原爆と竹槍88話
「どこまでも、不運な母と娘。でも私は思いたい、あの母娘に奇跡が起こることを、そして、願うわ、あなたは、世界一の藪医者だった。だから誤審したと」
「私も同じことを考えていたよ。そうだ、私は薮医者だ、きっとあの母娘に奇跡が起こるとね」
「そうよ、そうに違いないわ」
「でも、今でもあの哀れな姿をした母娘を追いかけていき、新しい服か着物を着せてあげて仕方ないよ」
「私も同じ気持ちよ」
雪と鈴子を見送る老夫婦の目から涙が途絶えることはなかった。
鈴子を背負った雪は、もうすぐ夫の元に帰れると言う希望を胸に、嬉嬉津の岡本家に着いたのは、家を出てから十五日目の八月十四日だった。
雪は岡本家の前に立って言った。
「岡本様、ただ今戻って来ました。でも、母を連れて帰って来れませんでした。私が出会った全ての人たちはみんな優しい人でした。でも、その人たちの中には無惨にも殺された人も居ました。そして、あなたから頂いた自転車も壊されました」
悲しみ堪えれなくなった雪は、その場で泣き崩れた。
しかし、何時までも泣いてはいられない。
雪は岡本家に一礼し、我が家に向かった。
一足毎に、我が家に近づいていると思うと嬉しくなり、鈴子に言った。
「鈴子、父さんが鈴子の帰りを待っているわよ。父さんに会いたいでしょう、それも、もう少しの辛抱よ。あなた、すぐ帰りますから、楠の木の下で待っていてね」
夫が待っている。
そして、夫と共に権力の無い国を創り、鈴子と三人で幸せに暮らせると思うと、心身の痛みも忘れるほどの喜びを感じる雪だった。
雪は歩いた。
暗闇は不便だが、暑い昼を歩くよりは、涼しくてはるかに楽であった。
しかし、歩く速度がだんだんと遅くなり、一時間に一キロも歩けなくなった。
我が家まで5キロになったとき、東の空が明るくなってきた。
(間もなく夜明け、早く帰って、朝のご飯の支度をしなければ)
心は急ぐが、歩く速度がまた遅くなる。
一キロほど歩いた時。
「お水」
背中から、今にも消え入りそうな鈴子の声がした。
「はい、お水」
飲みなさいと水筒を渡したが、鈴子が受け取らない。
「お水はいらないの?」
尋ねたとき、急に鈴子の身体が重くなった。
「そう、下りてから飲みたいのね」