原爆と竹槍87話
雪と鈴子は、老夫婦に礼を言って歩きだした。
「可哀相に」
雪と鈴子を見送りながら、老妻が涙を流しながら何度も可哀相にと呟いていた。
「あの身体で、遠い広島から帰ってきたんだ。哀れでならないよ」
老医師も涙を流す。
しばらくして老妻が神妙な顔をして夫に言った。
「私を叱ってくれて、ありがとうございました。もし、あなたに叱られなかったら、長崎市も大爆弾を投下され、多数の死傷者が出たというところでした。あの母子が遠い広島から、それも、あの姿で帰ってきたのは、ご主人に逢いたいという一心からです。それなのに、私は、その希望を打ち砕くとこでした。それも、やっと、夫の近くへ帰ってきたと思った時にです」
「分かってくれて良かった。でも、長崎市は広いから、あの女性はご主人が大爆弾の被害者になったとはいえないよ」
「それはそうね」
「だから、あの女性のご主人が無事であることを祈るしかない。でないと、余にも。あの母と娘が可哀相だ」
「そうね」
老夫婦の目は涙で光っていた。
「私を制した訳は理解したわ。でも、なぜ、あなたが応援に行っている近くの大病院へお連れし、治療をしなかったの」
老医師が辛そうに言った。
「あの母と娘の命は、可哀相だが今日か明日までなんだ」
「そんな!」
老婆が泣き出した。
「もし、病院へ無理矢理連れていったら、夫に逢いたいと命を削りながらここまで帰って来たのに逢えなくなるからだ」
「あの母と娘の願いはただ一つ。それは夫であり父親に逢う事なのだ。それなのに、逢えずに死ぬ事が、どんなに悲しいことか、考えただけでも辛くなり」
「そうね、逢えずに死ぬなんて、余りにも可哀想すぎるわ」
「あの母子をご主人の元へ送って上げたいが、元気な者はすべて徴兵され、女性も、被災者の手助けにしているため、居るのは子供だけだ。無論、私とお前は、大人だが、とても諫早まで送っていけないから、残念だが、運命に任せようと、何の手助けもしないで、返したんだ。だが、心残りは、哀れな母子に新しい衣服に着替えさせて上げられずに帰らしたことだ」
母子に新しい衣装を着替えさすことが出来ないのは、大爆弾により焼け出された長崎市民に、全ての衣服を寄付したからだ。