<1・婚約破棄されたいってどういうこと?>
「俺さ、婚約破棄されたいんだよね。なんとかならない?」
突然言われたその言葉に、僕は椅子からスッ転びそうになった。
此処はアップルトン伯爵の屋敷。正確に言うと、執事見習いの僕がお仕えするマーガレット・アップルトンお嬢様のお屋敷である。
今、客間にいて僕の目の前に座っている銀髪青眼の美丈夫はその名をエリオット・ヘイズ。ヘイズ伯爵家の次男坊という。マーガレットお嬢様の婚約者でもある男性だった。
現在僕は、マーガレットお嬢様が来るまでの間、客間に通したエリオットの話相手をしていたというわけなのだが。
「……いきなり何言い出すんですか?」
あまりにも、唐突すぎる。婚約破棄したいんじゃなくて、婚約破棄されたいとはこれいかに。
確かにこの国では今、男女同権が叫ばれている。女性から男性に婚約破棄を突き付けることも可能。身分はどちらも伯爵家だが、マーガレットは長女でエリオットは次男。長女であるマーガレットの方が選択権という意味では強いから尚更に。
だからまあ、婚約破棄をされる、ことそのものが不可能というわけではないのだが。
「あなた、マーガレットお嬢様の婚約者でしょう。でもって、僕はお嬢様に使える執事見習いですよ。そんなこと、僕に言われても困るんですけど」
「わかってるよ。でも、お前が一番俺と親しいし、お嬢様のこともよーく知ってるじゃねえか。だから協力して欲しいなって思って」
「だから、なんで?」
協力と言われても、たかが執事見習いにできることなどあまりに限られている。困惑する僕に、彼はひらひらと手を振って言った。
「お嬢様、浮気してるらしんだよ。前にミーシャが酔っぱらった拍子に訊きだしたんだわ」
「はい!?」
「つまり、お嬢様俺のことなんか全然好きじゃねえの。他に好きな相手がいんの。まあ、元々政略結婚だしな。他に好きな人がいるのはしょうがねえと言えばそうなんだが」
「え、ええええええ……」
なんか、とんでもないことを聞いてしまったような。僕は冷や汗だらだらである。
というのもこの国の婚約制度はちょっと複雑だ。貴族の間では、幼少期から双方の家で『婚約予定書』というのをお役所に提出する決まりとなっている。万が一お互い結婚する前に破談になった場合は、婚約解消のための書類を別に用意してお役所に出さなければいけないのだ。それほどまでに、結婚前の『婚約』というのは重要な約束事となっているのである。
結婚したわけではない。それでも、婚約者がいるのに浮気、というのは双方の家にとって相当不名誉なことである。そして皮肉にも僕は思ってしまったのだった。あのマーガレットお嬢様ならやりかねない、と。
――まあ、実際……学生の頃から相当遊び歩いてたしなあ、あの人。
まさか本当に、一線を越えてしまった相手がいるのだろうか。伯爵家の跡取り娘が何やってんだ、とつっこまざるをえない。
「……それが本当なら一大事ですが、僕に何をしろと?」
その言葉に、エリオットは――にんまりと笑って言ったのだった。
「カレン、お前……俺の浮気相手になってくんね?」
「……ハイ?」
一応言っておくが、僕は男である。
女に間違えられる見た目だとは言われるが、一応れっきとした、男なのである。
***
現在十六歳の僕がアップルトン伯爵家にやってきたのは、今から十年前のことだった。
ちなみにマーガレットお嬢様は現在二十一歳。僕より五つも年上である。にも拘わらずまだ六歳の僕が彼女の〝遊び相手〟として孤児院から引き取られた理由は単純明快、彼女に年が近い子供が少なかったこと。それから、彼女の遊びに付き合えるような文字の読める子供がほとんどいなかったこと、に起因している。
僕は元々下層階級の子供だった。親は娼婦だと思われるが、ろくに顔も覚えていない。物心ついた時にはあらゆる犯罪で生き延びるストリートチルドレンだった。ボロボロのところ、アップルトン伯爵家が支援する孤児院に入ったのが五歳の時。そこから一年もたたずして、僕は伯爵家の執事見習いとして家に迎えられることになったのである。
孤児院に入るような貧しい身分の子供達は、その多くが文字が読めない子供ばかりである。
しかし僕は違っていた。子供の頃に〝お世話〟になっていた貴族のおじさんが、気紛れに文字を教えてくれたからである。そして、自分で言うのもなんだが僕は賢い子供だった。文字が読めるだけじゃなく、計算も早かったし記憶力もあった。だからこそ、お嬢様の遊び相手に相応しいと考えられたのだろう。
というのも、マーガレットお嬢様が一番好きな遊びというのが――本を読んでその考察をすること、であったからだ。
『はあ!?わたくしは、高度な議論をかわせるお友達が欲しいと言ったんですのよ!?なんでこんなお子様なんですの!?』
最初、たった六歳の僕が連れてこられたと知った時のお嬢様の落胆ぶりは、それはそれは激しいものだった。僕は同年代の子供達より小さかったし、より小さく見えたというのも大きかったのだろう。
しかし、彼女の冷たい態度は、一緒に本を読んで話をするようになると一変することになる。
『ここが、どうしてもわかりませんの。何故キャンディは、ドルク叔父様の元を飛び出してしまったのかしら?』
一冊の本を元に、交わされる議論、講釈。僕はいつも、彼女の期待に完璧に応えてみせた。
『それについては、いくつか可能性が考えられます。一つは、単純にキャンディが叔父さんを嫌いになってしまった可能性。叔父さんは、キャンディの友達であるクリスに冷たくしてしまいましたから、それで腹を立てた可能性もあるでしょう』
『ええ、わたくしも最初はそう思ったわ。でも、そう考えると腑に落ちない点がいくつもあるの』
『はい。何故、叔父さんに冷たくされたあと、キャンディは妙に叔父さんに親切にしたのか、ですね。むしろ以前より掃除を丁寧にやるようになったり、料理を覚えるようになったりしていました。ですので、僕の答えはこれです。……全ては叔父さんに恩返しをするため、ではないかと』
『恩返し?どういうことなの、カレン?』
『叔父さんの家はとても貧しいものでした。キャンディは、働けない子供の自分が叔父さんの食い扶持を潰していることに気付いていたのでしょう。だから、一人で身を立てられるように料理や掃除を覚えた上で……出ていくことを選んだのではないでしょうか。叔父さんがクリスに冷たくした理由ももとはと言えば……』
『ああ、そうか!そうよね、確かにそうだわ!何で気づかなかったのかしら……素晴らしい分析ですわ、カレン!』
最初は僕のことを差別したり、毛嫌いしていたマーガレットお嬢様。しかし時がたつにつれ、その関係はどんどん変わっていったのである。
僕とお嬢様は身分も違うし、性別も違う、年も離れている。でも、お互い一番大事なことで分かり合える存在。いつの間にか僕達は、親友と呼べるほどの間柄になっていたと思うのだ。
僕はマーガレットお嬢様を尊敬していたし、きっとお嬢様も僕のことを尊重してくれていたと思うのである。
そう、だからこそ――最近は少し、辟易していたのだ。お嬢様の態度が、露骨に怪しくなっていたから。
『カレン、何でこんな掃除もちゃんとできないの!?』
『え、え?も、申し訳ありません、お嬢様……』
わざわざ人前で、僕達使用人を派手に怒鳴る。時に手を挙げるようにもなる。
使用人の中には耐えかねてやめてしまった者もいる。まるで人格が入れ替わったかのように、意地悪になってしまったとでも言うべきか。
一体どうしてしまったのだろう、と思う。心配していたのは婚約者のエリオットも同じだったようで、ちょくちょく僕に相談を持ち掛けていたのだった。僕が一番、マーガレットお嬢様と親しい召使だと知っていたからだろう。
彼女の身に、何かあったのではないか。そう思っていた矢先のことだったのだ。
エリオットに、婚約破棄されたいから協力してくれ――なんて相談を持ち掛けられたのは。
いや、確かに最近のマーガレットの素行はあまりにも目に余るものがある。こんな女と結婚なんて無理!とエリオットが愛想を尽かすのも仕方ないことではあるが。
「……話が見えないんですが?」
僕は冷や汗をだらだらと流しながら、エリオットに尋ねる。
「お嬢様に、他に好きな人がいる。それゆえ、婚約破棄されてしまいたいとお考えになるところまではわかります。それがどうして、僕が浮気相手になる、ということになるのでしょう?」
「おお、すまんすまん。話が飛躍しすぎたか?」
「しすぎです」
というわけでとっとと詳しく話せ、と促す。意思表示がわりにぐい、と彼の紅茶のカップを押しやった。ちなみに、入れたのは僕である。冷めてしまうので早めに飲んでほしいのだが。
「それもそうだな。……いや、いろいろ考えたんだ、俺も。マーガレットから婚約破棄されるためには、どうすればいいのかって」
彼は僕の意思をくんでか、カップを手に取って持ち上げた。
「で、一番いいのは……俺が嫌われること、じゃないかと思ってな」
「嫌われること、ですか」
「おう。プライド鬼高いマーガレット様だからな。……俺がゲイだって知ったら、ブチギレて婚約破棄してくれるんじゃないかと思ってなあ」
一口飲んで、にやりと笑う男。
「ましてやその浮気相手が、自分に仕えてきた執事見習いの男の子なんだぜ?そりゃショックも受けるし、ブチギレてくれんじゃねえの」
「あ、ああー……」
確かにそれは一理あるのかもしれない。大変不本意だが、納得してしまった。
そもそも浮気相手がいなかったところで、ゲイの男性と結婚などできるはずもない。貴族同士の結婚は最終的に、子孫を作って血を繋いでいくことが目的。ましてやマーガレットの方は長女なのだから、その役目は必須と言えるだろう。ならば、ある意味で一番有効な一手かもしれないが。
「それ、バレたら僕がこの家を追い出されるんですが」
「そうなったらうちの家に来ればいい!お前なら大歓迎だ、俺専属の執事で雇ってやるよー!」
「そんな簡単に……」
だが、と僕は少しだけ考えたのだ。
もし本当にお嬢様に、他に好きな人がいるならば。婚約破棄でもしない限り、彼女もまた幸せになれないのではないか、と。