壱の五 不思議な結婚生活
「怪王様のひきこもり癖は気にしないでくださいな」
旦那様がいなくなった静かな洋室でティーカップを片付けながら、坂田さんは穏やかな口調で言った。
「この百年の間、ずっと隠居しているんです。ほとんど外に出ることもなく、客人に会うこともなく、書斎で一人。まったく何をしているのやら」
「そ、そうなんですね……」
結婚を心変わりしたわけではなさそうで、私は一先ず安堵の息を漏らした。最も、こんな私と電光石火の婚礼の儀を行った理由がはっきりとわからない以上、完全な安息はないのだけれど。
旦那様曰く、運命的だそうだが……。
「色々といきなりのことで目まぐるしいと思いますが、なるべく穏やかにお過ごしくださいね。私も住み込みでいますから、困ったことがあればいつでも頼ってくださいませ」
「……は、はい」
「大丈夫ですよ、何とかな~る。何とかな~る」
幼い子供をあやすような独特の口調で坂田さんは楽しげに私を励ましてくれた。
「そうそう、お部屋にご案内しますね」
そうして、長く煌びやかな廊下を歩いた先に案内されたのは、綺麗な畳が広がる大きな部屋だった。優しい明かりを照らす電灯、漆塗りのちゃぶ台、可愛らしい花柄の座布団、更にはふかふかの布団までもが完備されている。
ここに私が住ませてもらう……? 信じられない夢のような光景に私は言葉を失った。
ささくれすぎてザクザクの畳、永遠に明滅する電灯、ちゃぶ台代わりのひしゃげた紙箱、座布団代わりの布キレ、干物のようにペラペラの煎餅布団、という実家の自分の部屋とは比較できないほどの極楽の地だ。
いや、それ以前にみすぼらしい着物姿のちんちくりんの私には勿体ないにもほどがある。
「あら? 和室の方が好みかと思ったのですが、お気に召しませんでした? 洋室にしましょうか?」
「い、いえ!」
心配してくれた坂田さんに申し訳なく思い、私は慌てて首を横に振った。
「こんな素敵な部屋、私には不釣り合いだと思いまして……」
「そんなことないですよ。色葉さんはとても素敵な方ですもの」
坂田さんの優しい慰めの言葉が余計に申し訳なく、かといってこれ以上うだうだと卑下し続けるのも迷惑だと思い、私は小さく頷いて部屋の片隅に縮こまった。
「必要なものがありましたら、いつでも申してくださいね。あ、お金のことも気にせずに。ああ見えて怪王様は不動産運営や投資で稼いでいらっしゃいますから」
旦那様は妖怪の王様であることに加えて、仕事の面でもすごい方なのか、と私は驚きを隠せなかった。
「妖怪達との同居は初めてのこと尽くしで気疲れするとは思いますが、人も妖怪も大差ありませんので本当に気楽にしてくださいね」
妖怪達との同居。
そういえば……塵塚怪王の旦那様、付喪神の唐傘さんと提灯さんが妖怪だというのは習知の事実だが、坂田さんはどうなのだろう? どこからどう見ても心優しいおばあさんにしか見えないけれど。
「あ、えっと……坂田さんも、その……」
妖怪ですか? と直球で聞くのは不躾かと思い、もごもごするしかない私の疑問を察し、坂田さんは何でもない様子であっけらかんと頷いた。
「ええ、私も妖怪ですよ。山姥です」
山姥。
山に潜み、人間を食い殺すと言われている妖怪だ。朧さんがくれた本に載っていた山姥の絵は坂田さんとは似ても似つかぬ、おどろおどしい鬼の形相をしていた。優しい坂田さんが山姥とは、と私は驚いて開いた口をしばらく閉じることができなかった。
「大昔は山という山を駆け巡り、暴れ回っていましたがねぇ。旦那様と出会って改心し、召使いとして行動を共にするようになったんです」
人間の私では計り知れない途方もなく遠い過去を思い返しながら、坂田さんは「懐かしや、懐かしや」と朗らかに頷いた。
同じく朧さんがくれた本には、かつて妖怪は人々に畏れられながらも敬われていたことが記されてあった。戦国の乱世では時に争い、時に手を組み、戦火を駆け抜けた、と。かの豊臣の太閤様は妖怪と特に懇意だったらしい。
「百鬼夜行を束ねる怪王様のお姿を色葉さんにも見せてあげたかったですねぇ」
「す、すごい妖怪の方々を引き連れていらっしゃったんですよね?」
唐傘さんと提灯さんから聞いたことを思い返し、私は言葉を返した。
「ええ。それはもう、凄まじい迫力でしたわ。九尾の狐、刑部の狸、鬼の集団、龍神様、がしゃどくろさん、絶世の雪女。……名前を挙げればキリがないほどの偉大な妖怪達の戦陣に立つ怪王様の偉大さたるや!」
興奮して大きな声を上げてしまったことを恥じて、坂田さんは可愛らしい咳払いと共に居住まいを正した。
「そんな怪王様も今では、立派なひきこもりになってしまいましたがねぇ。ほほほ」
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屋敷の中を一通り案内してくれた後、坂田さんは夕食の準備があるということで足早に去って行った。
私も何か手伝えることがあれば……と思ったのだが、坂田さんは廊下を疾風の如く速さで駆け抜けていったため、ついぞ申し出すことはできなかった。流石は山姥、という身のこなしだった。
なので私は今、部屋の片隅で一人ぽつねんと物思いに耽っていた。
お母様や彩花ちゃんの部屋よりも遙かに大きく、綺麗な部屋。それはまるで、絵本で読んだお姫様の部屋のようで、そわそわしてしまう。私なんかがお姫様だなんて無理があるのはわかってるけども。
でも、ガラクタ姫というのは御伽噺の題名みたいでちょっぴり素敵かも。
なんて拙い妄想を頭の中で弄びながら、実家から持って来た荷物を畳の上に広げていった。荷物といっても、みすぼらしいボロボロの着替えが数枚程度だけだが。
今更ながら、こんな薄汚れた着物しか持っていない私が妖怪の王様のお嫁さんだなんて許されるのだろうか、と怖くなった。
「はぁ……」
こんな時、朧さんにいただいた本があれば読み耽りたいところだけど……彩花ちゃんに全て捨てられてしまったことを思い出し、憂鬱な気分が折り重なるだけだった。更に、負の感情が連鎖して、朧さんに結婚することを言えぬままに家を去ってしまった後悔が重くのしかかった。
私が妖怪の王様に嫁いだことを知ったら、朧さんは何て言うだろうか。
……後ろ暗いことばかり考えていると際限なく気分が落ちていく。このままではいけない、と思い立った私は気分転換に自室を出て、屋敷の中を散歩することにした。
ぼーっと歩きながら長く広い廊下に見蕩れていると、大きな柱の裏で二つの影が寝息をたてていることに気がついた。起こしてしまわないようにゆっくりとした足取りで近づくと、そこには唐傘さんと提灯さんが可愛らしい寝顔で眠っていた。
遊び疲れて、そのまま眠ってしまったのかしら?
小さな身体を揺らして、すぴー。すぴー。と寝息をたてる二人の姿はとても可愛らしく、ついつい見入ってしまうほどだった。妖怪というと恐ろしいものを想像していたけれど、この二人はまったくと言っていいほど怖くない。むしろ、無邪気で愛おしい。
唐傘さんと提灯さんを眺めながら、私はぼんやりと思考の海に浸かっていった。今度は後ろ暗さに溺れないように、なるべく浅瀬でちゃぷちゃぷと。
山姥の坂田さんと、付喪神の唐傘さんと提灯さん、そして塵塚怪王の旦那様。
妖怪達の暮らす豪奢な屋敷で人間は私一人。
何故、旦那様は私をお嫁様に見初めてくれたのだろう。坂田さんがいう一目惚れ、なんてことは私に限ってありえないし……かといって、旦那様の言う運命的という意味もわからない。
何か、意味があるのだろうか。
こんな私に何の意味があるのだろうか。
お父様が亡くなって十年間、お母様と彩花ちゃんにはいつもガラクタとして扱われてきた。ぶたれて、罵られて、痛めつけられ続けたけれど、それでも、あの家には私の存在意義はあった。二人の鬱憤を晴らす役割と、家事全般を行う仕事があった。
でも、この屋敷において私の意味は何なのだろう。
……ああ、またしても思考が悪い方向に進んでいる。と、気づいた私は不安と焦燥感に駆られ、坂田さんのいる台所に向かうことにした。
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