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明治怪病治療師  作者: 谷地雪@第三回ひなた短編文学賞【大賞】受賞
幕間

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13/29

クリストファー・アダムス

「はやくーう!」

「こっちこいよー!」

「まってー!」

「きゃーあはは!」


 教会の敷地内。青空の下、子どもたちの無邪気な声が響き渡る。

 アメリカの地方にあるこの小さな教会は、孤児院の役割を兼ねていた。

 優しいシスターに見守られて、幼い子らはのびのび過ごしている。

 ただ一人を除いて。


「クリス。皆と遊ばないの?」

「……シスター」


 クリスと呼ばれた少年は、一人で本を読んでいた。まだ五つくらいに見えるのに、もう一人で文字を読むことができるらしい。

 人より賢い子は、どこか疎外されてしまうものだ。彼は他の子たちよりも、ほんの少し大人びているだけ。

 どこにでもいる、物静かな子。自分から人の輪に入れない子。大人が少し手を貸してやれば、他の子と変わりなく、仲良くできる。最初はシスターもそういう認識だった。

 そうではないと知ったのは、他の子たちから彼に関する噂を聞いたからだ。


「……みんな、ぼくと一緒は嫌がるから」

「そんなことないわ。皆、あなたのことがよくわからないだけよ。たくさんお喋りして、いっぱい遊んだら仲良くなれるわ」

「いい。いじめられるから」


 シスターは眉を下げた。あの純粋な子どもたちが、いじめなどとは考えられない。彼はきっと何か誤解しているのだ。


「でも、一人は寂しいでしょう。少しずつでも、お友達を作る練習をしましょう?」

「いい。友達なら、いるから」

「あら、どの子?」

「ここにいるよ」


 そう言って、クリスは誰もいない自身の隣を見た。

 シスターは困ったように、更に眉を下げた。


「……クリス。でも、そのお友達は、あなたにしか見えないのでしょう」

「うん、そうみたい。みんな、いないって言うんだ」

「そうね。残念だけど、私にも見えないの」

「……シスターも、ぼくのこと嘘つきって思ってる?」


 寂しそうな瞳に、シスターは首を振って彼の手を取った。


「いいえ。嘘だなんて思ってないわ。あなたが言うのなら、お友達はきっとそこにいるのね」

「……うん」

「その子とお友達のままでも、構わないのよ。でも、他の見えるお友達も作った方が、もっと楽しくなるでしょう? 孤児院の他の子とも仲良くできたら、毎日がもっと素敵になるわ」

「そう、かな」

「ええ、きっと。だから、向こうで一緒に遊んでらっしゃい」

「……うん。わかった」


 母親代わりの優しいシスターに諭されて、クリスは本を閉じて、子どもたちの輪の方へ向かった。

 ほっとした気持ちでそれを見届けて、シスターは教会の中へと入っていった。

 クリスはきっと、寂しいだけ。その気持ちを、空想の友達を作ることで紛らわせている。

 子ども同士で仲良くできたら、きっと。普通の子と同じようになれる。



「げー! クリスがきた!」

「うそつきクリスー!」

「クリスって、ほんとうはアクマなんでしょ? こわーい」


 シスターの姿が見えなくなった途端、嘲笑がクリスを襲った。

 クリスはぐっと拳を握りしめた。

 シスターはわかっていない。子どもという生きものが、どれほど狡猾で愚かしいのかを。

 大人の前でいい子ぶるのは当然だ。そうでないと罰を受けるから。おやつを抜かれてしまうから。掃除をさせられるから。貰い手が現れなくなるから。

 そんなこと、子どもたちはもうとっくに学んでいる。


「シスターが、みんなと仲良くしなさいって」

「バケモノなんかとなかよくできるわけないだろ!」


 体格の良い少年が、クリスに向かってボールを投げつける。

 クリスは頭を守るように抱えて、その場に蹲った。

 しかしボールはクリスに当たることはなく、直前で大きな音を立てて破裂した。


「うわあっ!?」

「きゃあっ!」


 悲鳴を上げて、子どもたちがクリスから遠ざかる。


「クリスがまたやった……!」

「やっぱりアクマなのよ! さわらないでボールをこわすなんて!」

「違う! ぼくがやったんじゃ……っ」


 クリスが弁解しようとするも、慌てて逃げようとした子どもの一人が転んで、膝をすりむいた。

 血が流れるのを見ると、子どもはみるみる涙を浮かべて、やがて大声で泣き出した。


「どうしたの!?」


 騒ぎを聞きつけて、シスターが教会から飛び出してくる。


「シスター!」

「うわあああん!!」

「あらあら、ヨゼフ。怪我をしたの?」

「クリスがやったんだ!」

「クリスがころばせたんだよ!」


 口々にクリスが悪い、という子どもたちに、シスターは困惑したようにクリスを見た。

 彼はただ、ぎゅっと唇を噛み締めて俯いていた。


「クリス、あなたがやったの?」

「……違うよ」

「うそつき!」

「うそだよ!」


 クリスの否定の言葉を、子どもたちが次々と否定していく。どちらを信じたら良いかわからないシスターは、宥めるようにクリスの肩をさすった。


「クリス、あなたがわざと怪我をさせたなんて思わないわ。でも、ヨゼフは痛い思いをしてしまったから。たまたまこうなったのだとしても、謝りましょう?」

「ぼくじゃ、ない」

「ええ、そうね。でもね、クリス」

「ぼくじゃない!」


 クリスが叫んだと同時。シスターの腕が裂けた。


「シスター!」


 子どもたちが悲鳴を上げて駆け寄る。

 シスターは信じられない思いで腕を押さえた。

 何かが、腕を切り裂いた。突風かと思ったが、ただの風にしては鋭利すぎる。


「クリス……」


 呆然と、目の前の子どもを見つめる。

 シスターはその時、恐怖から自らの役割を忘れてしまっていた。誰に対しても、シスターとして接しなければならなかったのに。

 彼女は、突然起こった理解不能な現象に対して。愛し守るべき子どもに、抱いてはいけない感情を抱いてしまった。

 その感情は。ありありと、クリスを見るシスターの目に映し出されていた。


「……っ!」

「クリス!」


 耐え切れずに、クリスはその場から走り去った。教会の敷地からも飛び出して、とにかく遠くへ逃げた。

 優しかったシスターが。シスターまでもが、あんな目で、自分を見る。

 もう何も信じられなかった。一緒に付いてきてくれた、()()以外は。


「……きみは、ずっとぼくの側にいてくれるんだね」


 微笑んでそう問いかければ、黒い塊は歯を見せて笑ったように見えた。


「君はそれと話せるのかい?」


 突如として割って入った男の声に、クリスは警戒を露わにした。

 声の主を見上げれば、カソック姿の男が立っていた。


「ああ、驚かせてすまない。怖がらせるつもりはなかったんだが」

「……どなたですか」

「見ての通りの神父だよ。名はトマス・アダムス。この近くの教会に用があってね。悪魔憑きの子どもがいるという噂を耳にしたんだが……もしかして、君のことかな」

「どうして、そう思うんですか」

「君が今話していた相手が、悪魔だからさ」

「……悪魔?」


 クリスは目を丸くして黒い塊を見た。

 ずっと側にいたこれは、物を食べたり、壊したりしていた。だから、空想などではないことはわかっていた。

 けれど、悪魔だと思ったことはなかった。悪魔とは、悪いものではなかったか。これは、自分に害をなしたことなどない。


「驚いたな。主従契約で縛っている様子もないのに、悪魔が自発的に言うことを聞いているのか」

「この子は、ぼくの友達です」


 クリスがそう言うと、トマスは目を瞬かせた後、大声で笑いだした。


「はっはっは! そうか、悪魔が、友達か!」


 大人に盛大に笑われて、クリスは不機嫌そうに顔を歪めた。


「あなた、ぼくに用があるんでしょう。いったい何の用なんですか」

「ああ、そうだな。ここで会えたのだし、まずは君に直接話した方が早いかもしれない」


 そう言って、トマスはクリスの前に膝をついた。


「君の名前は?」

「……クリストファー。みんなはクリスって呼ぶ」

「そうか。なぁクリス。悪魔祓い(エクソシスト)にならないか」

「……悪魔祓い(エクソシスト)?」


 今度はクリスが目を瞬かせる番だった。


悪魔祓い(エクソシスト)って、悪魔を倒すんでしょう。この子のことも、殺すんですか」

「そうだなぁ。そいつが悪さをしたのなら、祓わなきゃならないが。そうでないなら、祓わなくてもいい」

「……いいんですか?」

「ああ。使い魔といってな。私たちは、人間だけでは太刀打ちできない凶悪な悪魔と戦うために、悪魔を従えるんだ」

「従える……ぼくは、この子を、従えたいわけじゃ……」

「でもな、クリス。悪魔ってのは、基本的には人に良くないことをするものだ。馬だって、野生のやつが突然走ってきたら怖いだろう? 人が手綱を引いて、人間の言うことを聞きますよってアピールするから怖くないし、安全なんだってわかるんだ。それと同じだよ。私たちが悪魔に手綱をつけることで、この悪魔はちゃんと人間の言うことを聞くから、悪さはしませんよってアピールするんだ。そうすれば、君の友達は祓われずに済む」


 クリスは黒い塊をぎゅっと抱き締めた。

 年齢よりも知能が高いクリスには、トマスの言っていることが正しく理解できていた。それでも、急に受け入れられることではない。だから、彼は子どもらしい答えを返した。


「……よく、わかりません」

「……そうか」


 トマスは優しく微笑んで立ち上がった。


「答えは急がない。ゆっくり考えてくれ」


 そう言い残して、トマスはその場を立ち去った。

 残されたクリスは、友達の悪魔を抱えたまま、暫く立ち竦んでいた。



 すっかり暗くなってから、クリスは教会へ戻った。

 もう寝静まっているであろう他の者たちに気づかれないよう、こっそりと部屋に帰る途中。明かりの漏れている部屋があり、クリスは誘われるようにその部屋を覗き見た。その部屋には、母親代わりのシスターと、院長がいた。

 小さな声で交わされる会話を聞き取ろうと、クリスは耳を澄ませた。


「だから、売っておしまいよ。高値で買い取ってくれると言っているんだろう」

「そんな言い方はやめてください! あの子は物ではありません!」

「どんな言い方をしたところで、余所へ追いやることに変わりはないだろう。いいじゃないか、厄介払いができて、金も手に入るなんて。一石二鳥だ」

「まずはあの子の意志を確認しないと……」

悪魔祓い(エクソシスト)になる気があるか、って? 聞いたところでねぇ。実質選択肢などないんだろう。ならないというなら、悪魔憑きは処分するしかないって話じゃないか」


 ひゅっと喉が鳴った。

 名前こそ出なかったが、これはクリスのことだ。あの後、トマスが教会に来たのだろう。

 トマスは、クリスが自由に選べるような言い方をした。処分するなど、一言も。


「あんただって、怪我させられたんだろう。いなくなった方がせいせいするんじゃないか」

「そんなことはありません!」

「なら、あの子が成人するまで、あんたが面倒見られるのかい?」

「……それは……」


 シスターが言い淀んだ。その姿に、クリスは胸にずんと重い石を積まれた気分だった。


「私には、あの子の見ている友達が理解できません。ここに居ても、あの子を理解できる友人は一人も現れない。それなら、同じ境遇の子どもと共に、あの子の能力を伸ばせる場所で暮らした方が、あの子にとって幸せなのかもしれません」

「はん、綺麗な言い方をするね」


 嫌味な言い方だったが、クリスも同感だった。

 どんなに綺麗な言い方で取り繕っても、結局、シスターも自分の面倒はもう見たくないのだ。

 とぼとぼと部屋に戻って、ベッドに転がる。


「ここには、ぼくの味方は一人もいないんだな……」


 呟いたクリスの横に、黒い塊が同じように転がった。


「ああ、ごめん。きみがいたね」


 微笑みかけると、黒い塊はクリスにすり寄った。

 もう眠い。難しいことは、明日考えよう。

 そうして、クリスの意識は闇に沈んだ。



「――――……?」


 暑い。今夜はやけに蒸す。

 それだけじゃない。人の悲鳴が、聞こえたような。


「っ!?」


 起き上がったクリスは、目の前の光景が信じられずに息を呑んだ。

 部屋が、炎に包まれていた。

 ――教会が、燃えている。

 目を白黒させるクリスの服を、黒い塊がぐいぐいと引っ張っていた。

 半ば放心したまま黒い塊の誘導に従うと、炎の少ない道を通って、教会の外に出ることができた。

 燃え落ちる教会を瞬きもせずに眺めながら、クリスは呆然と問いかけた。


「これ……まさか……きみがやったの……?」


 傍らの黒い塊は、ただ歯を見せて笑った。それが肯定なのか否定なのか、クリスにはわからなかった。

 ただ、その黒い塊は。

 明らかに、大きくなっていた。


「ぼくが……いじめられたから……?」


 思えばいつもそうだった。この黒い塊が、誰かを攻撃する時は。先に、クリスが攻撃された時だ。


「――……ありがとう」


 クリスは、まるで天使のような顔で微笑んだ。



 ◆◇



 孤児院の火災は、蠟燭の火の消し忘れが原因だということだった。真相は、誰にもわからない。クリス自身にも、本当にあの黒い塊の仕業かどうか、わからなかった。

 住むところを失ったクリスは、必然的に他の教会に移らなければならなかった。そこで、クリスを悪魔祓い(エクソシスト)に勧誘していたトマスが、クリスを養子として引き取ることになった。

 クリスはクリストファー・アダムスの名を得て、本格的に悪魔祓い(エクソシスト)として訓練することになった。

 まず最初に行ったのは、ずっと側にあった黒い塊との主従契約だった。そのままの状態では、連れ歩くことはできないと言われたからだ。しかし。


「痛っ!」

「クリス!」


 トマスの監督の元、契約を行おうとしたところ。黒い塊は、クリスに牙を剥いた。


「どうして……」


 クリスは愕然とした。友達だと思っていたのに。自分を、守ってくれるんじゃないのか。


「まぁ、悪魔は首輪をつけられるのを嫌がるものだ。どうする。君の力なら、無理やり捻じ伏せて従えられると思うが」

「……いえ。もういいです」

「クリス?」

「ぼくに逆らうのなら、もういい。友達じゃない。――祓います」


 クリスは支給されていた聖水を黒い塊にかけた。本来なら聖書の一節を唱えたりするものだが、クリスの力が強いこと、そして黒い塊が低級悪魔だったことにより、それは呆気なく消滅した。


「……良かったのか?」

「ええ。あれは既に人に害をなしていましたから」


 そんなのは建前だ。結局、悪魔と人間は対等になどなれない。首輪をつけなければ飼えない。そうでなければ側におけない。

 本当はわかっていた。あの黒い塊は、別にクリスが好きで側にいたわけではない。ただ都合が良かっただけだ。クリスと共にいれば、クリスに何かあった時だけ人を襲えば、それはクリスの仕業になる。悪魔がいると騒がれて、自分が祓われる確率が下がる。何もしなくても食べ物を分けてもらえる。弱った時には力を与えてもらえる。あれは己の利益のためにクリスの側にいた。

 でもそれで良かった。純粋な利害関係だけで結ばれている方が、外側を塗り固めて見た目だけ綺麗に整えた人間より、よほど信用できた。幼く弱いクリスは、多数の人間から排除されて、それにうまく立ち向かう術を持たなかった。だからクリスにとっても、黒い塊の存在は都合が良かったのだ。クリスに傷を負わせれば、見えない何かが仕返しをする。その事実は、クリスの身を守った。

 悪魔はわかりやすい。その利害関係さえ保てるのなら、うまく付き合っていくこともできるだろう。首輪をつけて主人に決して逆らわないのなら、尚のこと。悪魔にとって良い主人であれば、彼らが離れていくことはない。

 祓われないように、守ってやろう。だからお前たちも、自分を守っておくれ。

 どうせなら強い悪魔がいい。もう二度と、誰にも虐げられないように。側においても、壊れないように。


「トマスさん。使い魔召喚を教えてくれませんか」

「あ、ああ」


 養父は、早くもこの少年の異質さに気がついていた。

 それでも、悪魔祓い(エクソシスト)は常に人手不足だ。有能な人材を手放したくなかった。

 だから、その違和感には目を瞑った。

 それが後に、どういうことになるかも知らずに。



 ◆◇



 クリスはめきめきと頭角を現した。初めて行った使い魔召喚で、強力な悪魔を従えたことはあっという間に噂になった。

 早くからトマスに連れられあちこちの現場にも顔を出し、祓魔(ふつま)を行う姿は大人をも畏怖させた。

 優秀な人材だ、素晴らしい才能を発掘した、と教会のお偉方はクリスをもてはやした。するとどうなるか。

 当然、同年代からは疎まれることになった。

 孤児院では悪魔を見ることができるのはクリスだけだった。だから同じ能力を持つ子どもたちならクリスの理解者になれるのでは、とシスターは考えていたようだった。そこが彼女の甘いところだ。

 同じ異能を持つ子どもだからといって、それだけで受け入れるほど人間は優しくない。

 仮に、大勢の中の二人きりであれば、お互いを理解しようと努めたかもしれない。けれどここにいるのは、皆悪魔祓い(エクソシスト)か、それを目指す者。つまり、ほぼ全員が異能者なのだ。

 そうなれば、もう異能は少数派(マイノリティ)ではない。異能こそが多数派(マジョリティ)だ。

 同じ条件下で人間が集まれば、人はまた弾き出すための異端を見つけ出す。

 変わらない。どこへ行っても。

 人間は。



「ああ、ちょうどいいところに、クリス!」


 養父に呼び止められて、大聖堂の廊下でクリスは足を止めた。


「どうかなさいましたか、トマス司教」

「クリス……二人きりの時くらい、そんな言葉遣いはしなくてもいいんだぞ」

「そうはいきません。昔とは、立場が異なりますから」

「それは教会内での位であって、君と私は親子じゃないか」


 澄ました顔のクリスに、トマスは溜息を吐いた。


「すっかり大人になって、可愛げがなくなってしまったな」

「元々あった覚えもありませんけどね」


 悪魔祓い(エクソシスト)として日々を過ごし、クリスは十八になっていた。体つきはすっかり成熟して、柔らかい顔立ちは信者たちにも好評だった。その人望から、じきに司祭として教会を一つ任されるのではないかと専らの噂だった。


「それで、何か御用ですか?」

「ああ、そうだ。急ぎで呼ばれてしまって、悪いんだがこの本を禁書庫に戻しておいてくれないだろうか」


 トマスから手渡された本と鍵に、クリスは目を瞠った。


「禁書庫は、司祭以上でないと立ち入りできないでしょう。私にこんなものを渡して、ばれたら懲戒ものですよ」

「なに、クリスなら大丈夫だろう。誰かに咎められたら、私から口添えしておく」

「またあなたはそんな……」

「頼んだよ。施錠を忘れずにな」


 言い残して、トマスは去っていった。

 自由な養父に頭を押さえて、クリスは禁書庫へと向かった。


 大聖堂の地下にある禁書庫は、常に施錠されている。利用には申請の上で鍵を借りる必要があり、その申請は通常司祭以上でないとできない。

 分厚い扉を開くと、書庫特有の少しカビ臭い独特な臭いが鼻をついた。

 明かりをつけ、目当ての棚を探し出す。


 ――ここか。


 トマスに渡された本を確認し、棚の中に戻す。

 クリスは興味本位で、棚に並べられた本を眺めた。

 この棚は、悪魔召喚に関する本だ。禁書庫に並べられているということは、かなり高位の悪魔。呼び出してはならないものたちが載っているのだろう。

 使い魔召喚では、術者の力量によって呼び出せる悪魔が異なる。しかし、使役を前提としない悪魔召喚においては。正確な手順を踏み、悪魔を現界させられるだけの霊力を与えられるのなら、素人でも行える。行える、というだけで、成功するかどうかは悪魔次第だが。

 普通なら、まず現界させられるだけの霊力を与えることができない。だがこれは生贄を用意することで補える。困難なのは手順の方だ。隔絶された世界を繋ぎ、針の穴を通すような繊細さで、知覚することのできない存在に呼びかける。それでも悪魔の方に応じるつもりがなければ、無視されるだけ。相応の()()がなければ、悪魔は応えない。

 目を引いた一冊の本を手に取って、ぱらぱらとめくる。禍々しい見た目の絵図を見て、クリスは目を伏せた。


「……サタン」


 その名を呟くと、傍らの気配が僅かに震えた。クリスの使い魔だ。同じ悪魔からしても、恐怖の対象なのだろう。

 キリスト教徒なら誰でも知っている。悪魔の王。元は天使だったものが、堕落したものだという。

 与えられた役割を捨て、主に反逆したもの。悪魔という存在になって尚、同族にも恐れられる孤高の王。

 彼は、自分の居場所がどこにあると考えていたのだろう。

 クリスは黙ってページをめくり、文字を辿った。

 その気になれば、クリスは目にしたものを一度で覚えることができた。その特性は、養父も知らない。

 クリスは暫くの間、そこに留まっていた。

 やがて本を閉じると棚に戻し、静かに禁書庫を出て行き、扉に鍵をかけた。

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