音声入力
最近、仕事がキツイ。
40を超えたころからやけに肩が凝るようになっちまってさ。長年敏腕ライターとしてやってきたというのに、めんどくせぇことになりやがった…。
頭の方はシャッキリしてるから、文章を考える分には問題がない。ただだだ、キーボードを叩く作業だけが、昔みたいに…勢いがつかなくなった。
昔は飯も食わずに終業時間まで作業し続けるなんてのも珍しくなかったのに、今は休憩は必須だわ、休みの日に整形外科でもみほぐしてもらわないと首が回らなくなるわで、実に始末が悪い。
「浜尾さん、キーボードを叩き過ぎなんすよ。あんなんじゃそりゃあ肩も指先もダメージキツイですって。ガチャガチャやらなくても、最近の機材はちゃんと入力できるのに」
後輩がありがたいアドバイスをくれるものの、長年にわたって身体に染み付いちまった習慣ってのはなかなか取れるもんじゃない。文章は手で書いてこそ身につくもんだと上司にしつこく言い聞かせられたせいで、わざとらしく音を立てて打ち込む癖が付いちまったんだよなあ。
何度も何度も酒の席で変形した中指を見せられて、『俺が入社した時は鉛筆が一日でなくなるレベルで原稿を書いていたんだ』と説教された日々を思い出す。
痛み止めの薬を飲みながらだましだまし仕事をしていたある日、部下から『音声入力』を勧められた。
正直、今更入力方法を変えるつもりはないのだが。
なんというか、若者の声を聞かずに己の信念を貫き通す老害にはなりたくないっつーか。
……まあ、試してみるかってね。
スマホにアプリを入れ、おそるおそる最新のツールを、取り入れてみることにしたわけだ。
「あ、ちょっと会議室使ってくるわ!」
「了解でーす!」
「午後からは三人しかいなくなるんで、ここで入力してもいいぞ」
「コピーだけ使わせてもらいに行くかもですー!」
……音声自動認識システムの利便性には、恐れ入る。
アプリを導入して数週間、俺は使い勝手の良さをしみじみ実感していた。
入力のスピードが上がったうえに、肩の痛みがやわらぎはじめたのである!
全くキーボードを使わないというわけではないのだが、手を動かさない時間ができた事により肩の筋肉の緊張がほぐれるようになったことが幸いしているらしい。
声で入力するなんて、大したことないだろうとばかり思っていたんだが…最新の技術ってのはすげえもんだ。ため息や伸ばし棒、小さな間まで入力してくれるとは!
話し言葉で思ったことをサクサク入力できるので、書きたいフレーズや伝えておきたい小話なんかも書き留めることができて、非常に使い勝手がいい。
今までは【キーボードで打ち込む=原稿を書く】という認識だったので、画面を睨みつけてイライラしながら文字を入力することも多かったのだが…、とりあえず書きたいことを声で入力しておいて細かい部分を修正するという作業方法が自分に合っていたらしく、地味に執筆速度が上がった。
その作業効率たるや、月間生産数でランク入りするほどなのだ。
社長から部下の意欲を削ぐ事をするんじゃないと小言を言われるとか…いつぶりだ?
音声入力ってのは、慣れると驚くほど効率があがるんだよなあ。
最近は思いついた端から声を入力しておいて、空いた時間にまとめてプリントして、ちょこちょこ手直ししながら読み直して仕上げるというテクニックも身につけている。
いやあ、最新技術様々だ!
機嫌よく調子に乗って、仕事に打ち込んで…はや一年。
「…うん?また変なことになってんな。なんだよ『返信らんまん』って…、ちょ、『具の根』?」
近頃、やけに入力がうまくいかないんだよな…。
やたら誤変換が多いというか、聞き間違いが多いというか。
結局、AIだとか機械、プログラムっていうのはこんなもんなのかね。やっぱりしょせんただの無機物…人間の言葉を正しく聞けるのは、人間だけなのだろうな。
……ああ、でも、もしかしたら。無料のやつを使っているからかも?
売り上げの入賞ボーナスも出たし、有料のソフトでも買ってみるか……。金を出せば、こんなショボいアプリとは違うだろうし、満足のできる結果に……。
「あれ、浜尾さん、それ…買うつもりなんですか?」
チーズ蒸しパンを食いながら音声入力ソフトを吟味していたら、営業2課の前野がのぞき込んできた。
「ああ、無料のやつが調子悪くてさ。最新のやつでも導入しようかと思ってね…」
「スマホとか…、マイクが壊れてる場合もありますよ?いきなり買うのは…どうでしょう」
そうか、入力するための機械部分がやられている場合もあるのか。
「ちょっと、お借りしても?」
「ああ、どうぞ」
スマホは買い替えてまだ一年経っていない。本体は問題ないはずだから、アプリの不具合の可能性が高そうだ。
「本日は晴天なり、ナマムギナマゴメナマタマゴ、ホーミタイナツダッテイージャナイ、寿限無寿限無ゴコウノスリキレ・・・ちゃんと認識してますね」
「いやいや、そんな、ばかな。本日は晴天なり、生麦生米生卵、ホーミータイダーリン♪、ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレ・・・ほら」
ちゃんと入力されている前野の文章の下につづいているのは、
『フォン実は栄転なり、ナハムリ生お目奈々田名後、近江多肥ガーリン、無下夢図ゲム古法の売り切れ』。
…なんだこれ。
もしかしてこのアプリ、年齢制限とかついてるんじゃないだろうな。
そういえば、先週俺は50になったばかりで……。
「あー、わかりました。これはね…、そうですね、浜尾さんね、ええと…歯医者行ってください」
「…歯医者?なんで?」
俺は歯医者という名前を聞くだけで尻のあたりがムズムズするタイプであって……。
「…もう一回、さっきのやつ、しゃべってもらえます?」
差し出されたうすっぺらいスマホに向かって、同じ文言をつぶやいてやる。
「本日は晴天なり、生麦生米生卵、ホーミータイダーリン♪、ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレ」
『ふぉんじふはへいへんなり、なはむひなはおめななたなご、おーみーたにだーうぃん♭、うげむうげむどふぉうのふりきれ』
………。
なんだ、この…滑舌の悪い、はっきりしない声は。
ちょっとまて、俺は…こんなにも聞くに堪えない発音を?!
「前歯の差し歯が取れたのって、春ごろでしたよね。なんか先週も奥歯が勝手に抜けたとか言ってましたし、アプリの否定をする前に…自身の体をしっかりメンテナンスした方が良いと思います……」
最新の、最先端技術が潤沢に使われたアプリは、現実を突きつけていただけだったらしい。
頭で思い浮かべた言葉はそのまま声にはならず…、おかしな音声としてアプリに拾われていたにすぎなかったのだ………。
「ぼく、いい歯医者さん知ってますよ。ええと、ここなんですけど…マイクロカメラが…」
ぐうのねもでなかった俺は、前野くんの勧めるままに…最新技術が導入されている歯医者の予約をしたのだった。