原爆と竹槍22話
「何が恐いの」
「何でもないから、静かにしていなさい」
小さい声で言うと、鈴子が頷いた。
戦闘機は、獲物を射殺したかどうか確かめるように、女性が飛び込んだ海面の上を何度も旋回していたが、女性の姿が浮かんでこないのを確かめると、どこかへ飛んでいった。
美しい有明海を血に染めて。
恐怖で動けなくなった雪は、放心したように立っていた。
すると、また、戦闘機が現れ、死体を確かめるように旋回していたが、女性の姿がないので、どこかえ飛び去った。
雪は、この残酷な現実を目のあたりにし、自分の母親がどんなに恐かったかを知り、恐怖に慄いた。
(武器を持たない貝取りの女性が撃ち殺される。私が長崎市で抱いたいた米軍とは余りにも違いすぎる)
雪は戦争の恐さ、米軍の恐ろしさを初めて知ったのだ。
恐くて、その場から離れられない雪だったが、戦闘機に撃たれた女性が生き返ることを願い、女性が消えた場所を見続けていた。
しかし、女性は現れないばかりか、女性の姿を隠すように、満ちてきた潮が少しずつ干潟を沈め、やがて、岸まで到達した。
やっと、恐怖から立ち直った雪は、殺された女性が、どこの誰とも知られずに死んで行く悲しさを考えると、可哀相で黙って立ち去ることが出来なくなった。
「綾、どこへ行ったの!」
雪は、声が聞こえて方へ自転車を走らせると、杖を付いた老女が、綾、どこへ行ったのと連呼しながら歩いていた。
雪を見つけた老女が言った。
「綾を見かけませんでしたが」
雪は、老女が探している女性が、干潟で撃ち殺された女性のように思えた。
「綾さんの年と、どんな服装をしていたか教えてください」
「年は三十、紺の衣服を着ています」
戦闘機に撃ち殺された女性だと思った。
だが、老女の悲しみを考えると、この場で、この老女一人に話すのは余にも酷だと考えたのだ。
「お婆さんは、綾さんを一人で探していたのですか」
「はい、そうです」
「ご家族は居ますか」
「夫が家に居ます」