原爆と竹槍62話
老人は、急いで家に引き返すと、おはぎを持ってきて、雪に渡した。
空腹で倒れそうになっていた雪には、救いの手であった。
老人に別れを告げた雪は、老人の悲しみを考えると、気も滅入ってしまう。
しかし、一刻も早く夫も元に帰りたい雪には感傷に浸る間はない。
下関に着いた雪と鈴子を見た少年の祖父は、その姿に泣き、話を聞いてまた泣き、養生していけというが、夫が待っていると断ると、魚の乾物をたくさん持たせてくれた。
やがて、福岡県の八幡市を通り越し、飯塚に着いた頃には夜になっていた。
ここまで帰ってきたら、明後日の朝には、夫の元へ帰れると一安心し、泊まる橋を探すと簡単に見つかった。
雪は、先客の被災者は居ないか、堤防から橋の下を覗いたが、幸い誰も居なかった。
「よかった、誰も居ないわ」
早速、雪は自転車から鈴子を降ろし、橋の下へ自転車を運んで行った。
突然、わんわん、わんわんと、数匹の犬が吠えながら、雪に襲いかかってきた。
「きゃー!」
恐怖の悲鳴を上げた雪は、自転車を捨てて堤防を駆け上がった。
犬たちは堤防の下から、六つの目を光らせ、雪を睨みつけ、牙と剥き、吠える。
その恐ろしい声と目に雪は震え上がった。
だが、自転車を取り戻すまで、この場所から逃げることはできないのだ。
雪と犬たちとの睨み合い、否、犬に睨まれていた雪が言った。
「自転車には、私たちの食物があるの。その食物が取れないと、鈴子に食事をさせられないから、自転車を取りにいかせてください」
泣きながら、雪は犬たちに懇願していた。
だが、犬達は、一層、牙を剥き出し、今にも堤防を駆け上がりそうな気配を見せる。
しばらく鳴き声がしないので、目を凝らして見ると、犬が魚の乾物を食べていた。
雪の悲しみを鈴子が感じとり泣き出すと、犬たちがまた吠える。
(誰か助けに来てください。だれか、この橋を渡ってください)
恐さに震えながら、雪が心の中で助けを求めるが、誰も現れない。
雪と犬たちのにらみ合い、いや、犬たちに睨まれても、逃げるに逃げられず恐怖に慄く雪と鈴子との対峙が続いた。
それは、雪ろ鈴子にとって、堪え難いほどの恐怖の連続だった。
命が縮むような恐怖の長い夜が明けた。