参の六 私
「ど、どうしてお二人が……?」
「大切な娘の顔を見に来るのに何か問題でもあるのかしら」
久しく感じていなかったお母様の威圧感に私は足がすくんで動けなくなった。まるで、蛇に睨まれた蛙のように。
「い、いえ……も、申し訳ございません……」
震える声を必死に絞り出した私を冷ややかに笑い、彩花ちゃんは心の底から不快そうに肩をすくめた。
「私達の気持ちも知らず、お姉様ったら相変わらず酷いのね」
そう言って、彩花ちゃんは私の淡い桜色の着物に刺々しい視線を向けた。
「それにしても、お高そうな着物を着せてもらっちゃって。お姉様のくせに生意気だわ」
「本当ね。色葉には勿体ない代物よ。そんな着物を買うお金があるのなら、私達に仕送りの一つや二つしてくれたら良いのに……。この親不孝もの!」
お母様の怒声が庭に響き、いつものようにぶたれると思って私は反射的に身を屈めてしまった。
「あーあ、お姉様のせいでお父様が死んで、私達は毎日ひもじい思いをしてるっていうのに。お姉様だけ贅沢三昧だなんて許せないわ」
旦那様と結婚してから言われることがなくなった罵詈雑言の数々が、私の心の内側をぐじゅぐじゅと蝕んでいく。幸せに慣れてしまっていた私にはそれらの言葉を受け止めることも、受け流すことも、受け入れることもできなかった。
ただ、なすがままに心がひしゃげていく。
「欲しいものも買えず、美味しいものも食べられず、私達はずっと不幸なのに!」
憤怒の形相を浮かべるお母様の二の腕には煌びやかなハンドバッグがみちみちと食い込んでいた。
「呪われているくせに結婚して、一人だけ幸せになろうだなんて下劣だわ。お父様がいない私が女学校でどれほど辛い思いをしているか、お姉様は知らないのよ!」
二人の金切り声が私の頭の中に赤黒い記憶を蘇らせ、眩暈を巻き起こした。あの日の轟く雷鳴と、篠突く雨の音が鼓膜の奥で延々と響き渡る。旦那様のおかげで少しずつ薄れていった罪悪感が再び、グツグツとおぞましい音をたてて煮え滾っていくのを感じた。
「ところで、あんたの旦那はどこにいるの? さっさと会わせて欲しいんだけど」
「だ、旦那様に……?」
黒く渦巻く感情を抑えつけながら、私は何とか言葉を返した。
「聞くところによると、妖怪のくせに不動産業でたんまり儲けてるそうじゃない。だから、色葉を利用してお金を搾り取ってやろうと思ったのよ」
「そうそう、最近は朧さんも羽振りが悪くなってきたから、そろそろ鞍替えしないといけないの」
二人の話す言葉の意味を私は理解できなかった。いや、理解したくなかった。同じ血が流れていることさえ、拒絶したかった。
だけどお母様と彩花ちゃんはいやらしく笑って、私に擦り寄ってきた。
「それにね、色葉。これはあんたのためでもあるのよ」
「そうよ、お姉様。出来の悪いお姉様を私達は助けに来たんだから」
「え……?」
無知な私を諭すようにお母様は猫撫で声で言葉を続けた。
「今は結婚したばかりでチヤホヤされているみたいだけど、どうせ長続きはしないに決まってる。愚図のあんたなんてすぐに嫌われて、ゴミのように捨てられるに決まっているわ」
「お姉様は何の取り得もないガラクタなんだから」
ぐにゃり、と地面が歪むような錯覚を感じた。
ああ、旦那様の顔が見たい。旦那様の声が聞きたい。旦那様に会いたい。と、はしたなくも恋い焦がれるほど、私の心は参っていた。結婚するまでは二人の罵詈雑言なんて当たり前のことだったのに。
これが、幸せが弾けて散っていく感覚なのだろうか、と胸が痛くなった。
「ねぇねぇ、お母様。塵塚雪嶺という殿方はどのような人物だと思います? 私は、お姉様なんかにお高い着物を着せるなんて随分、趣味が悪い方なんだと思いますわ」
わざと私に聞こえるように大きな声で彩花ちゃんは言って、ゲラゲラと笑った。
「ろくでもないクズに決まっているわ。だって、妖怪なんでしょ? しかも、ゴミの付喪神とやらの王様だとか……。絶対、醜くて汚くて臭くておぞましい化け物よ。おおっ、想像するだけで吐き気がする」
「ゴミの王様に嫁ぐなんて、ガラクタのお姉様にピッタリね!」
お母様と彩花ちゃんは旦那様に対する酷い言葉を執拗に吐き出し続けた。
「――――っ」
やめて、と言おうとしたが言葉にならなかった。
喉が酷く渇いていた。ちりちりと燃えるように痛かった。
沸々と、何かがこみ上げてくる衝動を感じた。それは胃の底の、底、もっと深く。肉体の奥深く、心の裏側の果ての果てから。
赤黒く。
黒々と。
ドス黒く。
煮え滾る感情をもう抑えきれなくなっていた。
お母様、やめて。旦那様を悪く言わないで。彩花ちゃん、やめて。旦那様はそんなお方じゃない。私の悪口はいくらでも言っていいから、旦那様のことを馬鹿にするのはやめて。旦那様を巻き込むのはやめて。
そうじゃないと私。
私。
もう。
――――バチッ。
何かが爆ぜる音が聞こえた。
「お、お姉様……?」
それは彩花ちゃんらしくない、恐怖にまみれた声だった。
「な、なにそれ……ひぃ! ば、ばけものっ!」
お母様と彩花ちゃんは顔面蒼白で私を見つめ、恐れ戦いていた。
何が起きているのかわからず、私はゆっくりと自分の身体を見渡した。右手が燃えていた。轟々と、赤黒い炎が覆い尽くしていた。更に、左手も、おなかも、脚も……どうやら私の全身のあらゆる部位が赤黒い炎で燃え盛っているようだった。
自分の身体が燃えているというのに、熱くも痛くもなく、どこか心地いい。
「…………」
私はぼうっと見ていた。
双眸に映るのは醜く命乞いをするお母様と彩花ちゃんだったけれど、私の脳裏には別の光景が鮮明に蘇っていた。
赤黒く焦げた死体が転がっている。
お父様の死体ではない。まったくの別人。
しかも、それは一つではなく、あり得ないほどの数だった。赤黒い死体の山々。
轟々と燃え盛る私の身体。
瓦礫の上をぐしゃぐしゃと踏みしめる、私自身。
空は黒く焼け焦げ、太陽は紅く燃え盛り、大地は白い灰になっていた。
それらは、江戸の街だ。百年前の、江戸の街。赤黒い死体の山々は江戸に生きていた人々の成れの果て。そう、私が全てを焼き尽くしたのだ。
そして、私の前には白銀の髪の男性が黒い羽織を翻し、殺意のこもった眼差しを向けていた。
それは、百鬼夜行を束ねる妖怪の王。
塵塚怪王。
旦那様。
「……はぁ、はぁ」
目を背けたくなる真実を思い出し、私は乱れた息を吐き出した。
百年前、人々の憎悪の感情が寄り集まって生まれ堕ちた存在。心も感情も何も持たず、ただ、ひたすらに、無秩序に全てを焼き尽くす死の太陽。江戸の街を燃やし、数え切れないほどの人と妖怪を殺し、最終的に旦那様によって殺された大妖怪。
それが私。
空亡。
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