原爆と竹槍91話
「あなた!」
叫ぶと、雪は走った、否、走った心算だが。歩く程度の早さだった。
雪を付けていた二人の男は、雪の叫び声を聞いて、駆け寄ろうとしたが、申し合わせたように、走るのを止めて言った。
「間違いないね」
「うん、哀れなことだ」
二人は、また、雪の後ろを付けた。
「楠はどこ?」
雪は涙に濡れた目で、緑の葉が一杯に茂った楠の木を探したが、見渡すかぎり、緑色の植物一つ無く、一面、焼けこげた黒褐色であった。
やがて、雪の前に突然、焼けこげた櫓のようなものが現れた。
その櫓のようなものをよく見ると、半分に折れた木であった。
「楠の木」
呟いた雪の脳裏に、生家の横に建っていた櫓と楠の木が一緒になった。
「大爆弾!」
絶叫した雪は、その場に泣き崩れた。
「大爆弾が私の幸せを全て奪った!」
絶望感で生きる力を失いかけた時、雪の脳裏に野菜畑が写った。
(大爆弾が投下された時、夫は、山の野菜畑でさつま芋を掘っていたので助かり、今は楠の木の下で私を待っているわ)
雪は楠の木の下が見える所へ急いだ。
楠の木の下が見える所まで帰ってきた雪は、涙に曇った目で、楠の木を見ると、一人の男が椅子に座っていた。
「あなた!あなた!帰って来たわよ」
喜びの叫びを上げながら雪は走ったが、夫が迎えに来ない。
(私がこんな姿になっているとは夢にも思わないから、私を誰か分からないのよ。やっぱり、楠の木の下で待っていてくれたのね、うれしい)
走る雪の目は涙で曇り、明の姿がよく見えない。
やっと明の元へ駆け寄った雪は、明の膝に鈴子を乗せて言った。
「あなた、鈴子を死なせてごめんなさい」
明は鈴子を抱いたままの姿勢で崩れ落ちるように地面に落ちた。
「あなた、どうしたの!」
明の衣服は正常だったが、顔や腕は、雪が見た原爆で死んだ人と同じだった。
「死んでいる!」
雪あ明を抱いて号泣した。
「私は、あなたに逢いたくて帰ってきたのよ、死んだら嫌」