<5・真実の愛はそこにある。>
愛されたことなど、なかった。僕が物心ついた時はもう、母親なんで傍にはいなかったのだから。死んだのか、捨てられたのか。母も父もおらず、誰なのかもわからない。だから一人で生きていくしかなかった。例え、どんな手段を使ったとしても。
唯一の幸いは、僕が他の子よりも物覚えが良かったことだろうか。多分知能指数が高かったのだろうと思われる。自分達よりずっと年上のストリートチルドレンたちの盗みの技術はすぐに覚えたし、己の顔がそれなりだと知ってからは上手く貴族にも取り入った。もちろん幼すぎてできることは限られていたけれど、可愛ければ男の子でも玩具にしたいという馬鹿な貴族は腐るほどいて、そいつらのご機嫌を取っていれば衣食住に困ることはなかったからだ。
自分を守れるのは、自分だけ。
仲間を持ってもいいが信じすぎるな、頼りすぎるな。
それはストリートチルドレンのリーダーに教わったことだ。これを教えてくれるだけ、彼は情がある人物だったのだろう。どこぞのマフィアの恨みを買って、たった十三歳でこの世を去ることになったけれど。
――家族もいない。本当に信頼できる仲間を持ったこともない。そんな僕は……誰かを愛するとか、愛されるなんて考えたこともなかった。
マーガレットお嬢様とアップルトン伯爵家には感謝している。お嬢様のことは身分を超えた友達だと思っているし、きっとあちらもそうなのだろう。
しかしそれはそれとして、頭のどこで冷えた考えを持っている自分もいるのだ。あくまで自分は召使でしかない。たまたま適任だったから、お嬢様の遊び相手に選ばれただけ。代わりなど、いくらでもいる。何か一つミスをすれば、機嫌を損ねれば、簡単に切り捨てられる立場。それをけして、忘れてはいけないのだと。
だからこそ、心からお嬢様のことを信じたことも多分ないし、それはエリオットに対しても同じだ。二人はとてもお似合いのカップルだと思っていたし、二人と一緒に遊ぶのは楽しかったがそれだけである。彼らはいずれ、それぞれの家を背負って立つ人材になる。容姿端麗、品行方正な歴史と血筋を持つ者達。汚れた生まれ、汚れた体の自分とは何もかもが違う。けして、同じ世界に生きる人間だと思ってはいけないのだと。
そう、だから。
――好きって、なんですか……エリオット様。
恋愛なんて、想像もしたことがない。
迫ってきたのが男性だったから気持ち悪いとか、そんなことさえ考えられなかった。女性相手だって、そういう対象にしたことなど一度もなかったのだから。
ゆえに、エリオットの言葉を聞いてからというもの、僕は大混乱の極みだったのである。返事は後でいい、と言われたが、だからといっていつまでも先送りなどできない。そしてこんなこと、誰かに相談できるはずもないのだ。
――僕には、わからないんです。……だって、誰かを本気で愛したことも、愛されたこともない。そんな感情、僕には相応しくない、だから……。
「カレン、危ない!」
「え」
突然、鋭い声がかかった。そこでようやく僕は、自分が窓の掃除中だったことを思い出したのである。濡れた窓枠で、ずるりと足が滑った。
あっと思った時には、体は空中に投げ出されている。
「カレン!!」
落ちる寸前、視界に入ったのは恐怖に引きつったマーガレットの顔だったのだ。
***
結局、隠しておくことなどできるはずもない。そもそも、こうなった以上全部話してしまった方が物事はうまく行くのかもしれない。
マーガレットの手で直に、捻挫した足首の手当をされながら思う僕である。
「お嬢様、申し訳ありません。このようなこと」
「まったくね。最近あなた、様子がおかしすぎますわ」
彼女は髪の毛と同じ金色の瞳で、泣きそうに僕を見上げる。
「……わたくしのせいで、悩ませてしまっていますの?わたくしが、余計な頼み事をしたから。あるいは他に、何か隠し事がある?」
「お、お嬢様のせいでは……」
「何度でも言いますけど、わたくしは……あなたを心から、本物の友達だと思っていますのよ。あなたがいたからわたくしは、たくさんの物語の世界を知ることができた。楽しい時間があった。本当の本当に、感謝しています。だからその友達の役に立ちたいの。……わかってくださる?」
「…………」
貴族でありながら、穢れた身分の僕をまったく差別しない。それは彼女が両親から受け継いだ、あまりにも美しい信念だろう。本当に心優しい女性なのだ。悪役令嬢の演技なんてしても、まったくチグハグで違和感しかなかったほどに。
そんな彼女を苦しめたいはずがない。僕は考えた末、全てをマーガレットに打ち明けることにしたのである。
マーガレットはといえば――顔色が赤くなったり青くなったりと大層忙しかった。まさかエリオットに、浮気が完全にバレているとは思ってもいなかったのだろう。同時に、悪役令嬢の演技も見抜かれていたということも含めて。
「……わたくし、そんなに大根役者でしたから」
本気で落ち込んでいる様子のマーガレットに、僕は苦笑いを向けるしかない。
まあ、彼女は確実に女優には向いていないだろう。いかんせん何をやっても、なんだかんだいってお人よしな性格が出てしまうのだから。
「ま、まあ……お嬢様は女優志望ではないのですし、いいのではないですか?」
「そういえば学生時代、演劇部に入って役者やろうとしたことがあったのよ。……どう転んでも台詞一つ二つしかないモブ役しか貰えませんでしたわ。ていうか、最終的に、後生だから役者希望しないでくれと頭下げられたんですけど、あれってそういうことでしたの……」
「お、おうふ……」
過去、いろいろ苦労はあったらしい。まあ、世の中には腹芸が大層苦手な人間もいる。ジムに比べたら、マーガレットはまだ頑張った方ではなかろうか。
「あちらも婚約解消が希望なら、話は早くていいかもしれませんわね」
はあ、と彼女は深くため息をついた。
「エリオットには、本当に申し訳ないことをしてしまいましたわ。……問題は、婚約解消の理由をどうするか、です。この国の婚約制度はややこしいから、基本的にどちらかないし両者に非がないとOK出してくれませんのよ」
「だから、悪役令嬢ムーブしてたんですよね、お嬢様は」
「ええ。わたくしの人格に著しく問題がありとなれば、エリオットが婚約破棄するのに十分な理由になりますから。……でもこうなった以上、どちらかが泥をかぶるしかないですわね。わたくしの演技では、誰も騙すことはできないようですし」
泥。
実際、エリオットもマーガレットも違う形で自分がそれを被ろうとしていたのだ。エリオットはマーガレットのところの執事見習いと浮気をしたという理由で。マーガレットは、人格的に問題アリアリの悪役令嬢だという理由で。
だが、マーガレットの理由はこうなってはもう使えない。役所の人間も騙せるか極めて怪しい。そしてエリオットの方は――その理由でマーガレット側から婚約破棄をされた場合、エリオットは浮気をした汚名に加えて、ゲイであることをカミングアウトしなければならなくなる。
無論それは、エリオット的には本気で好きな人と結ばれたいがゆえなのかもしれないが――彼の後々の未来を考えると、相当な不名誉を被るのは言うまでもないわけで。
だがしかし、マーガレットが不貞をしたことをバラせば、それは彼女の想い人であるアルヴィンを巻き込むことになってしまう。どっちにしろ、真っ当な結果にはならないだろう。
「……お嬢様」
僕は悩んだ末、マーガレットに尋ねる。
「僕には、どうしてもわからないのです。お嬢様も、エリオット様も。自分の未来を壊すかもしれないとわかっていながら、どうして恋愛なんてものをするのでしょうか」
しかもどちらも、バレたらただでは済まないような相手だ。無論エリオットの方はあくまで彼の片思いであり、僕は返事をしていないわけだが。
「本物の愛とは、一体なんですか。僕はお二人の心がわからないし、自分の心もわからないのです。エリオット様に、どういう答えを返せばいいのかも」
そして、彼らがこれからどうするべきなのかも、自分がどうするべきなのかも。
僕がそう言うと、マーガレットは目を見開いて――少しだけ、寂しそうな顔で笑った。
「お馬鹿さんね、カレンは。……誰かのために真剣に悩むのは、その人が本気で大切な時ですわよ?」
「大切な、時……」
「恋愛感情かどうかはわからなくても、あなたはエリオットがとても大切だから悩んでいるのでしょう?同時に、わたくしのこともとても大切に想ってくれている。なら、その気持ちを正直にエリオットに伝えればいいのではなくて?……最初はお友達からスタートしたって、何も問題はありませんことよ」
「友達……」
それでいいのだろうか。それは、エリオットを苦しめたり、傷つけることにはならないのだろうか。
そう考えたところで、僕も気づく。彼を傷つけたくない、苦しめたくないのは、紛れもなく大切だからなのだと。そして傷つけることで、自分が嫌われたくないからなのだと。
何故嫌われたくないのだろう。友達だから?それとも、それ以上の感情が自分にもある、ということなのだろうか。
「貴方の生い立ちは、とても不幸なものだと思います。でも、だからこそ……これからは愛されなかった分、たくさん愛される権利があるとわたくしは思うのですわ」
マーガレットは僕の頭をぽんぽんと撫でて、こう言ったのだった。
「貴方こそ、エリオットの隣にいるに相応しいとわたくしは思います。それが親友でも、家族でも、恋人でも。……あなたはどう?エリオットの隣に、いたくはない?」
そう言われて、思い浮かんだのはエリオットの顔。
泣きそうな笑顔。甘い甘い、キスの味。抱きしめられた、力強い腕。
あの時自分は驚いて、でも確かに思ったはずだ。――こんな自分でも愛してくれる人がいる、それがどれほど嬉しいことかと。
そしてそれが、この人であってよかった、とも。
「……いたい、です」
その一言を絞り出すのに、随分と時間がかかってしまった。するとマーガレットは、どこか吹っ切ったような声で軽やかに笑ったのだった。
「なら、決まりね。……わたくしも、腹をくくりましてよ。ちゃんとエリオットと話し合って、穏便に婚約を解消するように二人でお役所と両親を説得してみせますわ」
「どうやって?」
「それは、これから時間をかけて考えればいいことですの。でもって、それはけして孤独で辛い戦いじゃあない。だって、真の愛を勝ち取るための儀式なんですもの」
カレン、と。マーガレットは言いながら、僕のことを抱きしめてくれたのだった。
「どう転んでも、あなたはわたくしの大切な親友です。……どうかエリオットのこと、よろしくね」
「……はい」
一方的で、誰かが傷つくだけの婚約破棄は、この物語に必要はない。悪役令嬢も、偽善的なヒロインも、ざまあされる婚約者もここにはいない。いるのはただ、失敗をしながらも真剣に愛を追求しようとし、恋人だけじゃなく友の未来も思いやれる優しい人達だけである。
エリオットとマーガレットの二人が婚約解消を成立させるのは、この三か月後のこと。
そしてそのすぐあとから、エリオットと僕が、手を繋いで二人で町へ繰り出すようになったのも――ここだけのお話である。