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肆の四 霹靂

「ふぅ……やはり夜風は心地が良いな」


 雲一つない夜空の下、涼やかな風に吹かれて旦那様は満足そうに何度も頷いた。


 旅館を出て、賑やかな居酒屋や出店のぽわぽわとした灯りを伝い、行く当てもなくゆったりと夜道を歩き、しばらくして小さな橋に差し掛かると、旦那様はおもむろに立ち止まった。


 古風な小橋の上で、浴衣姿の旦那様が羽織っているインバネスコートが夜の闇と同化し、妖艶な雰囲気を醸し出した。


「見ろ、色葉」


 そう仰った旦那様が指差した先に視線を這わせていくと、黒々とした夜空にぽっかりと穴を空けたかのような大きな月が煌々と照っていた。


「素敵……」


 うっとりと月を見上げた私の髪を細く長い指先で優しくなぞり、旦那様は朗々と笑った。


「月見で一杯、と洒落込もうか」


 旦那様の言葉に「風流で良いですね」と返した際、足下の川が僅かに波立ったことに気づき、私は目を見開いた。


「どうした、色葉?」


 川を覗き込むと、夜の闇を吸い込んだかの如く真っ黒な水面に小さな波紋が広がった。更に、もう一つ。続けて、もう一つ。


 ぽつり、ぽつり、と。


 水滴が鼻に当たったのを感じた時にはすでに雨が本降りになっていた。


「無粋な雨だ」


 翻したインバネスコートで私の身体を包み込み、旦那様は至極残念そうにため息を吐き出した。私は「あ、ありがとうございます」と旦那様の優しさに感謝しつつ、どんどん強くなっていく雨に心が揺らいでいた。


「このままでは身体を冷やしてしまう。さっさと旅館に戻るぞ」


 ざあざあ、ざあざあ。


 ざあざあ、ざあざあ。


 旦那様の声さえもかき消してしまいそうなほどの、篠突く雨。


「酷い雨だね」


 川のせせらぎのような思いもよらない声が聞こえて、私はハッと顔を上げた。


「やあ、二人共。こんばんは」


 旦那様と私に向かい合うように立っていたのは、軍服を着た爽やかな男性だった。理知的なセルロイドの眼鏡をかけ、艶やかな黒髪をおでこの真ん中で分け、柔和な笑顔を浮かべている――よく見知った顔。


 (おぼろ)さん。


 実家にいた頃の私にとって唯一の心の拠り所であり、様々なことを教えてくれた恩人。


 妖怪の身でありながら神の域に到達した存在。


 龍神の朧さん。


 旦那様にとっても、私にとっても、親しい人だ。


「色葉ちゃん」


 篠突く雨の音にもかき消されることのない、柔らかな声が鼓膜に響き渡った。


「十年前とそっくりだね」


「え……?」


 聞き返した私をニコニコとした笑顔のまま見つめて、朧さんは両腕を広げた。雨という雨を受け入れて、その身に浴び尽くすように。けれど、不可思議なことに朧さんの髪も服も乱れることはなく、それどころか身体の一切が濡れてはいなかった。


 ……龍神だから、だろうか。龍神は水を司る、と朧さんからいただいた本に載っていたし。


 ふと感じた疑惑に連鎖するように私は思い出した。


 帝都の喫茶店で会った時も、縁談に行く前に実家を訪れた時も、酷い雨の日だった。にも関わらず、朧さんはまったく濡れていなく、爽やかな笑みを浮かべていたのだ。


 朧さんは龍神だから雨に濡れることはない。


 そして。


 龍神の朧さんが姿を現す時、酷い雨が降る。


「キミのお父さんが死んだ時もそっくりの雨が降っていたのを覚えているかい?」


 ぐにゃり、と視界が歪むような眩暈を感じた。


 そんな私を旦那様は優しく抱き留めて、仮面のように穏やかな笑みを浮かべ続けている朧さんを睨みつけた。


「朧! 貴様、何を――」


「単刀直入に言うと、キミのお父さんを殺したのは僕なんだ」


 朧さんの言葉と共に雷鳴が轟いた。


「え……?」


 私は耳を疑った。何もかも空亡(そらなき)だった頃の悪夢だと思い込みたかった。けれど、降りしきる雨の冷たさが、響き渡る雷鳴のけたたましさが、あますことなく現実であることを証明していた。


 朧さんが私のお父様を殺した?


 違う。


 そんなわけがない。


 だって、お父様は雷で――――と、そこまで考えた瞬間、再び雷鳴が轟いた。


「色葉!」


 突然、旦那様は私を突き飛ばした。


 刹那。


 とてつもない雷撃が旦那様を襲い、肉が焦げる匂いと共に凄まじい衝撃で私は更に吹き飛ばされた。


「だんなさま……?」


 尻餅をついた私の目の前には、黒々と焼け焦げた旦那様が倒れ伏していた。


「このように、僕は神通力で雨風に加えて雷を自在に操ることができるんだ」


 何でもないことのように朧さんは飄々と言葉を続けていた。


 理解できなかった。理解したくなかった。それでも、理解せざるを得なかった。


 龍神の朧さんは雷を操り、十年前に私の目の前でお父様を殺した。そして、今、私の目の前で旦那様を――――


 そこまで考えて、私はよたよたと立ち上がった。


 ぴくり、とも動くことのない旦那様を見下ろして私は言葉を失った。涙も出ず、悲鳴さえも出すことができず、ただただ呆然と立ち尽くし続けた。


 ご馳走をたんまり食べて満たされていた胃がキリキリと痛む。


「それにしても、雷一つで死んでしまうなんて情けないですよ……我が王。百年間、ひきこもり続けた結果ここまで弱くなっていたとは。嘆かわしい」


 悲しそうな声色で言った朧さんだったが、丸眼鏡の奥の瞳はおぞましい喜びに満ちていた。


「十年ぶりに大切な人が目の前で死んだ気持ちは最悪だろう、色葉ちゃん」


「ど、どうして……」


 必死に絞り出した私の言葉に対し、朧さんはあっけらかんと笑ってみせた。


「あれ? 一目散に暴走すると思ったんだが……。成程、あまりの出来事に頭の中が混乱して憎悪を燃やせないでいるわけか。いわば、絶望から身を守る防衛本能ってわけだね。やれやれ、人間とは実にせせこましい生き物だ。」


 私には理解できない事柄を早口でぺらぺらと語って朧さんは何度も頷いた。


「安心していいよ、色葉ちゃん。この十年間、いつもしてきたように……キミのわからないことを僕が一つ一つ教えてあげるから」


 朧さんはにんまりと邪悪に笑って言葉を繋げていった。


「まず、百年前に我が王が成敗した大妖怪・空亡をキミという人間に転生させたのは僕なんだ。神通力を駆使してね。ただ、流石に妖怪を人間に転生させるのは骨が折れて、百年もかかってしまったけれど」


「朧さんが空亡を……」


 脳裏に焼き付いた赤黒く忌々しい記憶を思い返し、私は込み上げる吐き気を耐え忍んだ。


「うん。やっと百年越しに僕の悲願が成就するんだ」


「まさか……これまでのことは全て……私を、空亡として覚醒させるために?」


 恐る恐る問いかけた私を「ご名答!」と指差し、朧さんは爽やかな笑い声を上げた。その言動は十年間、慣れ親しんできた朧さんとまったく変わらないものだった。だからこそ、不気味で恐ろしかった。


 この人は十年間、私を騙してきた。


 百年越しの悲願を成就させる計画のために。


「人々の憎悪から生まれた空亡の力を覚醒させるためには、強い憎悪が必要不可欠だった。だから、十年前にお父さんをキミの目の前で殺してみせたんだ」


「そ、そんな――」


「でも、それだけじゃ全然足りなかったから、お父さんの死をキミの呪いのせいだとお母さんと彩花ちゃんの記憶を改竄して思い込ませたんだ。そのおかげで十年間に渡って酷い虐めの限りを尽くしてくれた。まったく、人間というものは醜く愚かなものだよ」


 朧さんは軽々しい身振りで調子で肩をすくめた。


 生命の転生と記憶の改竄。


 以前、坂田さんから聞いた空亡の話を思い出し、私は納得した。坂田さんが言っていた『死んだ人々の多くを別の命に転生させて、皆の記憶を平和なものに改竄した』その妖怪こそが朧さんだったのだ。神の域に達している龍神だからこその御業なのだろう。


 そして朧さんはその転生と改竄の力を用いて、空亡の復活を目論んだのだ。


「先日、お母さんと彩花ちゃんが屋敷を訪ねたでしょ? 本当はね、あれでキミの精神にトドメを刺して、空亡を覚醒させるつもりだったんだけど……少し急ぎすぎてしまったみたいだ。失敬、失敬」


 お母様と彩花ちゃんが言っていた呪われたガラクタ娘というのは、ほぼ事実だったのだ。私のせいでお父様が殺され、お母様と彩花ちゃんの人生は狂わされ、旦那様までも……。私の十九年の人生は、百年前から決定づけられていた。それは、もはや呪いだ。周りの全てを巻き込む呪いそのものだ。


 かつて、江戸の妖怪と人々を無秩序に殺した時のように。


 自分自身の意思も何も関係なく、存在するだけで全てを焼き尽くす絶望。


 それが私。


「お父さんの死で大きな悲しみを刻み込み、お母さんと彩花ちゃんによる十年間の虐待で内側からジクジクと精神を蝕ませて、そして最後の仕上げとして、新婚旅行という幸せの絶頂で大切な旦那様を目の前で殺した。ねぇ、色葉ちゃん……もう、限界でしょ?」


 朧さんの爽やかな笑顔が捻れるように醜く歪んだ。


「さあ、憎悪の炎に身を委ねるんだ……!」


 喉が酷く渇いていた。ちりちりと燃えるように痛かった。


 沸々と、何かがこみ上げてくる衝動を感じた。それは胃の底の、底、もっと深く。肉体の奥深く、心の裏側の果ての果てから。


 赤黒く。


 黒々と。


 ドス黒く。


 煮え滾る感情をもう抑えきれなくなっていた――――その時。


「色葉」


 凜とした声が篠突く雨の音を貫いた。

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