原爆と竹槍15話
夫に言われた雪は、自転車を漕ぐ決心がつき、静かに走りだしたが、また、悲しくなったのか、明を振り返り、万感の思いを込めて叫んだ。
「あなた!あなた!」
だが、出てくる言葉は、あなた、しか出てこなかった。
「帰りを、ここで、待っているよ」
雪に勇気を与えるように、明は小鳥が囀る楠の木の下を指差して言った。
「絶対に、待っていてね!」
雪は、明の方を何度も後を振り返りながら、朝靄に包まれたような坂道を下り姿が見えなくなった。
「無事に帰ってこいよ!」
明は、涙で見えなくなった目で妻子に向かって叫んだ。
その声が雪に聞こえた訳ではないが、雪が後ろ髪ひかれる思いで後を振り返った。
しかし、その目に写ったのは、雛壇のような段々伏に建てられた家々と、緑も鮮やかに茂った木々だった。
(大好きな私の町へ、必ず、母さんを連れて帰ってくるわ)
強く決心した雪は、背中の鈴子に話掛けた。
「鈴子」
「なあに、母さん」
「父さんが見える」
鈴子が後を振り返って言った。
「見えない。わたし、父さんの所へ帰りたい!」
鈴子が泣き出した。
「じゃあ、父さんと一緒に居る」
鈴子は考えた。
「少し前、母さんは、初め鈴子を家に残して畑は出掛けたら、母さんの所へ行きたいと言って、父さんを困らせたでしょう」
「うん」
「父さんは仕方なく、鈴子を畑まで連れてきたでしょう」
「淋しかったんだもの」
「わずか数時間でも、持っていられなのに、何日も父さんと一緒に待っていられる?」
「そんなこと、できない」
「だから、父さんは、母さんに鈴子を連れて行きなさいと言ったのよ。実の所、母さんだって、鈴子と一日も離れたくないから連れて来たのよ。それでも帰る?」
「もう、帰ると言わない」
「良かった、じゃあ、これから、お婆ちゃんを迎えに行くんだから、長くて辛い旅になるかもしれないけど、どんなに苦しくても我慢してね」