<4・ファーストキスは珈琲の味。>
「ああ、うん。大体知ってた」
マーガレットは黙っていてくれと言っていたが、既にエリオットには粗方状況がバレているわけで。ならば報告しないわけにもいかないと、僕はエリオットに一部始終を打ち明けたのだった。
ちなみに此処は、中流階級が使うようなカフェである。エリオットに別件を名目に呼び出された僕は、彼ともども軽い変装をしてこのカフェに来ているわけだった。ここならまず、貴族である身内が足を運ぶことなどないからだ。
で、冒頭の台詞である。
エリオットは既に、マーガレットの浮気相手がアルヴィン・スターキーであることも掴んでいたらしい。
「お嬢様、理由つけてよくスターキー子爵家のとこに行ってたしな。まあ、マーガレットのお父上の貿易会社、スターキー家の運送会社とは提携してるし。仕事がらみで縁があってもなんらおかしくはない」
「そういえばそうでしたね。……ってことは浮気がバレると」
「二つの家の仕事にもがっつり悪影響が出るな。はっきり言って、泥沼どころの話じゃない。マーガレットがやったのは許されることじゃないとはいえ、他の人達への迷惑を考えるとおいそれとバレるわけにもいかない」
ただ、とエリオットは続ける。
「俺っていう婚約者が既にいて、その関係が浮気で、婚約もしてないのにやるとこまでやっちゃってる……ってところを除けば……スターキー子爵家の次男坊は悪い相手じゃあないんだよ。次男だし階級が一個下だから、向こうが婿入りして貰うなら不都合がないだろ?でもって、仕事の提携先だから、家同士の繋がりを強めるって意味でも結婚しておいて損はないしな」
その言葉で、僕は察する。
つまりエリオットとマーガレットが穏便に別れさえすれば、そのあとマーガレットがアルヴィンと婚約するのになんら不都合はない、ということだ。――それまでうっかりマーガレットが妊娠しちゃったてへぺろ☆とならないかどうかが懸念材料ではあるが。
「……エリオット様は、よろしいのですか?」
一番の問題は、そこだ。
「僕は、マーガレットお嬢様に仕える使用人であると同時に……エリオット様とも友人関係でいるつもりです。お嬢様に幸せになってほしい反面、エリオット様にも……幸せになってほしいのです」
自分にとって二人はとても大切な存在だ。だから、大好きな二人が結ばれるならそれに越したことはないと思っていたのである。
だが、その未来は儚く砕け散ってしまった。
今回、非があるのはどう転んでもマーガレットだ。彼女がこのまま不幸になるなら、正直それは自業自得と言わざるをえない。だがその不幸に、何も知らなかったであろうアルヴィンや二つの家の両親を巻き込むのは非常に気が引けるし――何よりエリオットの心が蔑ろにされるのはあまりにも業腹なのである。
エリオットは、マーガレットをどう思っていたのだろう?
彼がもし、マーガレットの幸せだけを考えて、自分の心を押し殺した挙句己の浮気を捏造して泥を被ろうとしているのなら――僕は。
「マーガレットのことは好きだぜ」
エリオットは、あっさり言ってのけた。
「でもな。本当は……俺だって、秘密がなかったわけじゃねえんだ。ただで泥を被ろうってんじゃないんだぜ」
「でも、僕との浮気を捏造して、自分が悪いことにして婚約破棄してもらおうとしていたじゃないですか」
「ああ、そうだ。でも、それはマーガレットのためだけじゃないんだ」
彼は少し寂しそうに、目を伏せた。
「俺がゲイだったことにすればいい、つったろ。あれな。……本当なんだわ」
「え」
あまりにも予想外すぎる言葉。僕は言葉を失う他ない。
「ドン引きしたか?……やっぱ、そうだよな」
はは、とエリオットは苦笑いして言った。
「子供の頃から薄々気づいてたんだ。でも、次男とはいえ……俺も何のある家の息子だろ?しかも俺は、自分で言うのもなんだが結構期待されてる方だと思うんだよな。勉強とかスポーツはわりとなんでもできるし、顔も結構イケメンじゃね?って思うし。あと自分で言うのもマジでなんだと思うけど紳士じゃねえ俺?」
「まったくその通りですが、ほんとよく自分で言いましたね……」
「はははは。……で、兄貴差し置いて俺に家督を、って話も出てるくらいなわけ。俺は兄貴が家督を継ぐべきと思ってんだけどな。……言えるわけねえだろ、俺が、女に一切興味がねえだなんて。女との間に子供作るとか無理だって」
想像するだけで吐き気がしちまうんだ、と。彼は苦痛を刻んだ顔で言った。その目にあるのは、誰よりも己自身への嫌悪感。きっと、いろいろ試したのだろう。なんとか女性に興味を持つことができないか。妻をもらって、子供を作るということができるにはどうすればいいのかと。
だが。
「男性にしか興味がない、と?」
僕の呼びかけに、彼はこくりと頷いた。
「部屋に結構隠してあるんだよなあ、俺好みの可愛いコの写真集とか。全部、男のやつばっかだぜ。普通ああいうの、中流階級の女子が買うのになあ。想像の中で抱いてるのは、いっつも男ばっかりなんだ」
「……それは」
本当に、なんて言葉をかければいいのかわからなかった。エリオットの目を見ればわかる。まごうことなき真実。彼はずっと、この秘密を一人で抱え込んで苦しんでいたのだろう。
婚約者ができてからも、どうすればいいのかとずっと悩んでいたはずだ。相手がよりによって名家の長女。自分は婿入りをしなければいけない。そんな相手と結婚しあとで、あなたを抱けませんごめんなさいとは言えないだろう。
「それは、本当に……辛かった、ですね。ごめんなさい、何も気づかなくて」
僕は深々と頭を下げた。するとエリオットは、少し困ったような声で笑うのだ。
「俺のこと、気持ち悪いって思わないでくれるのか」
「思うはずがありません」
それは即答だ。だって、人が人を好きになるのに、理由なんていらないではないか。何故その相手が同性だったというだけで嫌われ、気持ち悪いなどというレッテルを貼られなければいけないのだろう?
相手が異性だろうがなんだろうが、無理矢理性犯罪を犯す奴の方がよっぽど気持ち悪いに決まっているというのに。
「同性だからってそれがなんです?大切なのは相手が男か女かじゃない。自分の人生のパートナーになるに相応しい人間かどうか、それだけでしょう?……貴族社会では政略結婚だらけですけど……それでも人は、恋をするものなのです」
僕は顔を上げて、エリオットをまっすぐ見つめた。
「あなたはたまたま男性を好きになった。それだけではありませんか」
だからなのだ。僕がマーガレットを否定できないのは。彼女に罪があると思いながらも、彼女に好きな人と結ばれてほしいと思うのは。
それはもちろん、目の前のエリオットに対しても同じで。
「僕があなたの浮気相手、ということになれば……お嬢様が婚約破棄をするに十分な理由になる、そうですよね?」
「あ、ああ」
「では、そうしましょう。ただし、演技であることをお嬢様本人にも伝える。それでいいのであれば」
主人に嘘はつきたくない。
僕の言葉に、エリオットは少しだけ考えた後、頷いた。
「わかった。……それでいい。ありがとう、カレン」
「了解しました。では僕は、いろいろと段取りを決めます。お嬢様にも話した方がいいですし、状況的に見て早い方がいいので……」
僕が立ち上がろうとした、その時だった。
くい、とエリオットが、僕の腕を掴んできたのである。
「カレン」
何か、まだ用があったのだろうか。そう思って彼の方を見た、次の瞬間だった。
「んっ!?」
気づいた時にはもう、エリオットの顔がすぐ目の前にあって――柔らかいものに、唇を塞がれていたのである。
「う、ううっん……!」
キスを、されている。
それにどうにか気づいたのは、口の中にほんのり苦い味が広がってからだった。さっきまでエリオットが飲んでいたコーヒーの味だとすぐにわかった。唇をこじ開け、舌が入ってくる。髪の毛を掴まれて、頭を固定されて、ひたすら唇を貪られた。
歯列を舐められる。舌と舌が絡み合い、強く唾液を吸い上げられる。
なんて力強い。――気づけば僕の体は無意識に弓なりに沿っていた。まるで、彼に体を預けようとするかのように。
「う、うんっ……」
息が、できない。酸欠で頭がくらくらしてきたタイミングで、ようやく唇を離された。あまりの衝撃に僕はふらつき、思わずテーブルに手をついてしまう。
一体何を、と問う前に体を抱き寄せられた。
「……悪ぃな。無断で、ファーストキス奪っちまって」
「な、な、なに、を」
心臓が、ばくばくと五月蝿く鳴っている。自分でも驚いていた。エリオットが突然キスしてきたことも――そのくせ、そのキスがまったく嫌ではなかったことも。
それどころか、気持ちいい、と感じてしまったことも。
息が上がっているのはただ酸欠になったから、それだけではなくて。
「人前だからな。既成事実作っておいた方が、嘘の説得力が増すだろ」
「だ、だからって、そん、な」
「それだけじゃねえ。本当は……それだけじゃねえんだ」
なあ、と。耳元で、心地よいテノールに囁かれる。
「本当に浮気、しちまったらダメか?」
何を、言われているのかわからない。あまりにも力強い腕で抱き寄せられているせいで、身動き一つ取れない。
いや、僕は抵抗したいのだろうか。本当に、彼の腕の中から逃げ出したいのだろうか。くらくらする音色に、それすらもよくわからなくなってくる。
「お前に浮気相手になってくれって頼んだのは、婚約破棄のためだけじゃない。マーガレットのためだけでもない。……俺だって本当は、お嬢様みたいに本物の恋がしたかったからさ」
少しだけ、顔が離れる。まっすぐ宝石のように青い目が僕を真正面から捕えて離さない。
「俺は、カレン……お前が、好きだ。本当は、初めて出会った時からずっと。なあ」
お前はどうだ、と温かくも泣きそうな声で問われた。
さっきのキス。あれだけで分かる。エリオットは、本気で僕を。
「ぼ、僕は……」
その言葉に、僕は何も返事を返すことができなかったのだ。