2.災いの夜(2)
「ん?」
……と、だがそうしてそのまま闇へ同化するように10分ほど道端歩き一人虚しい物思いに沈みこんでいた、その時だった。
「あれは、……犬?」
それは道路側、丁度道の真ん中辺り。俺から見て、前方6、7メートル程の位置。
はたしてそこ、両サイドから淡い街灯に照らされた地点に、紛れもない一匹の白い犬がいることに気づいたのだ。しかも腰を下ろしたまま妙に静かに、こちらの方じっと見つめている。まるで俺に対して、少なからず興味があるかのように。
「あれ。首環がない」
とはいえその首には何もはめられておらず、加えて近くには人の姿がまるで見当たらない。ということは、どこか近くの家から逃げ出したのだろうか。いずれにせよ、不思議と上品な感じ覚えさせる、毛足長い犬種不明の犬である。
そんな犬が一匹だけで、置物のようにそこに座っていて。
――どうすべきか、途端立ち止まり俺はしばし戸惑った。
言うまでもなくこのご時世野良犬などいるはずもない。つまりは現時点で明らかにこいつを探して困っている誰かがいるということになる。それは家族か、一人か、とにかく寒さ増してきた、11月の夜気の中。そしてもちろんこの犬自体も、今すぐ温かい我が家へ帰りたがっているのは当然だろう。いくら平然たる様子に見えるとはいえ。そう、帰るべき、安息の棲み処はこいつにも必ずある筈なのだから。
犬が大人しそうなこともあり、だとすればむろんここで救いの手差し伸べるのは、俺としても決してやぶさかでなかったものの――。
(でもどうすりゃいいんだ、こういう時?)
しかし当然ながら、次にはそんな疑問が自然と心の中零れてくる。
首環が付いていて、そこに何か住所でも書かれていれば話は早かったのだが、この犬完全無欠に無装備なのだ。つまり今のところ手がかりは見事なまでに何一つない。しかも間の悪いことに今は夜、道行く者は俺以外一人もおらず、誰かに責任押し付けるわけにも到底いかなかった。
はたして俄然、責任感と当惑の両方が遠慮なく、一挙に押し寄せてくる……。
(くそ、こういう時は……そうか、警察か!)
と、そこでパッと頭に閃いたのが、今までの人生で一度も掛けたことのない110番。もちろん現前するのは重大でも緊急でもない犬に関する案件、ひょっとしたら相手は迷惑がるかもしれないが、しかし今の俺にはそれしか良いアイディアが浮かばないのもけだし事実ではあった。
(えっと、携帯を)
必然的にスマホ取り出そうと、すぐさまジーンズの尻ポケットへ手が伸び、
(あれ、通報する時って、俺の名前と住所も言うんだっけ?)
さらにはふとそんな小学生並みに初歩的な疑問覚えつつも、俺はがっしとそれ掴み取っていた――
ブオオオオオン!
「!」
しかし、まさしくその文明の利器使おうとした、一刹那、
「え――」
――突如として、それは聞こえてきたのだった。
◇
ふいに前方、犬の遥か彼方から聞こえてきた、余りに不吉な轟音。
それはまた同時に、闇の中強く禍々しく輝く眼の如き二つの光も併せ持っていて。
「嘘だろ? 車がこっちへ直進してくる?」
当然ながら俺は驚愕の眼差しでそちら見やっている。
そう、それは本来あり得るはずもない、まさしく一方通行を逆走する方向からの音だったのだ。しかもその響きから分かる通り、どう考えても恐るべきスピード持った。見る見るその姿、暗がり切り裂きこちらへ近づけてくる。
すなわちまごうかたなき、正真正銘の交通違反車――。
そのあまりの突発的過ぎる事態にしばし唖然とする俺だったが。
「あ!」
瞬間、件の犬のことも思い出していた。何せ道のど真ん中に座っているのである。むろんそのままでは哀れ路上でひき肉と化すこと必然、ゆえに早いところ車の到来に気づいてくれれば良いと、俺はすかさずそちらへ視線移したのだが……。
「グウウウ……」
――しかし案に相違して、件の白犬は俺同様道の先立ち上がって見つめ、しかしなぜか身体震わせつつそこから一歩も動けなくなっていたのだった。
それはもはや、怯えて身体が硬直しているようにしか見えず。
「おい、何しているんだ、早く逃げろ!」
それゆえその様子に気づいた俺がとっさに声を大にして叫んだのは当たり前のことでしかない。むろん、そうすればさすがの白犬も道路脇に逃れる等何らかのアクション起こしてくれるだろうと期待したのだ。つまりはそれくらい、今まさに無法状態の車はブレーキの気配すらなく突っこんでくるところだったので。今や俺にもその真っ赤な車体はっきりと視認できるまでになった、馬鹿高そうな高級車は。乗っている奴が悪ふざけかただの酔っぱらいなのかは、もちろん知りようがなかったが。
「おい、どうした?!」
――だが。
「グウウ……」
相変わらず、根が生えたように路上から犬は動かない。いや、その様からするに、動けないという方が正確だろう。とにかくその視線は轟音立てて向かってくる車を、じっと見つめたまま。まさにビクビク、怯懦の唸り声も絶えず上げ続けながら。――襲いかかる高級車の迫力に、しかと囚われてしまったがごとく。
何より、身体の震えはいよいよ隠しようのない程大きなものとなっていて――。
「やばい、もう来るぞ!」
だが、そんなか弱き相手に対しさらに容赦なく猛スピードで押し迫ってくる、赤い車。
もはや至極当然というべきか、向こうは向こうでまるで止まろうとする意志見せもしない。ましてや道先の小さな犬のこと気に掛けているかなど、こちらからは全く確かめようもなかった。
そう、いずれにしても間違いなく、このままでは白犬が無残に轢き殺されるのはあまりに必然だったのだ。それも、後十数秒もしない内に、目の前で。
むろん実に惨い、一つの遺骸となって。
それでも一刹那で死に至れるのが、せめてもの救いか……。
(く……まずい)
するとそんな益体もないこと考えかけた瞬間、同時にある感情が閃光のごとく芽生えていた。疑いなく、俺みたいな人間には実に不釣り合いな。すなわちそれは、いわゆる憐憫にも似た情動。どうしても、この身を犠牲にしてでもこの犬を救わなければ、という。自分でもそんな馬鹿なととても信じられなかったが。
しかし、実際気持ちは高速で犬への深い思いに取って代わられていて――
「畜生!」
……それゆえ、まさにその時だった、
子犬のサーカスのことも、明日からのつまらない仕事のことも途端完全に頭から忘れ去り、
「うわあああ!」
俺はたちまち気合ともやけくそとも取れる雄叫び上げると、一気に両脚へ力こめ、
(どうか、どうか間に合ってくれ!)
――迷っている僅かな間すら惜しく、とにかくあの犬を助ける、あろうことかひたすらその一心だけで、ライト輝かせ突進してくる車の爆音耳にしながらいきなり無謀にも道路上へと飛び出していたのである。
「ワオオオン!」
それに気づいた白犬の、驚きの表情末期の記憶に脳裡へしかと焼き付けつつ。




