参の七 白銀の風
私は百年前に人と妖怪を殺戮し、旦那様に成敗された大妖怪・空亡だった。
以前、坂田さんから聞いた空亡のことを思い出し、記憶に焼き付いた自分の正体と完全に符号することを私は理解した。
百年前、旦那様に殺された大妖怪・空亡が何故、現代で人間・照山色葉として生きているのかはわからないが……そんなことは今やどうでもいい、どうしようもないほどに些細なことだった。
百年の時を経て。
今度は帝都を火の海に沈め、大切な人々諸共に全てを破壊してしまうのだろうか、と胸が張り裂けそうだった。坂田さんも、唐傘さんも、提灯さんも、朧さんも、そして、大切な旦那様さえも。
「お母様……彩花ちゃん……」
私は呆然としながら、ゆっくりと、燃え盛る炎の手を伸ばした。
その瞬間。
吹き荒ぶ白銀の風が私の炎を包み込んだ。
「色葉」
凜とした声で名前を呼ばれ、私は目を見開いた。すると、目の前には一人の男性が悠然と立っていた。燃え盛る私の手を優しく握りしめ、穏やかな笑顔を携えて。
「旦那様……!」
百年前、空亡だった私を殺した塵塚怪王。
照山色葉という私を見初めて結婚してくれた旦那様。
「大丈夫だ、色葉。もう、大丈夫だ」
そう仰った旦那様は私の身体を力強く、それでいて、柔らかく抱きしめた。
「だ、ダメです……私の身体に触れては……」
「何を申す。オレとお前は夫婦ではないか」
「……! ですが、私は……空亡なのですっ!」
今にも消え入りそうな掠れた声で私は吠え叫んだ。しかし、旦那様は動じることなく、私の身体が燃えていることなど一斉厭わず、抱きしめ続けた。どれほど私が懇願し、泣き喚いたとしても、何一つ動じずに。
「たとえ、百年前のお前が空亡だっとしても、今のお前は違う。色葉という一人の人間だ。だから大丈夫だ」
「でも、でも、でも! 私は今、お母様と彩花ちゃんを殺そうとして――!」
「それは空亡の力が暴走したからだ。お前の本心ではない」
毅然とした声色で仰った旦那様は柔和に微笑み、私の髪をそっと撫でてくれた。
「私を……空亡を恨んではいないのですか? 百年前、旦那様の仲間を沢山奪ったのに……」
「空亡とて、人の憎しみから生まれ堕ちた存在だ。そこに悪意はない。……それに、仲間を守れなかったのは、ひとえにオレが弱かったからだ。お前が気にすることは何一つとてない」
私は更に反論の言葉を吐き出そうとした。自分がいかにおぞましい怪物で、罪深い存在なのか、詳らかに晒してしまおうと声を荒げた。だが、どう足掻いても私から手を離さない旦那様を見て、これ以上何を言っても無駄であることを悟った。
私の全てを旦那様は受け入れてくれているのだ、と。
「……旦那様」
旦那様の腕に抱かれていると心に渦巻いていたドス黒い感情はとろけて無くなり、やがて全身の炎は消え去っていった。
ふと我に返って辺りを見渡すと、お母様と彩花ちゃんがそそくさと逃げ去る後ろ姿が見えた。
「すまなかった、色葉」
私よりも先に謝罪の言葉を口にして旦那様は深く頭を下げた。
「お前が空亡の転生体であることは、縁談の日に一目見た時から気づいていた」
「え……?」
「だからこそ、婚礼の儀を急いだのだ。結婚にかこつけて、お前を近くで見張り続けるために。万が一、お前が空亡として危険であると判断したらいつでも始末できるようにな……」
旦那様の語った真実に私は驚くことはなかった。悲しむことも、怒ることも、何もなかった。ただ、これまで疑問だったこと――私といきなり結婚した旦那様の真意を知ることができて、心地よく腑に落ちていた。
「酷い話ですまぬ」
と、再び謝った旦那様に思いっきり首を横に振って私は開口した。
「でしたら、空亡の力を顕現させた今の私は始末した方が――」
「馬鹿を申すな。今回は憎悪の感情が暴走しただけだ。お前の意思では断じてない」
私の言葉を押しのけて旦那様は声高々と仰った。
「始まりは、そのような偽りの結婚だった。だが、共に過ごすうちに、空亡の転生体としてではなく、一人の娘としてお前を見るようにいなっていった。端的に言えば、お前に惹かれていったのだ」
旦那様の凜とした声色から紡がれる言葉に私は全身が熱くなるのを感じた。それは空亡の炎の熱さではなく、嬉しさと恥ずかしさがない交ぜになった幸せによる温もりによるものだった。
「最初はやはり、ソーダ水を飲んで仰天しているお前を見た時だ。覚えているか? お口の中がデモクラシイ! ぷっ! はははははっ! 何度思い返しても傑作だ!」
「だ、旦那様……っ」
大笑いする旦那様を見上げ、私は恥ずかしさのあまり頬を膨らませた。子供じみた行為だと思いつつも、童心に戻ったような心地がとても愉しいものだった。
「ふふっ。千年以上生きてきて、お前ほど愉快なヤツは見たことがない。コロコロと変わる表情を見ているだけで心が和らぎ、幸せに満ち溢れていく。次は何を食わせてやろうか、何をして驚かしてやろうか、と無性に心が弾んでしまうのだ」
魔性の美貌を無邪気な少年のように綻ばせ、旦那様は朗らかに言葉を繋げた。
「それこそがお前の才能。そう、好かれる才能だ」
「好かれる、才能……」
「坂田も、唐傘と提灯も、がしゃどくろも、九尾と刑部も。更には、毎日の如く屋敷を訪れる妖怪達も。そして言うまでもなく、このオレも。皆が皆、お前のことを心より好いているのだからな」
「そ、そんなこと――」
――ない。
そう、言ってしまうのは簡単なことだった。私なんかが、といつものように卑下するだけだ。だけど、それでは旦那様の思いを無碍にするだけだ、と私は喉元まで出かかった後ろ向きな感情を思い切って呑み干した。
そして、心の底から湧き上がってきた言葉を――私が本当に伝えたい言葉を、そっと口にした。
「……ありがとうございます」
旦那様に身を委ねて抱きしめられていると、左胸の辺りの高鳴りが際限なく激しくなっていくのをひしひしと感じとった。それはもう、どうしようもないほどに果てしなく。とろける蜂蜜のように甘く、幸せな時間だった。
ふと、旦那様の胸元からも高鳴りの音が聞こえてくることに気づき、私は得も言われぬ嬉しさを噛み締めた。
「このまま、お前を独り占めしたくなってしまった」
甘く囁いた旦那様を見上げると、その顔はほんのりと朱に染まっていた。
「行くとするか」
「え? 行く、と言いますと……?」
私の問いかけに旦那様は薄く笑った。
「新婚旅行に決まっておろう」




