壱の七 禍々しい夢
「……あの、旦那様についてお訊きしても大丈夫でしょうか?」
「ええ、勿論ですよ」
快く受け入れてくれた坂田さんに感謝して、私は意を決して疑問を口にした。
「何故、旦那様はひきこもるようになったんでしょう……?」
私の質問に坂田さんは数瞬、黙りこくった。禁忌だったのだろうか、と怯える私の顔をチラリと見て、坂田さんは優しく頷いて開口した。
「怪王様の真意は私では推し量ることはできません。が、原因は存じております」
「原因……」
「はい」
切り崩した豆腐の欠片を火のかかった鍋の中にぽちゃん、ぽちゃん、と投入して坂田さんはどこか悲しげな表情を滲ませた。
「百年前、江戸の街を一体の大妖怪が襲ったのです。その大妖怪の名は――空亡」
「そら、なき……?」
朧さんからいただいた本や雑誌には載っていない、まったく見知らぬ大妖怪の名に心の奥がざわめいた。何一つ知らないというのに、空亡という存在に私は計り知れない畏怖を感じていた。いや、何一つ知らないからこその畏怖というべきか。
未曾有の恐怖。
「空亡は人々の憎悪の感情が寄り集まって生まれたおぞましい怪物です。妖怪も人も関係なく、無秩序に近づくもの全てを焼き尽くす……暗黒の炎を纏う死の太陽、それが空亡」
「妖怪も、人も、ですか……」
「はい。あの時の江戸は阿鼻叫喚の地獄絵図でした」
記憶に焼き付いている光景を思い返しているのか、坂田さんは油汗を流して震えていた。
「空亡に立ち向かった百鬼夜行は幾人も、幾人も焼き殺されました。建物の悉くは燃やし尽くされました。……それでもなお、果敢に戦い続け、怪王様が命からがらトドメを刺したのです。そうして長き戦いの末、江戸の街に平和が舞い戻りました」
ふぅ、と重たい息を吐き出して坂田さんは額に浮かんだ油汗を手ぬぐいで拭き取った。
「怖がらせてごめんなさいね。でも、空亡はきっちりと怪王様が成敗したのでご安心を」
「そ、そうですか……。けれど、そのような出来事は歴史の本にはどこも書かれていませんでしたが……それは何故なんでしょう?」
「それはもう、怪王様を筆頭に沢山の妖怪達が奮闘して江戸の街並みを修復し、死んだ者達を別の命に転生させて、皆の記憶を平和なものに改竄しましたから。覚えているのは我々、妖怪だけなのです。……あんな地獄、人の歴史には不必要な記憶ですから」
死んだ者を別の命に転生。
記憶を改竄。
とてつもないことをケロリと言ってのけた坂田さんに私は驚きを隠せなかった。と同時に、そんなことができる妖怪達が幾人もいてなお、甚大な被害を起こした空亡の絶大な強さに震え上がった。
「空亡を成敗し、怪王様は隠居するようになりました。最初は怪我の治療のため、という名目でしたが……真意は私には推し量ることはできません。そして、怪王様が人前から姿を消したことで、連なるようにして百鬼夜行の妖怪達は人々の社会から去って行ったのです」
そう語り終え、坂田さんは「暗い話をしてしまいましたね、おほほ!」と無理矢理に明るく笑った。
私は何も返す言葉を持ち合わせてはいなかった。
▼ ▼ ▼
赤黒く焦げた死体が転がっている。
一瞬、お父様の死体かと思ったが、それは全然違う人だった。
しかも、それは一つではなかった。それらだった。赤黒い死体の山々だった。
轟々と何か燃える音が聞こえているが、正体はわからなかった。
瓦礫の上をぐしゃぐしゃと歩く音も聞こえていたが、正体はわかなかった。
空は黒く、太陽は紅く、大地は白かった。
そして、その先に立つ白銀の髪の男性が黒い羽織を翻し、殺意のこもった眼差しを向けていた。――――私に向けて。
私に向けて?
何故どうして?
殺される?
殺してしまう?
「――――ッ!」
……。
…………。
目を開けると、そこには見知った自室の天井があった。酷い頭痛を感じながらも私は布団からズリズリと這いずり出て、汗でびっしょり濡れた前髪を拭った。乱れた呼吸を整えて冷静になると、悪夢を見ていたことを思い出した。
どうやら、坂田さんに聞いた空亡という大妖怪から連想した阿鼻叫喚の地獄絵図をおぞましい悪夢として見ていたようだった。
大丈夫。
大丈夫。
もう大丈夫。
そう必死に自分へと言い聞かせて、着替えと洗顔を済ませてから私はふらふらとした足取りで台所に向かった。いつものように挨拶をしようと坂田さんを探したが、どこにも見当たらなかった。
代わりに、不服そうな顔の旦那様が台所のテーブルに腰掛けていた。
「だ、旦那様……!」
背筋をピンと伸ばして、私は目をパチクリと開閉させた。
まさか、こんな早朝に旦那様と顔を合わせることになるだなんて! しかも、坂田さんもいない二人きりの状態で!
私に気づいた旦那様は「ふん」と鼻を鳴らした。
「坂田は買い物に出かけているぞ。こんな朝っぱらから、特売品がああだのこうだのとはしゃいでおったわ。……で、オレはお前への言伝を頼まれて待っていた、というわけだ」
「こ、言伝、ですか……?」
「ああ。早朝から買い物に出かけるので申し訳ないが今日の朝食は任せたい、とな。……まったく、こんなもの適当に書き置きを残しておけばいいだろうに」
眉間に深い皺を刻み、「召使いが主人を顎で使うとは信じられんぞ」と旦那様はブツブツと文句を垂れ流した。
「ところで……顔色が悪いが、どうした? 体調でも優れないのか」
「え? あ、えと……い、いえ! ちょっと悪夢を見てしまっただけでして……っ!」
旦那様に心配をさせてしまったことが申し訳なく、私はあたふたと慌てて言葉を取り繕った。対する旦那様は至極落ち着いた様子で静かに首肯した。
「悪夢、か。あれは嫌なものだな。……ふむ、そういう時には丁度いいかもしれんな」
そう仰った旦那様は傍らに置いてあった半透明のガラス瓶を片手で持ち上げ、私の前に差し出した。瓶のラベルにはハイカラな筆字で『炭酸』と書いてあることから、それがソーダ水であるのがわかった。
「坂田からのもう一つの言伝だ。このソーダ水をオレと一緒に飲め、だとさ」
戸棚の引き出しから栓抜きを見つけて、旦那様は目を細めて唇を尖らせた。
「東北の雪女から贈られてきたものらしくてな。妖術の類か何だか知らんが今も冷たさを維持している。……百鬼夜行を束ねていたのは百年も前のことだというのに、律儀なものよ」
百年前の百鬼夜行――旦那様のひきこもり――空亡と、思考が悪夢の記憶へと連鎖して、私は反射的に身震いした。
「坂田のお節介に乗ってやるか。……夫婦である以上、こういうのもたまにはいいだろう」
「え……?」