間章 ③
……一方の壁に三つの大きなよく磨かれた鏡が横に並べて立て掛けられた、青銅の盾のアマランス専用練習室。
「フウ――」
その床に座りこんだゼノビアは思いきり両脚をまっすぐピンと180度近く開き、さらに上体を床面スレスレまで前に倒した姿勢となると、気を整えるように肺腑中の息をたっぷり吐き出した。
そうして意識は次第に澄み渡り、身体中に備わる感覚もますます研ぎ澄まされていくように感じられ。
――それはすなわちレッスン前に必ずやるルーティン、計算し尽くされたストレッチの中の一つだ。むろん毎回、決して欠かしたことなどない。つまりはこの身体の類まれなる柔軟性、しなやかさこそがステージ上で自らの演技を輝かせる最大最高の武器、紛れもない神髄そのものに他ならず。
「ねえ、ゼノビア」
……そしてそれゆえだろう、彼女がその事前準備に限りなく精神集中していることをよく知る相手は、しばしの後ゼノビアが上体起こしてから、ようやくにして背後より声を掛けてきたのだった。
「――え?」
「聞いた、あのこと?」
しかもその声音に、隠しようもないほどの好奇心、というやつをたっぷりと包みこませて。
「あのこと……?」
だがむろん声の主振り返りつつも、銀髪のエルフはオウム返しにそう応じざるをえない。つまりはそんなこと言われたところで、今の彼女にとってパッと思い当たることなど一つもあるわけがなく――。
「ソフィア、何のこと?」
それゆえ次にははっきりと質問の一言、口にしていたのであるが。
「あら、もう。やっぱり知らなかった」
はたして当然ながらその言葉は、黄金の髪美しい相手をして大いに呆れさせたのである。
「精霊祭が近いからか、最近はずっとこうなんだから」
――ゼノビア同様黒の身体にピッタリしたレッスン着身に着けた、長身で灰瞳の妙なるエルフ少女を。
「ほら、昨日の夜よ。白羊亭で歌踊団がデビュー公演したじゃない」
「――あ、そうか。グラスランナーが新しく作った」
「そうそう、それ。確か『プロキオン』ていう名前の」
もっともそうした現象はこの歌姫には割合よくあることらしく、ソフィアという名のエルフは大して気にした風もなくすぐさま先を続けていく。要は自分の方が余程そのこと話したかったのだろう、かくてその言葉が止まることはなかったのだった。
「何だか、大失敗だったそうよ」
何より、その口元に分かりやすくも意地悪げな笑み、零したのを見れば。
「大、失敗――?」
「ええ。とにかくミスはするは、メンバーの一人が客と喧嘩するわ、で」
「! メンバーが、喧嘩……まさかそれって」
しかも対するゼノビアが知らず驚きの表情示すと、途端ソフィアは我が意を得たりと対照的に面明るくさせ、
「ふふ、そう、そのまさか。あなたの幼馴染みのユリアーデがやらかしたのよ」
続けてそんなことまで愉快げにのたまってきたのだから。
「ユリアーデが、お客さんと……」
「そう。まあ相手も相当な酔っぱらいだったっていうけど」
「……そう、か」
(もう、あの子ったら――)
むろんゼノビアにとってその名は余りに気を引くに充分なもの、それゆえ珍しくも彼女がストレッチを途中で止め話に集中し出したのは、ある意味当然のことだった。
「相変わらずね」
加えて突き放した、また同時にどこか心配そうでもある一言、のたまいながら。
「ふふ、どうした? やっぱりあの幼馴染みのことは気になる?」
「いえ、そんなことは」
――もっとも、勘の良いソフィアにそう鋭く突っこまれると、途端否定はしていたものの。
「でも、昔マルティナ先生の所でだっけ? そこであの人がネフェルタリにばかり目を掛けていたものだから、それでユリアーデが怒って大喧嘩に」
だが相手はまるで構わず口を開き続け。
「ソフィア」
「そしてそれ以来、あの子がちゃんとした教室に通うのは――」
「やめて!」
そしてそのためだろう。ソフィアがさらに愉快げに話を先へ進めようとすると、たまらずゼノビアは声を大きくして、それを強く遮っていたのだった。
「……今はその話は、しないで。レッスンに集中したいの」
……そう、そうして最後に、まるで懇願するようにその声音、小さくして。
(ユリアーデ……)
むろん刹那脳裡には密かに、金髪青眼の件の美しいエルフの姿、はっきり思い浮かべていたとはいえ。
どこか斜に構えた、だが音は間違いなく優しい、あの少女を。




