬も即座にじんじんと火照ってくる。

突然目を射る、一際眩しい閃光は、大橋さんの向けるスポットライトだ。ステージ下が急に見えなくなって、拍手と歓声だけが暗闇から押し寄せてくる。木村は光の方向に笑顔をまき散らせて踊っている。

木村が肩紐を外すのにタイミングを合わせ、僕は背中のファスナーをゆっくりとおろしていく。女たちの嬌声が遠く響いている。

僕はドレスを床に落とし、青白い痩身をさらす。再びステージ下に甦った笑顔たちが、拍手と笑い声を続けている。水飴のようにねっとりと絡みつくスポットライトは、カラーフィルターが濃いピンクに変わったことを示しているのだ。

僕はフットライトのそばに足を投げだして座り、脱いだブリーフを手首に巻く。襟巻きで前を隠しながら、僕は左右の足を上げてゆっくり交錯させる。女たちはみんな、顔の前で手を叩きながら、大きく口を開けて笑っている。中央にはあごひげに手をあてて笑う店長。その隣には、水音さん・・・

彼女は笑顔たちの一つに過ぎない。通り過ぎる光景の一つ・・・

客席に足を向け、腹這いになる。身体を反転させて、ブリッジをする。何度も繰り返してステージを転がり回る。僕の裸身を被っているのは、恐らく陶酔感というものだ。

突如、どよめきと歓声があがった。さざなみ立った多くの視線の先を追うと、ステージの上手にビキニの女が立っていた。ショータイムで出演していた胸の大きな踊り子だった。

音楽に腰をゆらせ、肉をまき散らしつつステージを泳いでくる・・・踊り子は僕の前に立ちふさがり、ブラをはずす。

張り手のような音とともに、衝撃が頬に走った。

僕は女の胸に顔を挟まれて、何度もビンタを食らっていた。

次に踊り子に鉾先を向けられた木村は、襟巻きで前を隠しつつ、ステージの上を逃げ回っている。ステージ下の笑顔たちが転がっていた。


「さっきあなたが着てたドレス、私のだったのよ」

ソファの隣の太った女が、鼻にかかった声で言った。

彼女の空になっていたグラスを引き寄せて水割りをつくろうとしたとき、ステージ上のマネージャーが、マイクを持って厳粛に喋り始めた。

成績優秀者の発表らしかった。

僕はグラスをかき混ぜ、女の前のコースターに置いた。

「それにしても男の人が私のドレスにあんなにスポッと入っちゃうと思うと悔しいわ・・・あんたビールがいいのよね」

女がビールを注ぐグラスに、ビールが特別に好きだというわけでもない僕は手をそえる。

《3位・・・玲子さん。残念ながら彼女は今日不参加です》

ボーイを中心とした拍手がばらばらと起こる。

「あの子はつきあい悪いから、こういうのいつも欠席なのよね・・・それにしても、あんたなかなか似合ってたわ。そっちの気あんじゃないの?」

笑みを返す僕の耳に、マネージャーの声が鮮明に飛び込んできた。

《2位・・・水音さん》

僕は大きな拍手の方向に目をやった。派手に手を叩く店長に急きたてられて、彼の隣にいたレモン色のドレスが立ち上がった。

レースのロング手袋、パールのネックレスとイヤリング。彼女はエレガントにステージに向かい、階段を上っていく。

「あんなの、何人の客と寝たかってことじゃないのよ。ねえ」

傍らの女が顔をしかめて言う。

プレゼンターの店長がステージに上がっていく。

水音さんと、1位のひとみさんにボーナスが手渡されている。

《踊ってお開きにしよう!大橋さん、よろしく!》

マネージャーの掛け声で『イン・ザ・ムード』のイントロがホール中に響き渡った。店長は水音さん、マネージャーはひとみさんの手を取った。

4ビートに合わせ、ボーナスの封筒を胸に挿した水音さんの笑顔と長い髪が、ステージを舞い始める。

ジルバだった。身体を回転させるごとに翻るドレスの裾から、白く伸びた足とふとももがあらわになって、どこからか冷やかしの口笛が起こった。

他のテーブルについていたホステスが、ボーイたちの腕を掴んで、ばらばらと立ち上がった。彼らに引きずられて、3組、4組とカップルがステージのたもとに集まり始めた。

「私たちも踊ろう」

僕の腕に逞しい腕が回されていた。

それは衝動的なものだった。僕は手を横に振り立ち上がると、ホールの後ろに覗く小窓を目指して、しゃにむに傾斜をかけ上がった。梯子を上り小部屋の中で身体を屈めながら木箱に腰掛け、カーテンを開けた。急な運動に、ジャズのリズム以上に、心臓の音が高鳴っていた。

ステージ下では、女たちがぎこちないボーイらの手を取ってリードしている。木村の姿も混じっている。意外に上手だ。何でも彼はそつなくこなす。いつもの気難しい表情をくずし、主任も無器用に踊っている。人込みのなか、ドレスに施されたスパンコールやビーズがいたるところできらめいている。

それに比べ、ステージ上の二組の動きは洗練されている。店長のリードに身を任せた水音さんが、軽快なステップでステージを滑っている。岩肌を滑って滝つぼに落ちるように彼らに降り注いだ光の帯は、ステージの床で飛沫し、あたりを舞っていた星屑とおり重なり、絡み合い、壁や天井にその身体を描いている。

僕はヘッドホンを頭につけて照明器に手をかけた。

「大橋さん、聞こえますか?」

しばらくして返答があった。

「忙しいよう。バンドさんいないから大変だよう・・・ちょっと待っててよ」

ホールはぐっと暗くなる。

「さあ、好きなようにスポットライト照らそうか」

僕はカラーフィルターの円盤をぐるぐる回しながら、8の字にスポットを回転させる。水音さんのドレスの裾は、白い足にまとわりつくと思えば、逃げるように大きく踊っている。2人の上体はリズムに乗って、絶えず一定の間隔で上下動する。店長の胸を離れた水音さんは、つないだ手が伸びきった反動を使い、彼の左腕の下で身体を回転させて、再び店長の胸に戻ってくる。いつしか店長の姿はぼやけて細身の影絵になり、ステージの隅々まで、彼女の艶やかな姿が躍動していた。


新しく学生アルバイトが入ってきて、僕はホール係になった。

「3人来店したとするとだな、お絞りを3つ保温器から取る・・・3本のビールをここから抜いて、ダスターで水滴を拭く。続けてこの積み上げられている銀盆の上から6個のビールグラス、これはホステスさんが同数つくと考えて。それにカウンターの突出しのナッツ」

木村は厨房のあちこちを右手で指差していた。無意識なのか、彼は顔の横にまで持ち上げた左手のトレンチを立てた数本の指でくるくると回していた。

彼は僕の視線に突然気付いたようだった。

「こうやって中指と薬指を中に折って、残りの3本の指でトレンチ持つんだ。でも、どうだっていいことさ、慣れなきゃ手の平で持てばいいんだ」

彼は照れ笑いをしてそう言った。

ここに客の待つテーブルがあるとする、と木村は急に改まる。

お絞りの端を人差指と中指の間に挟み、丸まっていたお絞りを客の目の前でロールスクリーンをおろすように広げる。華麗に、さっとやる。客の一人一人にそうして手渡していく・・・

木村はパントマイム風に片ひざをつく。

ポケットから詮抜きを取り出す。トレンチ上のビールの口に添える。ビール瓶ごと、立てた膝の上に移し、下から押し上げるようにして栓を抜く。ビール瓶を一旦トレンチに戻し、詮抜きと抜いた栓を上着の右ポケットに入れてから立ち上がり、客の一人一人にお酌していく。左手はずっとトレンチでふさがっているので、全部を右手でこなさなければならない・・・

「やってみな」

木村はじゃらじゃら音を鳴らせ、ポケットから栓を取り出した。空のビール瓶の口に合わせてポンと叩き、僕に差し出した。

片ひざをついて練習を繰り返していると、厨房の入口から主任が顔を覗かせていた。

「お二人さんご来店だぞ。セットよろしく!」

急いた声で怒鳴った彼は、木村の明瞭な返事にうなずくと、顔をひっこめた。

「丁度二人くらいなら練習になるな」

木村は保温器から2本のお絞りを抜いて、僕のトレンチの上に置き、僕の肩を軽く叩く。


バンドが軽快なジャズを奏し始めたのを合図に、席に残っていた男女はステージの前に繰り出し、ジルバのステップを踏み始めた。

そのなかに水音さんの姿はなかった。彼女はステージ下の二人掛けのソファから、ぽつんとあらわになった肩を突き出していた。

曲は『パーディド』だった。水音さんの肩越しに、色とりどりの雨傘を広げたように、女たちがドレスの裾を瞬かせている。

客はトイレにでも立ったのだろうか、と思ったその刹那、水音さんのテーブルがピンクに染まっていた。

振り向いた彼女が僕に手招きをしていた。誘うピンクの明かりに向かって歩き、僕はテーブル横に片膝をついた。

「料理はもう終わっちゃったのよね?」

「はい」

「じゃあいいわ」

立ち上がりかけた僕の手に、彼女は小さな紙片を握らせた。通路ですれ違った男が、彼女の肩に腕を回していた。

一転、ムーディーな曲が流れ始めた。エリントンナンバーの『ソリテュード』だった。視野は闇に被われ、そのなかを螢のような無数の明かりが踊っていた。

最後まで席に腰を落ち着けていた男女が、舞台のたもとまで降りていく衣擦れの音が続いた。しばらくすると暗闇の中心は抱き合う者たちの気配で満ちていた。

僕の腕を強く掴んだのは木村だった。チークタイムの間に、ステージからエレベーターに通じる通路の両脇に、ウェイターは控えなければならないのだった。

演奏が終わり、世界は覚醒したように突如明るくなった。スピーカーからは、『螢の光』が倦怠感を含んだ空気を伴って流れ始めた。

ありがとうございました、と何度も頭を下げる僕たちの間を、客に肩を抱かれ、自らも腕を客の腰に回したホステスたちが通り過ぎていく。

ちょうど頭を上げたとき、水音さんの姿が目に飛び込んできた。傾いた彼女の頭の髪が、男の首にさらさらとねだるように流れていた。


寒空の下、紙片に書かれていた通りにそば屋の前で待っていると、皮のハーフコートを羽織った水音さんが現れた。

「ホール係に上がったお祝いをしましょ」と彼女は白い息をはいて言った。

いつになくピアノトリオの演奏を楽しんだあと、水音さんはいつものように僕のアパートにやって来た。

部屋に入るなり、水音さんの息を飲み込む様子が伝わってきた。壁一面をジャズメンのポスターにしておいたのだ。それらは僕が今まで密かに買いだめていたものだった。マイルス、キャノンボールアダレイ、ロリンズ・・・そしてビル・エバンス・・・ポーズは異なるものの、ライブハウスの壁に飾ってあったメンバーのものと同じ。すべてモノクロだけど彩った部屋・・・

「賑やかになったわね」

彼女の背中は、一言喋って静かになった。

彼女は振り向いた。ぎこちないえくぼを口元に浮かべていた。

今繰り広げられている芝居には必要と思える言葉が突然、頭に浮かんだ。

「水音さん、どこに住んでいるの?」

僕は電気ストーブのスイッチを入れながら聞いた。もし詰問するような口調になっていたとすると、僕の意図を少しばかり上回ったものだった。

「いいじゃない、知らなくても。私がこうして来るから」

「どうして僕のところに来るの?」

「さあ・・・どこか仲間だと思うのかしら」

彼女は怪訝そうに目をしばたたかせた。

ちゃぶ台の上に、彼女はハンドバックから角の丸まった名刺を取り出しうやうやしく置いた。

「指名してね。そしたら私はどこにいてもすぐに来るからね」

「どうして昔のことも何も喋らないの?」

質問を繰り返すことには、切り立った波が突然崩れ落ちるような解放感があった。

「このクラブでずっと働いている・・・それだけ。どうして、どうしてってあまり聞くものじゃないの。私がここにいればそれでいいじゃいないの。私だってあなたのこと、何も聞かないでいるでしょ」

「じゃあ、僕が自分のこと言ったなら?」

僕の唇を水音さんの人差し指が押さえていた。

すべては、僕が口にすべき台詞、すべき表情、すべき仕草だったんだと思えた。

「まあ、真面目な顔しちゃって。かわいいんだから」

彼女は手に持っていた水割りに口をつけ、僕の頭を抱え込んでキスをした。柔らかい唇の感触と冷たい液体が絡み合って流れ込んできた。僕の唇から漏れた一部が、頬をつたい耳許を流れて畳の上に落ちていった。僕は身体を入れ替えて彼女の上になり、彼女の頬に手を置いた

「どうしたの?」

僕が彼女の頬に当てた右手を彼女の手が被っていた。彼女は僕の手を自分の唇に導いて、キスをした。

「華奢な指・・・ねえ、打ち上げでやったストリップもう一度見せてよ」

僕はまんじりともせず、彼女を見つめ続けた。

彼女は気まずそうに笑顔を緩めた。

「ねえ、どうしたの」

僕はそれでも何も言わず、頬の筋肉の一つも動かさず彼女を見つめた。

「ねえ、私を幾つだと思ってる?」

「・・・」

「言ってみて」

「・・・28」

「ありがと」

「29」

「ありがと」

水音さんが僕の下で身じろいだ。長い髪の先がさらさらと畳を這う音がした。

彼女がハンドバックから取り出したものは、口紅だった。

彼女は満面に笑顔をつくり、口紅のキャップを外した

「じっとしてて」

彼女は口紅を僕の唇にあてた。彼女は息を潜め、視線を僕の口元に注いでいた。しっとりとした感触が過ぎていった。

「きれい」

彼女は大きく息を吐いた。

「すべすべした肌・・・」

彼女は手の甲で僕の頬を撫でた。

僕は彼女に口づけをしようとした。彼女は笑いながらいやいやをした。僕は逃げる唇を追い、そして射止めた。息ができないくらいに、彼女が僕の頭を強く抱え込んだ。

「女の人としてるみたい」

顔を離した彼女は、頬を上気させて言った。


酒庫のカーテンを引くと、そこには、右手にボトル、左手にキャップを持った木村が、目を丸くして立っていた。

「何だよ、驚かすなよ」

彼は怒ったように言った。

「社長のキープボトル出せって主任に言われた」と僕は答えた。

「危ねえ。主任だったらマネージャーにちくられるとこだったぜ。とにかくカーテン閉めてくれ」

木村の勧めるまま、僕は丸椅子に腰掛けた。立ったままの彼は、黙ってキャップにレミーマルタンを注ぎ、僕に差し出した。

「疲れたな、と思ったらいやな客のボトルを少しばかりいただくんだ。あっ、一息にな」

僕が空けたキャップを、彼はもう一度満たして一気にあおり、慣れた手つきでボトルの口を締めて棚に戻した

「ところで、新人りはどうだ?」

彼は振り向きざま切り出した。

「新入りエレベーターの前でよくだべってるだろ。気をつけてくれ。マネージャーが客に文句言われたってぼやいてたぜ。そのあと、主任からもお前ちゃんと言っとけって言われたよ。マネージャーに言われたんだろうな・・・自分で言えよな」

休憩してくるように僕が勧めても、口を開けたエレベーターの前に居残った新人りは、煙草をふかしながら僕の返事を期待する風でもなく、一人で楽しげに喋っているのだった。

「あいつ学生だろ。マネージャーが言うには学生気分が抜けてねえってさ。でもそんなの当然だよな。実際、学生なんだから」

閉店間際の喫茶店で可愛いいウェトレスを見かけたとき、必ずくどける方法ってものがあるんですよ・・・僕は新人りの戯けた口調を思い浮かべた。

「とりあえず、お前からも言っといてくれよ。人手不足で学生アルバイト使わないわけにはいかないんだから、ってマネージャーに恨めしそうに言われちゃったよ」

木村の判然としない言葉の意味を考えるうち、木村は続けて喋り始めた。

「俺、田舎に帰ろうかと思うんだ・・・親父が病気でさ」

彼の実家は小さな旅館をやっていると聞いたことがあった。

「それからさ、実は女を連れて帰るんだ」

「・・・店の子?」

彼はうなずいた。マリという小柄な子だった。

田舎へ帰る前に一度飲もう、彼はカーテンを開けながらそう言った。

僕は立ち上がり、棚から社長のボトルを取り出した。


細長いカウンターの奥に、僕と同世代くらいの男女のグループが陣取っている。マイクを手にした女の隣で、手首に金のブレスレットの覗く男がマラカスを振り、彼らにカウンターの中のママさんが手拍子を送っている。

「何も知らなかったよ」

大橋さんが、ねえ、と木村越しに僕に同意を求めてきた。僕は口元をゆるめてうなずいた。

「だって、言えないですよ」

「分かるだろ」と今度は木村が僕に同意を求めてきた。

分かるだろ・・・

僕が木村に視線を戻そうとしたとき、再び大橋さんの声がした。

「マネージャーに怒られなかった?」

「俺も怒られると思ってたら、不思議と何も言われなかったんすよ。お前、売れっ子引き抜いていかれたら、こっちはあとの補充が大変なんだぞってね。あの人、ああ見えて意外といい人なのかもしれない」

「マネージャーの奥さんも、元はここのホステスだったらしいしね」

大橋さんの言葉は初耳だった。木村も同じだったらしく、僕たちは彼を見た。

「あの人も、ボクサーあきらめて、一時は相当荒れてたらしいよ。そんとき色々と助けてもらったんだろうね・・・マリちゃんか。ボーイごときについてきてくれるんだ。よかったじゃない」

大橋さんはカウンターのグラスに視線を落とし、ひとりごちた。

遊びのつもりだったんですよ・・・木村ははにかんで煙草を指に挟んだままグラスを傾けた。その横顔からきれいなまつげが伸びていた。グラスの壁にあたった氷がからからと音をたてた。

「君らのストリップは中途半端だったねえ。踊りが終わったら、ポラロイド持って1枚いくらかで局部写させるとかだね、何かやりようがあったんじゃないの。だいたい、絡みくらいないと、二人でステージに出てきた意味ないよ・・・せっかく僕がいい明かりあててたのにさ」

不満げに思えない表情を向けた大橋さんに、木村が言葉を返す。

「そういえば、ステージの下から、シックスナインやれって誰かホステスさんが叫んでるの聞こえましたよ」

聞こえなかったか?と尋ねる木村に、僕は笑みをつくって首を横に振る。

棚に並べられたウイスキーボトルを背景に、ステージ下の光景が甦って見えた。つややかな笑顔たち、中央には手を叩く店長、その隣にいたひとの熱い視線・・・

「いや、形だけでもって俺も誘惑に駆られたんすよ。真也もステージの前まで出てって滅法盛り上がってるし。でもね、その瞬間、目の前に真也の一物が、こうにゅっと降りてきて、俺の鼻の頭に乗ったんですよ。それが何とも言えず生暖かく」

大橋さんが吹き出すのに、言った木村もつられて笑う。「楽しそうね」とママさんが僕たちのグラスを手元に引いて、ボトルのキャップを開けた。

木村と強い握手を交して別れた。

方向が一緒だからと二人で乗り込んだタクシーで、

「飲み足りないな」と大橋さんがつぶやいた。

「仕方がない。真ちゃんのアパートで飲むとするか」

 水音さんが前触れもなく僕のアパートを訪ねてくることを心配する必要はなかった。それだけは分かっていた。


背を向けて横になっている大橋さんに毛布を掛けて電気を消した。

今にも眠りに吸い込まれようとしていたとき、耳に大橋さんの声が忍び入ってきた。

「・・・はい?」

聞き間違いかどうか探るように、僕はほんの小さな声で尋ねた。

「木村のやつ、とうとう辞めちゃったね・・・マリちゃんと一緒にね・・・彼女、いい旅館のおかみになるだろうなあ・・・こんな商売やってたくらいなんだから」

大橋さんの物言いは少しばかり険を含んでいた。

「僕さ、昔、照明屋をやっててさ。いや、今でも照明屋だけど。芝居とかコンサートのやつ・・・聞いてる?」

「はい」

「それでね、全国いろんなとこ回るんだよ。病弱な女房こっちに置いてさ・・・ところが変なんだよ。しばらく家をあけて帰ると、女房がいつにもまして明るく迎えてくれるんだ。家の中でも、外に買い物に行っても、ずっとはしゃぎっぱなしなんだ。最初僕も首をかしげてたんだけど、次第にそのペースに引き込まれていってさ・・・次に仕事から帰ってきたとき、その面影を頭に描きながら僕はドアを開けたよ。女房は玄関に出てきさえしなかった。面と向かっても黙りこくったままでさ・・・家にいても、あんたばっかり好きなことして、とか言いだしたと思えば、急にふさぎ込んでさ。何が何だか分かんなくて、とにかく仕事先からこまめに電話を入れることぐらいしか、僕には思いつかなかった」

これまで大橋さんは独身と聞いていた・・・

「そして、僕はクラブの照明と音響の係になった。女房のそばにいようと思って。大学も途中でやめた半端な僕が、唯一、人並みにやっていけると思えたものだったけど、あのときは何の躊躇もなかったよ」

彼は長い溜め息をついて続けた。

「だけどもう遅かったんだ。女房は出てったよ・・・男ができてたんだ。とてもそんな女には思えなかったからずっと分からなかった・・・子供でもいれば、あいつもああはならなかったのかも、ってよく思うよ。身体が弱いから、医者に子供をつくるのは考えたほうがいいって言われてたんだ。女房は僕に言ったよ。欲しいのならつくりましょって。私は大丈夫よって。安心してって。何度も何度も僕に聞いたよ・・・僕はいらないって答えた何度も何度も答えたよ」

沈黙が身体にのしかかっていた。寝返りをもせず、僕は目を閉じたままじっと息を潜めていた。

「真ちゃん・・・」

妙にはっきりと大橋さんが身体を動かす音がして、それから生暖かい息が耳許に吹きかかってきた。

「真ちゃん」

僕は動かなかった。

「真ちゃん・・・寂しいんだよ」

彼は僕の胸のあたりをまさぐっていた。

僕の身体に擦り寄りながら、分かるだろ、寂しいんだよ、と彼は繰り返した。

僕の耳を彼の唇が這っていた。彼の手は知らない夜道を行くように、何度も思案しながら立ち止まり、また歩み出すということを繰り返し、次第に下方へとおりていった。

僕は・・・自分の身体が自由なことに気付いていた。

だけど、僕は何もしなかった。心はしんと静まりかえっていた。その底に泡立ちが生まれ、吹き上がってくるものがあった。

遠い遠い、母の記憶・・・母は顔がない影絵だった。母がそれ以上に蘇ることはない。長い時間をかけ、一つ一つ、母に纏う色彩を消すことに、やがて母の記憶そのものを制御することに僕は成功していた。だから、仮に蘇ったとしても、母の姿は母であり母でない。

仕方がないのだ。母は、影絵の母は僕を最後まで育てる資格が自分にはないと思ってしまった。だから誰も母を責めることはできない。たとえ僕が一人になってしまうと分かっていても。それより自責の念が大きかった。だから仕方がない。だから僕を捨てて影絵になった・・・

僕は目をつぶっていながら、しみだらけの古い赤銅色の天井板から下がった裸電球を見ることができた。手足を動かすことも、目を開けることも、拒むことも、肯定することも、僕は何もしなかった・・・

息の気配が急に遠のいた。僕がゆっくり目を開けると月明かりに、上半身を起こしている姿が浮かび上がっていた。

逆光になって表情が見えないその影から、声がした。

「冗談だよ、馬鹿野郎」

そう、冗談だ。影は母なのだ。生きている価値はない、自分が生きていれば息子のためにならない、その結論に達するまでの十分な時間を、母は自身に与える時間がなかった。母は自死することで僕を捨てて深海に落ち、完全な影絵になったのだ。

「そんな目で僕を見るなよ。そんな寂しそうに僕を見るなよ」

それは聞いたこともないとても遠い声だった。だがすべては芝居なのだ。そして僕は、一人になることには慣れている。

「馬鹿野郎」

また遠い声がして、その影は立ち上がり、ふらりと部屋を出ていった。影はいなくなった。

パタンとドアが音をたて、再び深い静寂が訪れた。僕はそっとまぶたを閉じた。

すると、視界におさまりきらないくらい一面にちりばめられた星々で、僕は抱かれていた。僕の身体は彼らのつくる海原を漂い、さらに彼らはさわさわと音をたてて降り注いでいた。

ふいに目尻から頬をつたって落ちていくものがあった。止まらなかった。次から次へと、こぼれ落ちているのだった。

温かい。夢の中にしては温かい。芝居の中にしてはとめどない・・・分からない。止まらない。僕のどこに、こんなに暖かいものがあったのだ・・・鼻の奥からも、それはせり上がってきた。閉じたまぶたと鼻孔から、とめどなくこぼれ続ける。それは、僕の目の前に長い間おりたままになっていたシールドのくすみを、洗い流していくようだった。


痺れを切らした板前の呼び鈴に気付いて、僕はごったがえすホールから厨房に飛び込んだ。

カウンターでは、僕より一足速かったボーイが、料理の皿と、それに対応するレシートをトレンチに並べていた。

続いて、慌ただしい足音をたてて入ってきたのは、主任だった。料理が冷めるぞ、と開口一番怒鳴った彼は、しばらくあたりを見渡していたかと思うと大声をあげた

「ミネラルとお絞り切れそうじゃんかよ」

主任はミネラルの空瓶の入ったケースを3つ床に並べ、水をごぼごぼ吐いているホースの口を引っ張ってきた。僕は主任の指示に従って、隣でポリバケツに放り込まれている使用済みのお絞りを、水洗いし始めた。

水道水の臭みが消えるだけの時間的な余裕を今求めることはできないが、どうせ酔った客に違いは分からないのかもしれない、と僕は主任の作業を盗み見しながら思った。

「何やってんだ。お絞りならまだ少し保温器のなかにあるじゃないか」

非難めいた声に振り向くと、今度はマネージャーだった。

「ホールに戻れ!客とホステスさんがさっきから席についてるのに、まだセットも出てないぞ。9番テーブルにお一人さんのセットだ」

背を向けて瓶の口にホースをあてていた主任の動作がピタッと止まり、また何事もなかったように動き始めた

僕は指示されたテーブルに向かいながら、打ち上げで踊っていた主任の姿を思い浮かべた・・・彼は少しばかり踊り方が無器用なだけだ・・・

そのテーブルについていたのは、水音さんだった。彼女の奥の男は、グレイのジャンパーを羽織ったままソファから身を乗り出すようにしてテーブルに肘をつき、視線をステージの方に投げ、煙草を吸っていた。僕が水音さん越しに渡そうとしたお絞りを、彼はちらりと見て空いていた手で受け取り、また視線を外して動かなくなった。お絞りを受け取るためだけに必要な動きだった。

僕は片ひざをつき、ビールの栓を抜いた。

「ありがと」

水音さんの静かな声がした。

うつむき加減の表情をしだれた髪が遮り、その向こうに彼女の小さな鼻の先端が見えた。

そのとき驚きの声が彼女から漏れた。

僕はビール瓶をテーブルに置こうとして、手を滑らせていたのだ。

ごぼごぼと泡を噴き出している瓶を、彼女はすばやく立て直した。僕はダスターで拭き取りながら、何度も謝った。

彼女は一度も僕に視線を向けなかった。男もステージを見つめたままだった。男の横顔に、白髪混じりの頭とアンバランスな、どこか幼いものが漂っていた。


部屋で水音さんを待つうち、グラスの中で氷と戯れている液体を、僕は何度も喉の奥に流し込んでいた。

客人のいなくなったテーブルを片付けているボーイの姿が、忽然と脳裏に浮き上がってきた。ついさっきまでそのテーブルで見られたホステスと客の親密さは、ボーイがいつも目にしていた、ありふれた光景のはずだった。喧噪を極めるホールの中で、そのテーブルだけが違う空間を醸し出していたように思えたとしたなら、それは、ボーイが彼女の目の前で犯した小さな失態が、彼の記憶の度合いを悪戯に高めているだけなのだ・・・

鉄階段を気遣うように上ってくる靴音に続いて、控え目にドアを叩く音がしたとき、僕は仰向けになって裸電球を見つめていた。しみだらけの天井を背景に、それはゆらりゆらりと左右に揺れていた。

「ごめんね。ライブハウスに行く約束だめにしちゃって」

靴を脱いだ水音さんは、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。

「飲んでたの?急用が入っちゃったから。ほんとにごめん」

水音さんは僕の隣に足を崩してぺたりと座り込み、グラスに残っていた水割りに口をつけた。

僕は横になったまま、彼女のジーンズのひざこぞうを見つめた。

ビールこぼしちゃったね・・・ひざこぞうが笑って揺れた。

今日は何の用事だったの?・・・

ひざこぞうは黙して揺れ続けた。

僕は細かい畳の目を泳いでいた。ジーンズのひざこぞうを越えた。片頬を下にしてふとももの上に頭を置いた僕の髪の毛を、ゆっくりと彼女の手がまさぐりっていた

「明日こそライブハウス行こうね」

僕の耳に彼女の声が沁み入ってきた。セーターを通して、畳の甘美な冷たさが伝わってきた。どこからか、ビル・エバンスの醸し出す繊細でスインギーな旋律が流れ込んできて、僕の心臓の音とリズムを合わせ、部屋中を踊り始めた。


まもなくステージが始まる。半円形のステージの上でラメのドレスの太った女が、物憂げにシャンソンを歌い始めるはずだ・・・

僕は小窓のカーテンを開けてホールの中を覗いていた。若いホステスとのことで、昨日、マネージャーと一悶着あったという学生は、開店時間になっても現れず、僕がエレベーターと照明の代役を務めているのだった。

眼下では、いくつものテーブルのライトが浮かぶ間を縫って、ボーイたちが立ち働いていた。グラスの合わさる音と煙草の煙が、たよりなく漂い、粉雪のような小さな明かりが、優しく降り注いでいた。

「それにしても、水音さんて何も言わないでいなくなったよな。売れっ子だったのに、何でだろうなあ」

ロッカー室で主任が口にした言葉が、意味のない文字の羅列となって、僕の脳裏を流れて消えた。

あの日、目を覚ますと、傍らにいたはずの女はいなかった。僕は、壁じゅうがモノクロのポスターで埋まった部屋にいて、階段を気遣うように上がってくる足音のたびに、耳をそばだてている日を重ねた。だけど、足音とともに始まる胸のうずきは、次第に微細なものへと変化していった。その過程を、僕は静かな安心感をもって迎え入れた。今、僕に残っているものは、心の動きを伴わない、足音に対する敏感な反応だけ。

今僕の回りはとても静かだ。風もなくて、とても暗くて。目に映るのは、ホールの中で白い塵が安心して落ちていく姿。そのとき、視界の中心のずっと奥で、塵の一つがピンク色に変わる。柔らかくて、おぼろげな明かり・・・

そうするうちに、明かりは、ひっそりと息づきながら空中を浮遊し、一つ、二つと広がり始め、やがて目前のすべての明かりは、ピンク色に染まってゆく・・・

狂おしいほどのピンクの粒が、さんざめく・・・

胸の動悸が激しくなり、頬がじんじん火照っている。遠くから聞こえてくるのはジャズ。シンバルを撫でるブラシの音が、僕の鼓動と一つになる。

僕はゆっくりと手を差し出す。

だけど、僕がどこまで手を伸ばそうとも、どうしてだろう、細い指の間から、ピンクの星屑はこぼれ落ちてゆく。

                                       了


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