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壱の八 幸せは弾ける炭酸のように

「行くぞ」


 そう仰って台所を颯爽と立ち去った旦那様の後ろ姿を私はいそいそと追いかけた。そうして、広大な廊下を歩いた先に辿り着いたのは、こぢんまりとした畳の間だった。……無論、実家の私の部屋よりは遙かに立派で綺麗ではあるが。


 この豪奢な屋敷の中では一際、小さく、庶民的で、わびさびを感じさせる一室だ。坂田さん曰く、長年生きている妖怪にとって洋室よりもこれくらいのちんまりした和室の方が落ち着く、とのことだった。


 成程、その気持ちは大いに理解できる――が、旦那様と二人きりという異常事態に私の心は落ち着きとは正反対のてんてこまいであった。


「そう緊張するな」


 ちゃぶ台の前にゆったりと腰を下ろした旦那様は「これを使え」と座布団を差し出してくれた。対する私は震えながら、ここで変にへりくだっては気分を害してしまう、と判断して座布団にそっと膝を揃えて座った。


「ソーダ水を飲んだことは?」


「え、えと……ない、です」


 朧さんがくれた本で読んだことはあるけれど、口の中でしゅわしゅわする炭酸というものが何なのかまったく想像できなかった覚えがある。


「そうか。オレも初めて飲んだ時は仰天したものだが、存外美味いものだぞ」


 旦那様は瓶の王冠を栓抜きを使って慣れた手つきで外し、ガラス製のコップにソーダ水を注ぎ込んだ。


 とくとくとくとく、しゅわしゅわしゅわわわわっ……。


 ソーダ水が奏でる不可思議な音は清涼感たっぷりで、とても耳心地が良いものだった。


「さあ、飲むといい。悪夢を見た不快感を吹き飛ばしてくれるはずだ」


「あ、ありがとうございます……!」


 差し出されたコップを恐る恐る手に取ると、指先にひんやりとした冷たさを感じて私は思わずひっくり返りそうになった。が、寸前で何とか踏ん張って耐えきり、できる限り平静を装うことに成功した。


 ……私の挙動不審な所作を見た旦那様は一瞬、目をギョッと見開いていたけれど。


「……けほん」


 小さく咳をして、ひんやりとしたコップを改めて手に取った。


「い、いただきます……」


 旦那様が注いでくれたソーダ水を、旦那様より先に飲んでしまってもいいのだろうか。しかし、旦那様は私が飲むのを期待している様子で見守ってくれている。ならば、飲んでしまってもいいのだろう。と、頭の中で反復する葛藤を繰り返した末、私は腹を括った。


 そして、ソーダ水を勢いよく口に含んだ瞬間、ぷしゅ! と、これまで私の口内が感じたこともない刺激に見舞われた。


 その刺激に驚いている暇もなく、ぷしゅ、ぷしゅ、ぷしゅしゅっ! と、次々にあぶくが爆ぜていく。それはまるで、十年以上前にお父様と一緒に夏祭りへ行った時に見た花火のように、容赦なくドンドコ、ドンドコ、ドンドコドン、と連続で弾けていった。


 目まぐるしい刺激にもごもごする私の口内に続いて広がったのは、砂糖の甘さだった。それもただの甘さではなく、夏の訪れを想起させるかのような爽やか極まりない甘さだ。


 爆ぜるあぶくと、爽やかな甘さ。


 それらが折り重なるように口内で暴れ回り、踊り舞う。


 この激しさはもはや夏祭りの花火でも、夏の訪れでもない。


 これは、そう――


「お口の中がデモクラシイですッ!」


 たまらず叫んでしまった言葉に私はびっくりした。しかし、それ以上に面食らったのは旦那様だった。迫力の美貌をぽかーんと崩し、目をまん丸にして私を見つめていた。


「ぷっ!」


 突如、旦那様は吹き出した。


「はははははっ!」


 目を細めて、おなかを押さえて、旦那様は大きな声で笑い続けた。それはもう、呵々大笑、と言って然るべき大笑いだった。


「お口の中がデモクラシイ、だと? ぷっ! はははは! 何だ、その珍妙な言い回しは! ははははは!」


 それから旦那様はしばらの間、笑い転げていた。どこか冷たく恐ろしく、翳りを纏った神秘的な存在という、これまでの旦那様の人物像が一瞬にして崩壊するほど、ゲラゲラと。


 そんな旦那様の姿を目の当たりにして、私は耳が凄まじい熱を帯びていくのを感じた。


「それに、その嬉々とした晴れやな表情は何だ! ははははっ! よっぽど、ソーダ水が美味かったのか? 所在なさげにおどおどしていた娘と同一とは思えんぞ!」


 ひぃ、ひぃ、と乱れた息を整えながら旦那様は目尻に浮かんだ涙を拭った。


「実に……実に、愉快だ。こんなに笑ったのは百年ぶりだ」


 きっと、今の私は赤茄子よりも真っ赤な顔をしていただろう。


「……ああ、笑いすぎて腹が減ったな」


 旦那様の言葉で私はハッと気がついた。坂田さんに今日の朝食を任されていたんだった、と。


「す、すぐに朝食の準備します!」


「慌てなくていい。ゆっくりで大丈夫だ」


 そう仰った旦那様はソーダ水をグッと飲み干し、「これは確かに、口の中がデモクラシイだな」とニヤニヤ笑った。私の顔は火を噴くかの如く熱くなっていた。


   ▼   ▼   ▼


「美味い。うむ、美味い」


 お膳の上の小鉢を次々に空っぽにしていき、旦那様は穏やかな口調で満足げに頷いた。


「やはり、お前の飯は美味いな。特に、きんぴらは絶品だ」


「あ、あわわっ。も、勿体なきお言葉を――」


 思いがけもしなかった旦那様の言葉を受け、私は畳の上に自然と三つ指を突いて頭を下げていた。まさか、まさか、これまでの私が作った料理をちゃんと食べてくれていて、あまつさえ! 美味い、と褒めてくださるとは――!


「ふふ。そんなにかしこまらなくていい。オレ達は主従でも何でもない、夫婦(めおと)なのだから」


 それから、旦那様と共に朝食を食べながら色々な会話に花を咲かせていった。新聞記事のこと。噂の活動写真のこと。好物のこと。坂田さんのお節介のこと。唐傘さんと提灯さんの悪戯のこと。


 旦那様は静かに笑い、つらつらと語り、時に、ふてくされた顔で文句を垂れていた。


 それは、とても穏やかで、とても幸せな時間だった。これまでの緊張と不安と焦燥感が溶けて消えていくかのように、私の心は温もりに包まれていた。

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