壱の六 百年目の縁談
かぐわしいお味噌の香りが漂う台所に足を踏み入れ、テキパキと野菜を切っている坂田さんに恐る恐る声をかけた。
「あ、あの坂田さん……」
「あら、色葉さん」
私に気づくと坂田さんはニッコリと笑って包丁をまな板の上に置いた。
「おなか空いちゃいました? もう少し待っていてくださいね。あ、そうだ。お饅頭がありますのでよろしければどうぞ~」
「い、いえ! その、おなかは全然大丈夫です……! ただ、えっと……私にも何か、お手伝いをさせてほしいな、と思いまして……」
言葉を詰まらせながら喋る私に対し、坂田さんは急かすこともなく責めることもなく、穏やかな面持ちで話を聞いてくれた。
「お手伝い、ですか。ふーむ。お気持ちはとても嬉しいのですが、こんなことは召使いのババアに任せて、色葉さんはまったりしてくだされば良いのですよ」
「……まったり?」
「はい。まったり、と」
「えっと……まったり、というものがよくわからなくて。すみません」
私の返答に坂田さんは一瞬、首を傾げて眉間に皺を寄せた。が、すぐに柔らかな笑みを浮かべて優しい言葉をかけてくれた。
「お家ではいつもどうされていたんです?」
「……お母様と妹の指示通り、家事をしておりました。炊事、洗濯、掃除……と。それが私の役割でしたので」
「そう……苦労されていたんですね」
「い、いえ! 苦労といわけでは――」
気を遣わせてしまった、と反省して私は慌てて首を横に振った。
「ふふっ。大丈夫ですよ。……それじゃあ、色葉さん。折角ですし、夕食の準備を手伝ってもらえるかしら?」
「は、はいっ!」
思わず大きな声で返事した私をびっくりした様子で見つめ、坂田さんは微笑んだ。
それから、私は坂田さんと一緒に夕食の準備を始めた。料理をしながら、他愛もない会話に花を咲かせる穏やかな時間。これが、まったりというものなのかもしれない、と私は初めての感動を噛み締めた。
「おなか空いたーっ!」
「おなか空いたーッ!」
突然、唐傘さんと提灯さんがドタバタと跳びはねて台所にやってきたのを見て、坂田さんは呆れ半分嬉しさ半分の笑顔を浮かべた。二人ともぐっすりと昼寝をしたからか元気満々の様子だった。
「もう少しだから、おとなしくお待ちなさいな」
「はーい!」
「あ! お饅頭ある!」
「お饅頭! お饅頭!」
饅頭を見つけてはしゃぐ唐傘さんと提灯さんを可愛らしく思いつつ、料理の最後の仕上げを済ましていると――
「あらま。匂いにつられて、もう一人やってきましたわ」
――やってきたのは他でもない、旦那様だった。
「匂いにつられてきたわけではない。唐傘と提灯に用があるから探していただけだ」
ぶっきらぼうに言葉を返して旦那様は鋭い視線をゆっくりと動かし、台所を見渡した。そして、私と目が合うと怪訝そうに顔をしかめた。
「何をしている」
「え、えと、その……お、お料理を」
私の答えと共に旦那様はテーブルの上に準備されたお膳を発見し、「ほう」と小さな声を漏らした。
炊きたての白米、焼き鮭、豆腐の味噌汁、きんぴらごぼう、野菜の煮物、と私の得意な和食がずらりと並んでいる。お母様と彩花ちゃんが味付けに滅法厳しかったおかげで料理はそれなりに自信があるけれど、旦那様のお口に合うかどうかは……未知数だ。
「そうか」
再び私の顔を一瞥した後、旦那様は饅頭を食べている唐傘さんと提灯さんに声をかけた。
「唐傘、提灯。飯を食ったら書斎に来い」
「えー? なになにー!」
「お駄賃くれるー?」
そして、台所を立ち去ろうとした旦那様は不意に立ち止まり、坂田さんに声をかけた。
「飯は一人で食う。書斎に運んでくれ」
そう言い残し、旦那様は颯爽と立ち去っていった。
「あらあら」
旦那様の背中と私の顔を交互に見やり、坂田さんは嬉しそうにニマニマと顔を緩めた。
▼ ▼ ▼
結婚してから一週間が経った今日も、相変わらず旦那様は書斎にひきこもっていた。たまに台所に顔を出したり、新聞を受け取りに来たりすることもあるが、ほとんど顔を合わせることはない。
はたして本当に結婚していると言えるのだろうか、という疑問さえ沸いてくるほどに。
最も、妖怪と人間の結婚の基本形態というものを知らないので案外これが普通なのかもしれないが。
などと少しは前向きなことを考えていられるのは、ひとえにこの屋敷での暮らしが平穏だからだ。
優しい坂田さんとお喋りをしたり、一緒に料理をしたり、旦那様に内緒でおやつを食べたり。可愛らしい唐傘さんと提灯さんと追いかけっこをしたり、喧嘩独楽をしたり、旦那様に内緒でおやつを食べたり。……と、とても楽しい毎日を過ごしている。
お母様にぶたれることも、彩花ちゃんに罵られることもない、穏やかな日々だ。
「怪王様のことはお気になさらないでいいですからね」
いつものように台所で料理をしていると、坂田さんは微笑みながら声をかけてくれた。
「ああ見えて人見知りなんですよ。しかも、百年間ひきこもっているせいで人付き合いが更に苦手になられて……まったく困ったもんですよ」
「あは……はは」
流石に何と反応していいものかわからず、私はヘタクソな愛想笑いを返した。
「ですからね、色葉さん。旦那様は決して色葉さんを嫌っているわけではないんですよ。ただ、不器用なだけですから」
流麗な包丁捌きで豆腐を切り分けながら、坂田さんは眉を八の字に曲げた。
「……それにしても、まさか本当に旦那様が結婚をするだなんてねぇ」
「え?」
聞き返した私に向き合い、申し訳なさそうな表情で坂田さんは静かに俯いた。まな板の上で豆腐が一切れ、へにゃりと崩れ落ちた。
「正直に白状しますと……色葉さんを縁談相手に選んだのは偶然だったんです」
「偶然……?」
「私は、ずっとひきこもって隠居している怪王様の孤独を癒やしたい、という老婆心で縁談を出し続けていたんです。怪王様には毎度、嫌がられていましたがね……ほほほ」
虚空を眺めて坂田さんは苦笑いした。
「縁談の失敗が数百件続いた頃、私も少し疲れてしまいまして……まともにお相手を探すのを辞めたんです」
「……というと?」
坂田さんの返事を聞くのが怖くて私は、ごくり、と唾を飲み込んだ。
「……投げたサイコロの出目に合った住所の中から適当にお嬢さんを選ぶ、という方法です。その結果、探し当てたのが色葉さんだった、というわけです」
坂田さんの告白に私は言葉を失った。
可愛くて華のある彩花ちゃんなら兎も角、ちんちくりんの私に縁談だなんておかしいとは思っていたが……それにしても、よもやよもや、サイコロで決めたという真実には流石に度肝を抜かれてしまった。
今更、嘆くこともないけれど。びっくりし過ぎて開いた口が塞がらない。
「ごめんなさいね」
「い、いえ、全然……」
「私が縁談に選んだ相手は人間と妖怪問わず、百年間で合計千人。その千人のうち、怪王様が興味を持ったのは色葉さんただ一人なんですよ。それだけ色葉さんは素敵なお方ということですから、自信を持ってくださいね」
百年間、千人のうちのただ一人。旦那様にとって同じガラクタ出身ということが余程、運命的だったのだろうか。それとも父親殺しの呪いに興味を持ったのだろうか。