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肆の三 愛おしい言葉

「では、いただくとしようか」


 旦那様と共に両手を合わせた後、私は改めて料理の数々と向き合った。溢れかえるご馳走の数々はどれもこれも美味しそうで、どこから手をつけるべきか大いに悩み抜いた。


「ほぅ、こいつは絶品だ」


 悩んでいる私とは対照的に旦那様は早速、鮎の塩焼きを吟味して舌鼓を打っていた。目を細めて至極美味しそうに食べる旦那様の姿に見蕩れつつ、「それでは私も」と鮎の塩焼きに箸を伸ばすことにした。


 あまりに優雅な夕食に緊張し、ぷるぷると震える箸先で何とか鮎の身をほぐし、乱れる吐息を必死に整えて――――ぱくり。


「……ュァッ!」


 頭のてっぺんから放れたかと錯覚するような、言葉にならない声を上げて私は悶絶した。


 ふっくらと、それでいてキュッと引き締まった肉感! あと一歩踏み間違えれば、辛すぎてしまうだろう寸前の絶妙な塩加減! 口内に爆ぜるようにジュワッと染み渡る脂! それら全てが折り重なって食欲を刺激し、白米を求めて箸を駆り立てる!


「ッ~ん!」


 私は一心不乱に鮎の塩焼きと白米を貪り、歓喜に打ち震えた。


「ふっふっふ! 色葉よ、このオムライスもたまらぬぞ」


 旦那様に差し出されたオムライスに視線を移し、私は息を呑んだ。


 でっぷりと膨らんだ黄色い卵の上を閃光のように走る赤茄子の濃い色合い。ふんわりと鼻孔をくすぐる甘い香り。


 オムライスを前にした今、つい先程まで白米を求めていた口内は一瞬にして、洋食特有の味付けに恋い焦がれてしまっていた。


 箸からスプーンに持ち替えて、「えいや」のかけ声と共に焼き卵を割って中の赤茄子ごはん諸共にすくい上げた。そして、流れるような所作でスプーンを口元へ運んでいき――――もぐっと。


「ほわわわわわぃッ!」


 口に含んだ瞬間、濃厚な卵の甘みがふわっと広がり、続け様に一噛みすると赤茄子ごはんの酸っぱさが混ざり合った。これぞ洋食! という華やかな美味しさに思わず跳びはねたくなる衝動を懸命に抑えつけ、ひたすらにオムライスを食べ進めた。


 焼き卵はふわとろの半熟で、老舗旅館の女将だからこそ可能な匠の技を感じさせる。バターの風味も一際強く、卵の甘さを力強く引き立てている。作り手が違えばオムライスというものはこうも変化するのか、と帝都の洋食屋のオムライスとはまた異なる美味しさに私は感極まった。


 そうして無我夢中で食の極みを愉しみ続け……、すっかり食べ終えた後、旦那様は居住まいを正して私と向き合った。


「色葉」


 対する私は食べすぎてポンポンに膨らんだおなかをできるだけ隠し、平静を取り繕いつつ、月明かりに照らされた旦那様の顔を見上げた。


「は、はい、旦那様」


「少し、いいか」


「……? もちろんでございます」


 おどおどと頷いた私を見つめ、旦那様は薄い笑みを浮かべながら浴衣の懐から小さな木箱を取り出した。


「これを」


 夜の闇にまどろむような静かな声色で旦那様は仰り、木箱を私の前に置いた。


 それは、寄木細工の秘密箱だった。


「わ……」


 繊細で美しい作りに引き込まれ、私は小さく息を漏らした。


 色合いの異なる木が複雑に組み合わされて象られた綺麗な幾何学模様。その模様は無数の円形が連なっており、どことなく七宝つなぎにも見える。七宝つなぎは調和や円満を意味する縁起の良い柄……そして、私のお気に入りの着物と揃いの模様だ。


「……綺麗」


 からくりの仕組みを理解し、決まった手順で板を動かして秘密を解き明かしていくことでのみ開封できる木箱。そんな素敵な浪漫が詰まった工芸品、それが寄木細工の秘密箱だ。


「旦那様」


 そっと両手で秘密箱を抱えると、想像だにしていなかった滑らかな手触りに驚いた。


「あの……もしかして、これ」


 私の問いかけたいことを察してくれた旦那様は小さく首肯し、墨絵の扇子を指先で弄んだ。


「……ああ。扇子の礼だ。……受け取ってくれるか?」


 そう仰った旦那様の声の隅々に不安の色を感じ、私は左胸の辺りの高鳴りがいつも以上に大きくなっていくのを感じ取った。


 私が旦那様への贈り物を選んでいる間、旦那様もこっそりと私への贈り物を選んでくれていたのだ。……あの時、私が旦那様のことだけを考えていたように、旦那様も私のことだけを考えてくれていたのだろうか。


 そう思いながら秘密箱を眺めると、目頭がカッと熱くなった。そして、心の奥深くから込み上げてくる感情は瞬く間に全身に伝播し、身を震わせ、やがて大粒の涙となってぼろぼろと零れ落ちた。


 旦那様が私のためだけに贈り物を選んでくれたなんて。


 なんて嬉しいのだろう。


 十九年の人生の中で私は何度も涙を流してきた。お父様が亡くなった時、お母様にぶたれた時、彩花ちゃんに罵られた時……悲しくて、辛くて、苦しくて、寂しくて、私はめそめそと泣いていた。


 けれど、これまでの涙と今の涙は違っていた。こんなにも温かな涙は初めてだった。


「ありがとうございます……旦那様」


 高鳴り続ける左胸の辺りに秘密箱を添えて、私は旦那様から目を逸らすことなく、真っ直ぐな言葉を口にした。


「色葉は幸せ者でございます」


 私の言葉を聞いた瞬間、旦那様の双眸が潤むように揺れ動いた。


「……色葉」


 ほんのりと掠れた声で旦那様は私の名を口にした。


「色葉……」


 再び、私の名を。


「色葉」


 三度(みたび)、名前を呼んだ後、旦那様は墨絵の扇子を大きく開き、自らの首筋を軽く扇いだ。


「……いかんな。どうも酔ってしまったようだ」


 旦那様は麗しい眉毛をへの字に曲げて、弱々しく首を横に振った。


 初めて見る旦那様のくたびれた姿は妙に艶めかしく、魔性の色香を振りまいていた。秘密箱を懐から取り出した時にはだけたのであろう、浴衣の襟から透き通るような白い肌がちらりと垣間見えていることに気づき、私は慌てて視線を逸らした。


 と同時に、旦那様の先程の言葉を思い返し、首を傾げた。


 ……はて。旦那様はお酒を飲んでいないはずだが。


「ふははっ」


 自嘲するような薄っぺらな笑い声を上げて旦那様は甘い言葉を続けた。


「色葉。お前の愛おしさに酔ってしまったのだ」


 ぼっ、と胸の奥が熱を帯びたように温かくなるのを感じ、私は秘密箱をぎゅぎゅっと押さえつけた。


「いや、すまぬ……」


 白銀の髪をわしゃわしゃと無造作に掻き毟り、旦那様は美貌を情けなく歪めた。


「何を言っているのだ、オレは。……悉く、柄にもない。忘れてくれ」


「……いえ」


 懇願するように仰った旦那様を見上げて私は力強く首を振った。


「忘れません」


 目を丸くした旦那様に見つめられたまま、私はにこりと笑ってみせた。


「忘れられません」


 だって、秘密箱に大切にしまっておきたいほど、とっても愛おしい言葉だったのだから。


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