原爆と竹槍86話
雪は、広島のことが長崎まで伝わっていたのかと、心の中で驚いていたが、老医師は、広島の原爆をしらなかった。
だが、長崎の原爆被害者を何人も診ていたので、雪と鈴子の症状を見た瞬間、原爆の被害者が長崎市から来たのだと思ったのだ。
「私の家で休みなさい」
「有り難いことですが、ゆっくりできません」
「どうして?」
「私が帰るのを、夫が今か今かと待っているのです」
「何処で?」
「長崎市です」
「ええ!長崎市?」
老人は、長崎市で母子が被害に遇ったと思っていたので、驚いて尋ねた。
「大爆弾は、何処で」
「広島市」
「ええ!広島市ですか?」
老人が驚いた。
「そうです」
傍で聞いた老妻が。
「長崎市」
でもと、言いかけると、慌てて老医師が遮った。
「お前は、黙っていなさい」
老妻を叱り付けた。
「でも」
「話は私に任せない」
「はい」
老妻は、不満げに従った。
「そうですか、ご主人が長崎市で、奥さんの帰りを待っているんですね」
「はい」
「じゃあ、ご主人に一刻も早く逢いたいと思って、遠い広島市から帰ってきたのだね」
老医師が労るように言った。
不満げな老妻も、やっと、夫の真意が分かったようだ。
「はい、やっと、ここまで帰って来れました」
「ご主人が待っているのを引き止める訳にはいかない。長崎市までお送りたいが、どこの家も、子供と老人ばかりなので、お送りで来ません。どうか無事にお帰りください」
老妻が家に駆け込むと、お麦の握り飯をもってきて雪に渡した。
老夫婦の優しい情けに泣きながら、雪に渡した。
(出会った人たちは、みんな優しい人ばかり)